完全探偵小説

春原 恵志

第1話 プロローグ



 かれこれ1時間はここで待っている。約束は午後3時だったはずだが、ひょっとすると日にちを間違えたのだろうか、不安になって先ほどから何回もメールの内容を確認するが、やはり今日で間違いがない。となると誘った本人が勘違いでもしているのだろうか。

 神保町の老舗の喫茶店。ほのかな明かりの間接照明と静かなピアノ曲が流れるアンティックな店内で、すでに冷えきってしまったコーヒーが残りわずかになっている。そろそろ追加で注文しないとまずい気もしてくる。いや、しかしお金を払って注文したものを飲んでいるのだから、それはそれで問題はないはずだ。この店にも時間制限は無かったはずだなどと、もう一人の自分を言いくるめる。俺は追加の注文が出来るほど裕福ではないのだ。ここのコーヒー代で晩飯の弁当代が払えるぐらいだ。

 ここはそれなりに薄暗くて居心地はいいのだが、さすがに1時間は長い気がする。客も俺を入れて4人ぐらいだろうか、追加で注文をするべきか、それとも出直した方がいいのか、悩んでいるところで、ようやくお待ちかねの人物が現れる。

 入口のカウベルの音と共に颯爽と登場する。

「よお、しばらく」

 いかにも軽薄な感じで、遅れたことを謝ることもなく挨拶をするこの男は昴皇子(すばるみこ)という小説家である。

「えーと真治とはいつ以来だっけ?」

 いやいや、下の名前で呼び合うような仲じゃないだろうと思うが、あえて言わない。

「2カ月前かな、昴さんが主催した飲み会で会ったよ」

「そうだっけ」そうだよ、明らかに男女の数合わせで呼ばれただけだけど。

「どう忙しい?」

そんなわけないだろ、こっちはデビュー作以降、二作目をいまだに出版していない。小説は書き続けているが、出版社からはプロット段階でやり直しを言われ続けている。最近は編集に連絡しても迷惑そうでもある。

「いや、相変わらずだよ。いつまでたっても次回作のOKがでない」

「そうなんだ。俺なんか何書いてもいいみたいでさ。とにかく早く上げてくれってうるさくって」

 まさに嫌味にしか聞こえない。

昴とは同じ作家仲間である。いや、お互いに仲間とは思っていないのだろうが、同じ新人賞の大賞作家と佳作作家の間柄である。彼は受賞作からベストセラーを記録し、矢継ぎ早に作品を発表し続けるも、そのすべてが10万部を超えるベストセラーとなっていた。一方こちらはほとんどお情けの佳作で、元がわからないほどの推敲を繰り返し、ようやく出版した処女作は重版もなく、いまや古本屋にもないという、ある意味相当なレア本になっている。あれから2年経つが未だに2作目を出せないでいる。

「とにかく忙しくってさ、趣味の時間も取れないよ。ほとんど仕事部屋に缶詰状態だよ」

 昴とは歳も近く、新人賞授賞式の頃から妙に馴れ馴れしく寄り付かれていた。とにかく月と鼈の関係で、昴は国立大学の法学部卒で俺は三流私大の人文学部卒、家柄も良いトコのお坊ちゃんと貧乏人の子せがれといった、およそ結びつかない間柄なのだが、優越感に浸るためだけに付き合わされていると思う。そういった関係が嫌ならこちらから断ればいいのだが、そういうことができないのが俺の悪いところだ。

「それで、何事ですか?頼み事って?」

 ちょうどそこにウエイターがお冷と注文を聞きに来る。やつはエスプレッソなるものを注文する。なるほど注文する物も違う。

 昴は見るからに高級そうなバッグから何やら出してくる。

 見た感じ結婚式で見かける招待状のような白い四角い封筒である。

「これなんだけどさ」

 その招待状を受け取る。「見ていいの?」昴がうなずく。


 拝啓

 貴殿は厳正なる審査の結果、最終候補者に選定されました。つきましては来る6月5日から9日までの五日間、当主百瀬光一により催される祭典に参加していただき、その審査後、兼ねてよりお伝えの褒賞を受け取っていただきたくご招待申し上げます。

                                    敬具


 まさに結婚式の招待状よろしく、しっかりした案内状である。

「何ですか、これは?」

「そうだな。時間ももったいないからざっくりと説明するよ。百瀬光一は知ってるよな?」

「百瀬光一?誰です」

 昴はとたんに呆れた顔になる。「いやいや、百瀬光一を知らないの?」

「はい、すいません」何故か謝ってしまう。

「まあ、いいや、クレノロジーって知ってるだろ?」

「ああ、それは知ってます。有名な会社ですよね」

「そうそう、日本有数の大企業だよ。百瀬さんはその創始者で、一代でクレノロジーを日本のトップ企業にまで伸し上げた人物だ。さらに新たな分野にも次々と参入し、起業、買収を続けて事業を拡大させてきた。いまや百瀬ホールディングとして世界を席巻するところまできている。彼は日本が誇る大実業家だよ。それととんでもない資産家で、個人資産としては世界の20傑に入るはずだよ」

 そう言われてもどのくらいなのかがさっぱりわからない。とにかくお金持ちだということはわかる。

「すでに百瀬氏は引退して一線からは退いているんだけど、ボブスジャパンって知ってるかな?」いやいや、またわからない言葉が出てきたぞ。

「すいません。それも知らないです」

 昴は露骨にあきれた顔をする。「君はほんとに何にも知らないんだね。そんなんでよく作家業やってるな」

 いやいや、そんな状態だから次回作が出ないんですよ。貴方とは違いますって。「すみません」口からは違った言葉が出る。

「ボブスジャパンはアメリカのボブス社の日本法人で、簡単に言うと経済誌だな。そこが『これからの日本を変える50人』という催しをやったんだよ。百瀬氏や著名な実業家や学者たちを選者として呼んで、その企画に見合う人物を選定したんだ。まあ俺もそこで小説家代表として選ばれてさ」

「へー、それはすごいですね」褒められるのは好きみたいで昴は途端に嬉々とする。

「まあね。それでその会を支援したのが百瀬氏なんだ。いわゆるスポンサーだな」

 後で確認すると、これからの日本を変える50人というのは各分野、芸術、科学、実業家、政治家などから将来を嘱望される50名を選出するという企画だったらしい。将来を嘱望と言っても若年層だけではなく、40歳前半までを候補としたようだ。その芸術部門の小説家代表として昴が選ばれたということになる。

「ひと月ぐらい前かな。それの記念式典と受賞パーティがあって。俺はパーティにだけ参加したんだけど。そこで百瀬氏とも挨拶したんだ。そこで彼が言うにはその中からさらに候補を絞って、ある催しを考えてるっていうんだよ」

「催しですか?」

「うん、百瀬氏は現在、N県の山奥に住んでてね。さっきの招待状の住所だよ」

 招待状の住所までは見ていなかったが、そういうことか。

「そこで百瀬氏が独自に最優秀者を選ぶみたいなんだ」

「最優秀者ですか」

「50人の中からの最優秀者を一名ということだな」

「それはすごいですね」

「だろ、でさ、なんかその褒賞がすごいんだよ。何だと思う?」

「世界一周旅行とか」

「はあ、昭和のクイズ番組か」

 いやいや仕方ないだろ、貧乏なんだからそれぐらいしか思いつかない。

「それがさ、なんと彼の全財産を贈与するというんだよ」

 途端に訳が分からなくなる。なんだそれは。

「どういうことですか?」

「パーティで個別に話をしていたことだから、その祭典は個人的な催しのようなんだけどね。百瀬氏は80歳近くで余命もそれほどない。さらに独身で相続する人間もいないから、このままだと財産は国庫に没収されるらしい。それを良しとせず、将来性のある若者を支援するために、その最優秀者に全財産を譲渡するつもりだって言うんだよ」

「まじですか?」

「まじ、おそらく資産としては兆に近いと思う」

 一瞬、目がくらみそうになる。兆とは豆腐の単位ではないのだ。億万長者どころか兆億長者ということになる。

「その最優秀者をどうやって選ぶんですか?」

「その辺は現地に行ってからってことみたいなんだ」

「なるほど」

「それでさ、実は俺、それに参加できないんだよ」

「え、そうなんですか、それはもったいないですね」

「だろ、せっかく最終候補に残ったのにさ」

「どうして参加できないんですか?」

「締め切りだよ。次回作の締め切りともろ被りなんだよ」

「じゃあ、締め切りを待ってもらうとか、先に書き終えるとか、すればいいんじゃないですか」

「そんなに簡単なものじゃない。すでに締め切りも数回伸ばしてもらってるしさ、さらに2社掛け持ちなんだよ」

 いやいや、そんな無謀なことをしてるからじゃないかと思わず文句を言いたくなる。

「でさ、俺の替りに出てくれないかな」

「はあ?何ですって」

「やっぱり昭和のノリだ。古風な驚き方をするんだな」

「無理ですよ。俺にそんな頭は無いですし、それよりも昴さんの替りなんて出来るわけがない」

「そうかな。昔からよく言われてたじゃないか。俺と真治って似てるじゃん。頭の出来は別にして」

 ああ、一言余計なんだよ。確かに見た目とか雰囲気は似ているとよく言われる。編集さんからもぱっと見で間違えられることも多々あった。さらに才能も似てればいいのにねと、冗談とは思えない言われ方をされたこともある。

「騙せると思うよ」

「いやいや、無理ですよ」

「大丈夫だって、俺もそんなに媒体に顔を売ってるわけじゃないし、むしろ覆面作家並みの露出量だしさ。なんとかなるって」

「それに俺は裸眼だけど、昴さんは眼鏡ですよね」

 昴皇子は見るからに高そうな縁なし眼鏡を掛けている。

「だから、それが逆に好都合なんだよ。人の印象って眼鏡で大きく変わるんだ。眼鏡なしで君が参加すれば、昴って眼鏡じゃないとこんな顔なんだって、逆に騙されやすいと思うよ」

「そんな馬鹿な」

「いや、それで実際、試しに裸眼で出版社に行ってみたんだよ。そうしたら君と間違えられたんだよ。何しに来たのってさ」

 なんか微妙にむかつく話だ。

「ちょっとこれ掛けてみて」

 昴に彼が掛けていた眼鏡を渡される。わお、なんという軽さだ。これが眼鏡か。俺は言われるままそれを掛けてみる。

「やっぱりな。鏡を見てるみたいだよ」

 そう言われても自分ではよくわからない。眼鏡を返して話す。

「無理だと思いますよ。だって最終試験があるんでしょ、それこそ俺には絶対無理ですよ。そんな頭は無いです」

「それがさ、どうもそういった頭脳大会じゃ無いみたいなんだよ。よくはわからないんだけどね。運を天に任せるみたいな催しだって聞いてるんだ」

「宝くじですか」俺は冗談で言う。

「いや、あながち違うとも言い切れない。それに近いことかもしれない」

「まじですか?」

「まじだよ。それでさ、もし、君が優勝したら賞金は山分けってことでどうかな」

 あまりの提案に目が丸くなる。俺の生活はその日の金にも困る状況で、学生時代と同じアパートに住み、その頃と同じバイト生活に明け暮れている。それが一気に兆億長者になれるかもしれないというのか。

「少し考えさせてください」

「いいよ。だけど明日までに返事をしないとならないから、そこまでだよ」

 明日までとは厳しい話だ。招待状の住所を確認する。

 N県K群S町字榊原とある。いったいどの辺なのかがさっぱりわからない。田舎であることはわかるが、どこらへんなんだろう。

「現地へはどうやって行けばいいんですか?」

「マイカーがあれば車で行けるらしいけど、無い場合は最寄りの駅から送迎があるって話だ」

「最寄りの駅ですか」

「東京からだと3時間ぐらいかな。その駅も相当な田舎になる。その住所だと、そこからさらに車で1時間ってところかな」

「まさに陸の孤島ですね」

「そうだな。まあ百瀬氏は文明から離れたかったみたいだよ。それでそこまでの田舎に引っ込んだんだ。そこは昔、ホテルがあった場所らしい」

「ホテルですか」

「そこのホテルを中継して山登りをするといった登山客用の宿泊施設だったらしいよ。ところがその登山道ががけ崩れで利用禁止となって、そのホテルも廃止になったみたいだ。百瀬氏はそこを買い取って改修し、自宅として住んでいるというわけさ」

「なるほど、それで大勢が泊まれるわけですね」

「そう、コックや身の回りの世話が出来る従業員もいるようだよ。まさにホテル並みの施設らしい」

 そうなのか。そうすると無料でホテルに4泊できるというわけか、とたんに魅力的な話になる。どうせバイト以外にやることもないし、タダ飯が食えるとは良い話かもしれない。

「昴さんやっぱり行って見ます」

「おお、そうしてくれるか、うん、良い話だと思うよ。作家としても色々啓発されることもあるはずだし、面白いと思う」

「はい、ああ、でも昴皇子として参加するわけですし、昴さんの経歴やこれまでの経緯について、辻褄合わせをしたいんですが」

「うん、その点は大丈夫だ。俺の方でまとめた資料を渡すよ」

「身上書みたいなやつがあるんですね」

「そう、あと大事なことがある」

「何でしょう」

「そのホテル、山荘と言っているらしいけど、現実とは隔絶された世界みたいだ。つまりインターネットやテレビ、新聞などの媒体はまったく無いと思ってくれ」

「そうなんですか、今時、そういった世界があるんですか」

「うん、かろうじて有線電話だけはあるみたいだけど、外部との連絡手段はそれだけみたいだ」

「つまり現地では昴さんに連絡する方法がないということですね」

「そうなるな。だから何かあるならば、行く前に俺に問い合わせてくれ。後は真治がなんとか取り繕うしかないな」

「今時、不思議な話ですね」

「そうだな。とにかく百瀬氏は文明から離れたかったということみたいだ」

「そうですか、わかりました」

 なんとも不思議な話ではないか。いったいその陸の孤島で何をやろうというのだろうか。

 話も終わったようなので、前から昴に聞いてみたいことを質問してみる。

「昴さんは次から次へとヒット作を書き続けてますけど、どうやったらあのペースで小説を書けるんですか?」

「ああ、それか。実は昔から書き溜めてたアイデア帳があるんだよ。まあ、それだけじゃなく新しいアイデアがどんどん湧いてくるな」

 なるほど俺もアイデア帳は持っている。思いついたことを書き留めておくことは小説家には重要だ。ただ、それでも昴のように湯水のようにアイデアは湧いてこない。月に一回ぐらい、なんか思いつくぐらいだ。

「そうなんですか、それにしても書いてる速度が半端ないですね。下手すると毎月出版してませんか?」

「確かに月刊誌なみだって言われるよ。まあ、そのうちアイデアも尽きてくるだろうから今のうちだけさ」そういって時間を気にしだす。「じゃあ、そういうわけだから資料は別途、送るから」

 それだけ言うと、カプチーノを一口ぐらいしか飲まずに消えていく。

 昴が見えなくなって、ひとり店に残される。

 とにかく行くしかない。昴ではないとばれたら、それはそれで仕方が無いだけだ。それよりも旨く行ったら今の貧乏生活からおさらばできるのだ。その日の食べ物にも困るような、忌まわしい生活から抜け出せる。

昴が去った座席の前にはカプチーノが満杯で残っている。そしてそのたっぷり残ったカプチーノをどうしようかと悩む。周りを確認すると、見ているような人はいない。チャンス、素早く俺のカップと交換する。そして、これはエコのためなんだからと自分に言い訳をする。

貧乏なんか大嫌いだ。

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