第28話 死んでも言いたくない⑤
「それでは! 今日はお疲れ様でした! かんぱーい!」
「「「「かんぱーい!」」」」
傍聴を終えたわたしたちはちょっと歩いて日比谷まで移動して、道中で見つけた中華料理屋に入って打ち上げをしていた。幸いにもわたしの様子がおかしくなっていたことは気づかれていないようで、わたしもすっかり元通りになっていたので特に問題になることはなかった。
「いやー、嬉しいねぇ、学生とこうやって飲めるなんて。検事やめて教授になるなんてメリットそんなにないけど、これができるならよかったかなぁ」
口元にビールの泡をつけた良海先生はすでに上機嫌だ。隣をちゃっかり確保している河津さんが「先生、お口に……」とそれを指摘するかしないか悩んでいるのか、お手拭きを持ってモジモジしていた。
「裁判見んの初めてだったけど、なんか思ったよりあっさりなんすね。もっと『異議あり!』とか言って新しい証拠が出てくるとか無いんだーって」
餃子を頬張りながらシノブが先生に言うと、「まぁねぇ」と彼女は苦笑した。
「現実はあんなもんだよ。そういうのはドラマだけ。まー、あの裁判は被告人が争わなかったからね、だいぶ形式的だったかもしれない。その形式を守ることも大切なんだけど」
「へぇ。アタシ法廷ドラマ見るの好きなんですけど、もしかしてあんまり参考にしちゃダメな感じですか?」
「うん、ダメ。あれはあくまでフィクション。何度かドラマの監修の仕事をしたことがあるけど、大体ありえないんだよね。だから『ありえないです』って言うと『そこを何とかありえるような解釈ができませんか』って向こうのスタッフさんから言われてしまうんだよ。しょうがないんだけどね」
「えー、なんかショックかも。週末のドラマ楽しみにしてたのになー」
「現実に則しすぎると面白くなくなっちゃうんだよ、きっと。フィクションはフィクションで面白いからいいじゃん」
しょぼんとするシノブに、モユちゃんがフォローを入れる。
「確か、刑事事件の有罪率って99%なんですよね」
河津さんの質問に先生が「そうだね」と頷く。
「ということは、実際はあの裁判のように罪自体は認める、という裁判が多いということですか?」
「うん、そう。検察もね、なんか色々叩かれがちだけどしっかり被疑者に話を聞いて、裏取って、これは有罪でいけるって事件を選んで起訴してるからね。ただ、話してて時々びっくりする人はいたよ」
「びっくりする人?」
「今まで生きてきて会ったこともないような……憚らずに言うと、許せないような人、かなぁ」
良海先生はジョッキを傾け、ビールを飲み干した。
許せないような人。人を人とも見ていないような人、か。
例えばわたしを襲おうとしたあいつのような……そういえば、あのおじさん、容疑を否認しているんだっけ。共犯のユウヤが認めているから無罪は難しいだろうけど……。
「そういう人からどうやって話を聞き出して有罪にできる証拠を引き出すか、も検事の手腕なんだけどね」
「……ワタシたちがやる犯罪者処遇法は、そういう人たちの社会復帰を認めなきゃいけない、許して救わなきゃいけない、っていう話なんですよね……」
河津さんの口調には迷いが見えた。打ち上げの空気もシンとなる。今日の裁判は不同意性交等、要はレイプ事件についてだ。被害者がわたしであったことは知らなくても、女性として(いや女性だけの問題ではもちろんないけれど)思うところは各々にあったのかもしれない。
「ううん、どうだろう。そこまで慈愛と平等の精神を持たなくていいと思うよ。現に今行われている社会復帰の政策の対象に、重大犯罪を犯した者は入っていないから」
運ばれてきた2杯目(ハイボール)に口をつけながら先生はあっさりと言う。
「許されない人は許されない人だし、全員を救いたいわけじゃないしそもそも救えないし、もっと言ったら救う、という発想すらもない。許しもしない。手助けだよ。そこまで重い犯罪を犯していない人の中には社会復帰したい、って人もいる。でもどうしても偏見や生きづらさが付きまとうから、手を差し伸べられる所には差し伸べよう、ってだけ」
わたしたちは手を止めて、先生の話に耳を集中させていた。
「別に平等だよ。福祉の一環というだけ。それ以上以下の意味はない。じゃあ、なぜそれをみんなに学んでほしいかというと、刑事手続全体のシステムの意義が分かるからなんだ。なぜ人を裁き、罰すのか、その人は罰された後どこへ向かうのか……犯罪は軽重はあれど日常に溢れているからね。法律を学ぶことで世の中の動き方が分かると思う」
「……わたし、なんか、許し、だと思いました」
ん? と全員の視線がわたしに向かう。わたしは慌てて「いや、先生に反論してるわけじゃなくて!」と取り繕う。
「ただ、裁判を見てて、あと先生の話を聞いて、刑事手続って、お前はこんなに悪いことをしたからこれだけの報いを受けるんだぞ、でも報いを受け切ったら社会に戻っていい、って言っているような気がして……それって、先生とか河津さんが言ってた意味とは違う意味で、許し、なのかな、って」
「ほーお、なるほど。花村さんはそういう風に受け取ったんだね。いいね、考えてるねぇ」
ふふ、と先生は笑みを浮かべ、
「花村さんは検事に向いてないかもね」
と言った。
「あー、そうすか……? そうかも……大変そうだし、勉強も……」
別になりたいとは一度も思ったことはないけど、それとは別に向いてないと言われるとちょっぴりショックだった。まぁ、別にならないけどさ……ただでさえ大学の授業も大変なのに、その上、司法試験まで受けるとか……無理。だるいし、勉強好きじゃないし……。
「私は」
イツキが急に口を開いた。硬い声音だった。
「あいつのことはきっと、死んでも許せないと思います」
その後は打ち上げもつつがなく進み、「ほんとは二次会もやりたいけど最初だしこのくらいでお開きにしとこうか……」と未練たらたらな先生の乗り込んだタクシーをみんなで見送って、みんなで駅までの道を歩いていた。
車道のある大通りだけど、そこそこ深い時間まで飲んでいたからか、まばらにしか車の往来は無い。
はー、飲んでしまったな……ちょうどよく気持ちいい……と車が巻き起こす夜風を浴びて整っていると、後ろからてこてこと可愛らしい足音が聞こえてきた。
「あれ、モユちゃん」
「おつかれぇ」
酔っているのかちょっと表情がだらしないモユちゃんがわたしの隣に並んできた。いつもシノブの横にいるのに珍しい……と思ったら、どうやら彼女はどこかへ電話をしているようだ。
「シノちゃん、今ママに電話してるんだよ。ワンチャン終電が無いんだってぇ」
わたしがシノブへ視線を向けていると、モユちゃんからそう説明が入った。
うーん、低身長ふわもこかわい子ちゃんがふわふわした口調でわたしの隣をちょこちょこ歩いてわたしを見上げてくれるなんて……やばい、気ぃ抜いてたら攫われちゃうよ!? そんなに無防備だったら! 隣にいるのがわたしだからいいものを! そうだ、モユちゃんが隣に来てくれたのは神様がこの子をわたしが悪い社会から守れと告げているんだ。大丈夫だよ、お姉さんがどんな手段を使っても守っってあげるからね……。
「へぇ、実家住みなんだ。そっか、神奈川からだと通えちゃうもんね」
「そうだよぉ。大変そうだよねぇ。朝も早起きしないといけないし」
ついつい人の裏を穿ってしまいがちなわたしは、モユちゃんは実家に住んでいないのか、同じ地元の幼馴染なのに、と思った。
「そういえば、意外だったなー、ハーちゃん。めっちゃ優しいんだね、考え方」
「……ん? それわたしのこと?」
急にモユちゃんに話しかけられて、返答がワンテンポ遅れる。今までハーちゃんとか呼ばれたことない。親からもハカゼちゃんだし、友人からは名前の呼び捨てだった。
「うん。ハカゼだから、ハーちゃん。せっかく改めて友達になれたからいい感じの呼び方、考えたいなって。いい名前だよね、ハカゼって。可愛い響き。そういえばなんて字書くの?」
「え? あ、ありがと。羽に風でハカゼだけど……名前褒められたことないな、そういや」
「えぇ、ウッソだぁ。見る目ないね、今までの人たち」
「……モユちゃんはずっとそのままでいてね」
「えー? 何言ってんの? 変なの」
よく知りもしないわたしをそんな風に褒められるなんて、人の良い所を見つけられる天才なんだな……いいなぁ……わたしはついつい穿ってしまうからな……。
「打ち上げの時さ、許し、みたいな話しててさ、そういう風な考え方があるんだなって思ったよ」
「はは、そうかなぁ。先生からは検事に向いてないって言われちゃったけど」
「そんなこと言ったらモユも向いてないよ。お前がやったんだろ! って言えないもん、たぶん。びびっちゃう」
モユちゃんはケタケタ笑って、それから、瞳の色を真剣なものに変えた。
「最初の自己紹介の時もそうだけどさ、ハーちゃんの言うことってなんか……マウント取ってないよね」
「ま、マウントぉ?」
「うん、マジョリティーのマウント。多数派にいるとさ、色々……こう、無意識に少数派のこと、蔑ろにしちゃってたりするじゃない? 本人に悪気は無くっても……」
モユちゃんはわたしから視線を外して遠くを見た、ような気がした。
「でもハーちゃんはどっちのこともちゃんと見て、その上で自分の立ち位置を決めようとしてる気がする。だから、優しいっていうか……寄り添える人だな、って思うんだ」
「……そんなこと、ないよ」
わたしだってたくさんの人を傷つけてきた。
傷つけたくない人も傷つけてしまった。
ついつい穿って見てしまう。その言葉を吐くに至るいきさつがきっと、この子に、あったのかもしれない、と。
ふと、イツキを見た。わたしたちの前で、河津さんと横並びで何かを話している。言葉を吐くに至るいきさつが。彼女にもあったのだとしたら。
────死んでも言いたくない。
死んでも言いたくないことって、なんだ?
わたしのこと、なのか?
「ハーちゃん?」
「……わたし、聞かなきゃ」
今日で、もう、ただの被害者は終わりだ。
少なくとも、ユウヤは罰を受ける。東田も有罪は免れない。裁判が終わったら、わたしの事件はただの記録となる。たぶん、判例としての価値も無くなってしまう。
あの事件の価値は、わたしが決めなきゃいけない。
だから、終わらせなきゃ。
守ってもらうばかりのわたしは終わりにしなきゃ。
そうしないと、わたしは頭が空っぽのばかまんこのままだ。自分を蔑ろにして他人も傷つけるクズのままだ。
変わらなきゃ。
変わらなきゃ!
「イツキっ!」
わたしは走り出して、河津さんとの間に割り込み、イツキの手を握った。
「は、ハカゼ?」
「わたし、イツキに、何かした?」
イツキの目が見開かれ、わたしから目を逸らされた。
「な……なに? 朝の話? なら────」
「死んでも言いたくないって、そんなこと言われたら余計気になるに決まってるだろ! 隠すなら最初っから隠せ!」
わたしはイツキの腕を渾身の力で握った。イツキを逃がさないためじゃない。わたしを逃がさないためだ。
ここで逃げたら女じゃない。
「わ、わたし、ゴミ女だったから! たぶん、どっかで傷つけてたんでしょ!? 大学一年とか、サークルの時とか……わたし、忘れっぽいから、どっかで喋ってたんでしょ!? イツキのこと弄んだり……そういう最低なことしたんだよね!?」
「……なに、言って」
「でも、もう、わたしそんなわたしじゃないから! ちゃんと変わるから! だから、教えてよ、わたし、自分のしたことと向き合わないと、変われないまま、ずっとわたしの嫌いなわたしのまま────」
「じゃあ一生ゴミのままでいなさいよ」
イツキの腕を掴むわたしの腕を、誰かに掴まれた。
それは河津さんだった。
「……ってぇな、最初っからなんなんだよ、お前」
今はイツキとの大事な話の最中なのに、割り込んできやがって。わたしの中で我慢していた分の怒りが一気に放出されようとしていた。
「お前、イツキのなんなんだよ! 急に友達ヅラして近づいてきやがって! わたしのことも因縁付けてきてさぁ……喧嘩なら買ってやるよ!」
「ワタシがイツキの何って?」
わたしが顔を真っ赤にしてまくし立てているのに、河津さんは鼻で笑うだけだった。
「友達だよ。だから聞いてたんだよ、イツキから。花村ハカゼの所業を」
「だから、その所業ってなに────」
「月山イツキさん」
「覚えてない?」
河津さんにそう問われて、わたしは意識を取り戻した。ゥヒュン、と車がアスファルトを擦る音が遅れて聞こえる。その名前が鼓膜を揺らした瞬間、わたしの頭の中は真っ白になっていた。
「ツッキーが……なに……? なんで、お前、ツッキーのこと」
「だって、この子のことだから」
「やめて!」
今度はイツキが河津さんに怒鳴る番だった。
「ダメ、河津。それ以上は」
「は……だって、え? 名字違うし、顔も、雰囲気も……」
────高校二年生の時、東京に引っ越して……。
ツッキーの行方が分からなくなったのはそのくらいだった。それまではクラスは一緒だったから。
────家庭────
家庭裁判所? 離婚? だから名字が変わった?
────ほんとこいつ美人だよな……隙がないというか、みんなの理想の顔というか……まるで作られたみたいで……。
作られた、みたいで?
整形?
わたしのインスタのアカウントを知っていたのも、わたしと同じ方言が時々出ていたのも、ツッキーだったから?
「……ツッキー?」
「…………」
「ツッキー、なの?」
「…………」
「ねぇ、なにか言ってよ。わたし、あの時────」
わたしはイツキに手を伸ばす。
しかしそれは、まるで蜃気楼の幻影を掴もうとしているようで。
イツキは、わたしの手を避けた。
「…………なんで」
ツッキーは、わたしの問いに何も答えてくれなかった。
「だからワタシは許さないんだ」
河津さんが静かな口調に確かな怒りを震わせて言う。車道からヘッドライトで照らされる彼女の顔はどこか悲し気に見えた。
「大切な友達を傷つけたお前を」
「……ははは」
「ハカゼ……? 待って、そっち、危ない!」
「ははははは……」
「ハカゼ! 待って!」
わたしはふらりと退き、天を見上げ、顔を覆った。
ひどい曇り空で、星なんて一つも見えなかった。
「報いだ」
なのに、目の前に、すぐ目の前に眩い光があって、あと、悲鳴だけが残った。
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