第3話 心慌意乱
「すみません! あの、おじさんが……おじさん……」
入口を入ってすぐの窓口に私は駆け寄った。
大きなロビーがあるわけでもなく、長いベンチがひとつ置いてあるだけで、小さな調剤薬局のようだ。窓口の並びにドアがあって、何かをかざすための電子錠がついていた。
息を切らして、どう説明すればいいのかわからなくなった私に、アクリル板の向こうで髪を一つに括った女性が優しく微笑んだ。
「どなたかのご家族かしら?」
「いえ。あの、そう! これ!」
両手で握りしめていた物を小学生みたいに全部カウンターの上に出す。
女性は訝し気な顔をしたものの、メモに手を伸ばした。目が文字を追って、顔つきが変わる。途中で椅子から立ち上がり、カウンターの上のどんぐりの帽子とチョークを手早く回収して、どうしようかというような目で私を見た。
「……ええっと……状況はわかりました。お話も伺いたいところですが……」
女性は暗くなり始めた外を見やる。
「今日はこのままお帰り下さい。後日、改めて人を向かわせます。それまでどうか、あまり他人に口外しないでいただきたいのですが……」
「あ、はい。はい、わかりました。あの、おじさん、先にここに帰ってきてたり……」
女性はにこりと営業用のスマイルを浮かべた。
「そういうこともあるかもしれません。確認しておきますので、ご心配なく……あ、お名前だけ伺ってもよろしいですか?」
名を告げれば、彼女はサッとペンを走らせてから身を翻して奥のドアから出て行った。
それ以上できることも無くなって、少し気が抜けたまま、とぼとぼと家に向かう。
握っていた物がなくなると、とたんに現実味が失われてしまった。
私は廃墟で居眠りしてしまっただけなのでは。
女性が「人を向かわせる」と言ったことだけが、リアルの輪郭をなぞっているようだった。
あれ? これ、不法侵入を怒られるだけだったり?
帰り着いて母親に「遅かったね」なんて言われても、ちょっと上の空だった。
脱いだ制服をハンガーにかけようと持ち上げて、ふと、おじさんの言葉が甦った。
『今のと違うだろ』
セーラーの襟の隅に三つの円が重なった三つ葉のような模様がついている。おじさんの言う通り、みんなの制服とはそこが違うのだ。よく見ればスカートのひだの数も少し違うらしい。
実はこれ、お婆ちゃんの時代の制服だったりする。リボンの色も違ったらしいが、そこは新しいのを買ったのでみんなと一緒だ。
古いものだけど、お婆ちゃんはほとんど袖を通さなかったので全然綺麗だった。だから、学校の許可を得て着ている。卒業するときには、資料として寄付する約束にもなっているのだけど……
「お婆ちゃん、小夜子って名前だったな……」
偶然の一致か、それともやっぱり……
「タイムマシン、かぁ……」
呟いて、いつもの場所へハンガーを引っ掛けると、私はぺこぺこのお腹を満たすために、リビングへと向かったのだった。
*
次の日の昼休み、女子の間でちょっとした騒ぎがあった。
騒ぎというか、イケメンの転校生が来たらしいと、学年中の女子が入れ代わり立ち代わり五組を覗きに行ったのだ。
「
「あーん。どうしてうちのクラスじゃないのー?」
「月ちゃんも見に行こうよ!」
あんまり興味はなかったのだけど、和を乱す気もないので腕を引かれるままに廊下に出た。一組から五組までは結構な距離があるので、みんなちょっと急ぎ足だ。
その出足をくじくように
「おっ。深山、ちょっと待て」
振り返れば、こいこいと手招きされる。
足踏みしている友人たちに「行ってて」と手を振って、私は反対方向に足を向けた。
担任も私が近づくと踵を返す。
「ちょっと来い」
「え。なんですか?」
「深山の家は代々この町に住んでるんだよな?」
「そうですけど……」
「三角山も詳しいもんな?」
「だから、なんですか?」
別に昔から住んでいるというだけで、偉い人だったとか、家が大きいとかもない。なんなら、クラスの三分の一はそういう家の子だ。なぜ私なのかと若干不安になりながらもついて行けば、教育相談室に案内された。
怒られるようなことはしてないぞ! と、ドキドキしていたのだけれど、ドアの向こうには昨日メモを託した受付の女性がスーツを着て座っていた。
担任は「それじゃあ」とドアを閉めて行ってしまう。
「昨日は慌ただしくてごめんなさい。先生には、町と三角山の歴史を聞きたいのでアポを取りに来たって言ってあるから」
「あ、はい」
「ちょっと込み入った話になるから、放課後に時間が欲しいの。学校が終わったら、そのまま研究所まで来てもらえるかしら?」
「いいですけど……おじさん、いました?」
「その話をするわ。でも、ここではできないから……晩御飯までには帰してあげられると思う」
「わかりました」
「ありがとう。よろしくね」
そうして彼女はまた慌ただしく出て行った。「ここではできない話」に不安が膨らむ。
教室に戻れば、始業のチャイム間際に五組から帰ってきたミーコたちに「放課後にもう一度行こう」と誘われた。家の用事があるからと断ったけど、そんなにイケメンだったのかな。
いやいや。
都会っ子なんて話も合わなそうだし、やっぱりそこまで興味ないなと思い直す。
放課後玄関に急いだ私は、すれ違った用務員さんに「さよーなら」と挨拶して、ベージュの作業服にあれ? と振り返った。
うちの用務員さんの作業服ってベージュだった?
振り返った廊下には生徒しかいなくて、私はキョロキョロとベージュ色を探してしまった。
なんだか違和感があるのに、何に違和感を持っているのか曖昧になっていく。不安にも満たないそわそわした感覚に、私は研究所へと足を速めたのだった。
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