第三話
「早く部活したいよ!」
入学式も終わり、多くの生徒たちが保護者とともに帰って行く中、真広と結香は理由なく教室で屯していた。結香は心なしか萎びた声で言葉を続ける。
「私たち中学生になったんだよ」
結香は言葉の感触を確かめるように言った。その言葉にはわずかな高揚や期待が滲んでいる。結香にとっては中学生になったということは自分の可能性が広がったと同義だった。とにかく初めての事ばかりだったからはやくその事を試したくてたまらない気持ちだった。
「あー早く部活やりたい」
部活動体験は明日、四限の授業終わりから始まる。白銘は部活動に入ることを推奨しているということもあり、部活動体験が早めに設定されている。強制では無いが、ほとんどの生徒が入っていた。そのせいかバスケ部と吹奏楽部、卓球部が地方大会まで進むほどの強さを誇っている。
しかし真広も結香も大会を目的としているわけではなかった。結香は楽器を吹くことを目的としていたし、真広に至っては結香の付き添いだ。その場の流れに逆らうことができなかっただけ。
ただぼんやり時間を過ごしていた。なにか間を埋めるように結香が口を開いたとき、音が聞こえた。一瞬その音に全ての音が吸収されたようにしんと静まった。真広の体が無意識のうちに震えたのがわかった。音の大きさのせいではない、もっと別の心理的なものだった。感動に似たなにかで、まだ一度も感じたことのない感情だった。
トランペットの音だ。
ふと、結香が呟いた。それもまた真広の震えと同じ無意識のものだった。口から溢れた言葉は教室のなかに留まり、二人の肺をわずかに湿らせた。
「トランペット……」
真広はオウム返しのように言う。その言葉は結香にも届き、彼女は大きく頷いた。続いて、うれしさと興奮の滲んだ声で押しつぶすようなへんに縮こまった声で言った。
「そう。吹奏楽花形の楽器。一番かっこいい楽器」
真広の頭の中でトランペットの姿が思い出された。先端が広がっているベル、押すたびに音を変えるピストン。断片的ながらも色濃い彩を放つそれらは結香にとって、多少なりとも真広にとっても、特別なものだった。
真広は立ち上がって音の方に視線を向ける。向けた先は音楽室だった。視線の先からは今も絶えず真っ直ぐな音色が伸びている。
「行ってみよ」
結香は言うと同時にバッグを持って立ち上がった。がたんと大きな音が鳴って、先ほどまで辛うじて保たれていたしんとした感覚が消え去った。その勢いのまま、結香は真広の分のバッグも持ち教室から走り出すように出ていった。
「えっ」
真広の声は結香には届いていないようで、興奮してかけだした結香の背中を押し出すだけにとどまった。
一人残された教室で、またしんとした感覚に襲われる。どこか攻撃的で人間的で魅力的な感覚をずっと思い出していた。それは確かな色合いをもって、心のなかに巣くった。
もう一度、軽やかな音が響いた。今度は音階。スケールだった。丁寧に移り変わる音階は奏者の性格を思わせる。真広ははっと思って、そっと席を立った。静謐な教室になった。
音楽室や理科室の入っている教科棟三階、第二音楽室前の廊下には一人の少女がいた。胸元に携えてある朱色の紐リボンは日に照らされ、どこか幻想的でもあった。
ミディアムヘアの髪が揺れる。日光に透かされたブルネットの髪は彼女の出で立ちをより特別にしていた。少女のスリッパは二年生が履く若葉色をしている。
手元には銀色のトランペット。YAMAHA、TR-500。白銘中学で買い揃えられた備品だ。
大勢の人間が紺色のカーディガンを着ているというのに、少女だけは真っ白なブラウスを着こなしている。手元で日光を反射しているトランペットと、わずかな日光を反射させているブラウスのせいで、少女だけ別世界にいるかのようになっている。
少女は軽く肩を回し、脱力する。そのままトランペットを構え、そっと息を吹き込んだ。転がる音は廊下の中を駆け巡り、そのまま窓から校舎の外へ飛んでいく。
「浬緒、まだ音出し禁止ですよ」
トランペットの音色の間を縫うように声が飛んだ。少女はたっぷりと音を伸ばし、音を切り、自身の音の処理の甘さに納得できない表情を浮かべた。
「ごめん、ちょっと吹きたくなったんだって」
浬緒はあっけからんと言って、もう一人の少女、すずりはちいさくため息をついた。ボブカットの髪が可愛らしく揺れた。
「好き勝手されると困りますよ。怒られるのはいつも幹部なんですから」
本心から紡がれた言葉は浬緒に上手く伝わらず、彼女は大きく笑った。
「はいはい。ごめんなさいね、副部長サマ」
浬緒がからかうように言い、すずりは面倒臭さを隠さずにわざとらしくため息を吐いた。またですか、と言うのを抑え、その代わり大きく息を吐いた。
「腹式呼吸でちゃんとした?」
またからかうように言った浬緒の言葉に今度こそため息すらつくのさえ億劫になり、おざなりに「はいはい。早く戻りますよ」とだけ言った。有無を言わさずすずりは廊下を進んで音楽室へ向かう。浬緒もそれに続くようにスリッパを鳴らした。
「あのっ」
廊下に声が響いた。興奮が抑えられていない声だった。
浬緒はゆっくりと緩慢な動きで視線を動かす。その瞳は興味あり気にきゅっと細められた。
「その……」
少女は大きく息を吸った。一年生が履く海を思わせる深い青いスリッパが廊下で影を作っている。肩が大きく震えていた。緊張が体の節々から溢れていた。それが妙に二年前の自分を想起させて無性に浬緒は逃げ出したくなった。
「好きです」
へんに浬緒の息が詰まった。すずりはひそかにふっと笑い声とも驚きともとれる息を吐いた。すずりの視線の先にはただ興奮した面持ちの少女が立っている。
「す……」
浬緒は自分の考えをまとめるためにもう一度声を出した。出しただけでそれに意味は生まれなかった。ただ、考えをまとめようとして、ぐしゃっとさせた髪が優しく陽を受けていた。放課後の独特な雰囲気がそこにあった。
真広が着いた頃には突っ立っている先輩と、髪が乱れた先輩と見つめ合っている友人の姿があるだけだった。
「えーっと、どういう状況?」
真広の疑問だけ、ぽつりと廊下に転がった。やけに軽いそれは今にも飛ばされそうだった。
廊下には優しい春の陽光があり、それをトランペットが鈍色に跳ね返している。時折、持ち主の動揺が伝わったのか、トランペットは光を連れてゆらっと揺れた。線がそっと廊下を撫でる。一瞬で消えたそれはその場にいた真広と結香にわずかな余韻を与えた。
「告白の場面に立ち入ってしまったようで」
後ろに突っ立っていたボブカットの先輩が朗らかに言った。それでなんとなく、真広には結香がやらかしたんだろうなとすぐに察しがついた。一体何をやらかしたのか皆目見当もつかなかったが。いや、実際には気が付きたくなかったというのが本当のところ。
真広は告白、と口の中で言葉を転がす。今まで一度もしたことがないしされたこともないことで、この先一生縁がないだろうと思っていたが、まさか自分がそのしている場に出くわすとは思っていなかった。事後だが。
「それで返事はまだというところ」
ニコニコと笑いながら名前の知らない先輩はそっと言葉を添える。わずかに傾けられた首のせいで、肩口で揃えられた横髪がそっと彼女の顔を少し隠した。わずかに赤くなった頬その日本人らしい濡羽色の黒髪はよく映えた。
「告白したの?」
真広は思わず結香の隣に行き、耳元で聞く。さすがに普通の声量で聞くのは憚られた。
「思いは伝えたよ? あなたのトランペットの音がすきって。でも告白じゃないけど?」
結香はきょとんとした顔で言った。通常の声量で言われたその言葉はやけにはっきり廊下の中に響いた。もしかしたら廊下は隠し事を話すことに向いていないのかもしれない。地下鉄の階段やホームや、エレベーターの中のように、どこか閉塞的だから。
ぼんやりそんなことを思って、そっと先輩たちの方に視線を向ける。
トランペットを持った先輩は安心したように力を抜き、奥にいる先輩は呆れたように顔を下げていた。
「すいません、先輩たち。悪気はなかったんです。この人も」
真広は結香を指さしながら言った。とうの本人はいまだきょとんとしていて、理解していなかった。自身の思い、とりわけトランペットの音色に対する愛を叫んだだけであったのだから、それが奏者、人間に向かっているとは思わなかったのだろう。
「あ、うん。なんか、どっと疲れたよ」
トランペットを持っていない手でぱたぱたと手で顔を仰ぎながら少女は言った。合間を埋めるように意味のない行為で言葉であることは自覚していた。ただ、そのままそっと逃げ出せない時間だったから、彼女は反射的に言葉を紡いだ。自衛といえば聞こえはいいが、ただ臆病なだけであった。少女はそれも自覚していた。
「浬緒」
優しい声がした。奥にいた先輩の声だった。その言葉で浬緒ははっとした表情になって打たれるように声の元へ向かった。
「じゃあね、新入生! あしたの歓迎演奏来てね」
「助かった」
浬緒が二階に続く階段を降りながら呟いた。その声は階段を降りるスリッパの音に潰された。
「なにがです?」
すずりが呟いた。素っ気ない態度だった。彼女が踊り場で甲高い足音を立てて体の向きを変えた。一瞬陽に透かされた髪が薄く白染まり、氷雨のように見えた。
「や、さっきの」
「なにもしてないですよ。あと少しでミーティングですし、遅れたらいけませんから」
すずりは心の中に残っていた僅かながらの残念な気持ちを悟られないように済ました顔で言った。本音をいえばもう少し弄ってみたかったが仕方がない。それを見て、浬緒はにこにこと笑った。
「ありがとね」
浬緒は友人の後ろ姿を眺めながら言った。そっと追いつくと、浬緒の影がそっとすずりの背中を覆う。垂れた影が醜いほど優しい。浬緒は自分がどんどん惨めになっていく感覚がして、思わず一段飛ばしで階段を降りた。すぐに友人の横顔が視界に映る。それが少し嬉しく、愛おしく、眩しかった。その表情は浬緒からは横髪に隠されて上手く見えなかった。ただ、髪のせいで、笑っているような泣いているような、へんな黒い線が生まれたことは確かだった。
結局、浬緒はその一瞬に生まれた感情に蓋をした。
「明日、あの子たち来ると良いね」
「来ますよ、うちは強いですから」
「音楽に強い弱いもへんな話だけどね」
少女二人、階段を降りながらからからと、妙に乾いた言葉ばかり交わしていた。それは諦めにも、盲目にも似ていた。
いつの間にか二階の音楽室の前に立っていた。中から人の声が絶え間なく聞こえている。スリッパを脱いで、どちらかともなく深呼吸をした。浬緒が扉に手をかけた。
開かれて、一瞬声が遠くなった。しかし、音楽室独特の絨毯の匂いと楽器の金属の匂い、オイルの匂いとが混ざった嗅ぎ慣れた匂いが二人を包んだ。
浬緒は少し焦りながら自分の席に向かう。雛壇の上、指揮者に一番近い中心の席の一つ隣の席。浬緒はそこに座る時、いつも緊張してしまう。去年の三年生が卒業してからというもの。、浬緒の席はすずりの隣だった。そのことが安心する原因であり、心がすり減らされる原因でもあった。
席に座って、楽器を膝の上に置く。隣には銀色のトランペットがクロスを下敷きにして木の椅子に置かれていた。すずりの楽器は学校にあるものとは違い、支柱が一本だ。Bach Vincent。知り合いから譲ってもらったらしい。
指揮台の前にすずりが立つ。部長はまだ不在らしい。ざわめきが一瞬退く。また大きくなったざわめきを静止するように、彼女の手のひらが合わされた。
「はい」
凛と響く声は浬緒には別人のように思えた。些細な部分で彼女との差を知ってしまう気がした。それに気が付かないようにして、抑え込む。
すずりはそっと音楽室を見渡す。その瞳から感情は読み取れず、彼女は副部長という役職になりきっていた。
「それでは、ミーティングを始めます」
その言葉を聞いて反射的に浬緒は返事を返す。はい、という二文字はやけにざらついていて、氷をそのまま飲み込んだときのような独特な不快感があった。
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