容疑者
牧太 十里
一 絶対に許せない
九月三日、金曜日。
堀田正俊は怒った。またまた、三歳しかちがわない荻原重秀生産管理係長がご託を並べたてて、理不尽なことを言いはじめたからだ。
「飯も食わずに注文を取ってこい。新入りは寝なくたっていい!」
荻原重秀係長は堀田正俊に言い放った。
ここは神奈川県厚木市に本社がある電装メーカー・厚木電装の、厚木電装本社工場生産部生産管理課である。家電から自動車部品に至るまで、あらゆる電装部品と電気製品を製作している。
「だいたい東京営業本社で何やってんだ?営業やってんのか?」
このところ日米摩擦で自動車の生産が落ちている。当然電装品の注文は減っている。営業の手腕ではなく、国家間の政治態勢の違いが産業生産に響いた結果なのだ。
注文が増加したときは生産を過密にし、減少すると生産を控えて従業員に臨時休暇をとらせる。生産部門は生産体制維持に四苦八苦している現状だ。それが最近さらに激しくなっている。
荻原重秀係長の苛立ちは生産部門の現状を考えれば誰も理解しているが、入社半年で抜群の営業成績を上げている堀田正俊に何度も食ってかかるのは、荻原重秀のパワハラにすぎない。
「そこまで言うなら、係長が営業すればいいですよ。俺が上に掛けあいます。ぜひ、営業方法を教えてください」
荻原重秀係長の前で、堀田正俊はそう言い切った。堀田正俊は荻原重秀本人から、彼が東京営業本社で名うての営業成績を上げていたと聞いたからだ。
この日の荻原重秀は虫の居所が悪かった。上司から生産ラインの縮小計画を立案するよう指示されていた。またまた生産部員に自宅待機を宣告しなければならないのかと思うと、その不満をどこへぶちまけていいか、荻原重秀の気持は今にも爆発しそうになっていた。
「なんだと!」
叫ぶやいなや、荻原重秀は堀田正俊のスーツの襟をつかんで締めあげた。そして一瞬に右手をうしろへ引き、拳を堀田正俊の顔面に叩きつけた。
と思ったら、目の前の堀田正俊の顔がすっと左へ動き、荻原重秀の拳は堀田正俊の左頬骨をかすって堀田正俊の頬の皮膚に血をにじませ、そのまま空を切って右へ流れた。
同時に堀田正俊の右拳が荻原重秀の胃に炸裂し、さらに左拳が荻原重秀の右顔面へ強烈にヒットした。
荻原重秀の身長は百八十センチほどの頑強な体型をしている。
一方、堀田正俊は百九十センチ以上あり、一見、アイドルを連想させるような童顔だ。痩せて見えるが体脂肪の少ない引きしまった身体をしている。
さらに、堀田正俊は右拳を荻原重秀の左頬にヒットさせた。
荻原重秀は完全に失神し、のけぞるようにその場から背後へ崩れおちた。
ふたりの行動は一部始終社内カメラで記録されていた。一方的に荻原重秀に非があったが、厚木電装は堀田正俊の過剰防衛を主張し、堀田正俊に九州支社へ転勤を命じた。
堀田正俊は弁護士を立てて訴訟すると言って会社側に掛け合った。
厚木電装は、荻原重秀の不祥事が世間へ広まるのを恐れて、堀田正俊に東京営業本社の営業係長のポストを与える見返りに、事件を口外せずに会社に勤務して欲しい、と妥協案を示した。
強気に出れば世間体を気にしてコロコロ態度を変える厚木電装に、堀田正俊はほとほと嫌気がさした。
弁護士を立てて厚木電装と交渉し、一千万の退職金を受けとって厚木電装を退職した。体のいい口封じだった。堀田正俊二十四歳。理工系の大学院を修了し、厚木電装入社半年の九月だった。
別に金が欲しいわけではなかった。理不尽な理屈を並べ立てて威圧的に職務上の権限を行使した荻原重秀と会社を、絶対に許せなかっただけだった。
「私はお前を信じてる。お前の好きなようにしろ。家にも仕事はあるんだ。いつでも帰ってこい」
堀田正俊の父正信はそう言って、堀田正俊を励ました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます