後世の記憶

佐々井 サイジ

第1話

 和中わなかはソファーに深く腰を落とすと勢いが強すぎて、沈み込んでから小さく跳ね返ってきた。ソファーに接している尻や太腿から体力が滲みだしていくような感覚を抱いた。もし尿を漏らしたらこれと近い感覚になるのだろうかと生産性の欠片もないことしか考えられないほど脳が疲れ切っていた。

四歳になった息子のれんに朝から公園に行こうとせがまれ、滑り台とブランコを何往復もして、昼食と昼寝でいったん自宅に帰ってわずかな休憩を挟み、廉の昼寝が終わるとまた公園に連れて行こうとせがまれた。体力が無限という言葉では済ませない。疲労という概念を知らないとしか思えなかった。とはいえ平日はほとんど遊べず、帰ってくる頃にはぐっすりと眠っている廉の顔を見るだけで寂しさを募らせているはずだったため、むげには断れない。休日は思い切り一緒に遊ぶというルールを和中は頑なに守っていた。仕事で溜まった疲労が取れないうちに新たな疲労が積み上がっていく中でもルールを厳守できているのは、廉の無邪気に笑う顔がたまらなく愛おしいからであった。

廉も和中のまねをするようにソファーにどしりと座り、隣にすり寄ってきた。まだまだ体重が軽く、ソファーは大して沈み込まない。頭をなでてやると「テレビ見たい」と主張しだした。リモコンを取りに立ち上がる気力が湧かない。とはいえ、リモコンの隠し場所を廉に見つかるわけにもいかない。妻の菜々美はあいにく入浴中だった。

「よっこらしょっとお」

口から息を吐きながら立ち上がると、父の姿が思い浮かんだ。老人臭いと思っていた父親と同じ言動に、思わず口内の肉を噛んだ。廉に目隠しをするように言ってから素早くリモコンを取ってテレビに向ける。ちょうど幼児番組が始まるタイミングだった。若い男と女が過剰な笑顔を顔に張り付けて歌っている。大人になってこの番組を見ることになるとは思いもしなかった。もっと言えば、廉よりも楽しみにして、録画までしている自身の現実が信じられないでいる。

「おとうさん」

音楽に合わせて手拍子でリズムを刻んでいると、廉が和中の服の裾を引っ張ってきた。降ろした手を廉の小さな手が握ってきた。真っ白で染みも皺もない、どうしようもなく清純な手だった。

「どうした?」

「あのね、ぼく、十才になったら死んじゃうの」

「え? 廉どうした急に」

 口の端がわずかに持ち上がり、引きつった笑顔になった。テレビに映るおにいさんとおねえさんとはあまりにもかけ離れた醜い笑顔に違いなかった。

いつから”死ぬ”なんて言葉を使うようになったのか。きっとこども園で誰かから仕入れたのだろう。こども園に入れてから喋れる言葉の数が格段に増え、あいさつやお礼も教えてもいないうちにできるようになった。その反面、「バカ」や「ちんちん」といった下品な言葉や思い通りに行かないと奇声を上げて困らせることも増えた気がする。これは年頃の男の子なら仕方ないのだが、どうしても苛立ってしまうこともあった。

「廉、『死ぬ』って簡単に言うもんじゃないよ。お父さん、そんな言葉使ってほしくないな」

「ちがうよおとうさん。ほんとうだもん。ぼく、十才になったら死んじゃうんだ」

 廉は強く首を振って、一心に和中を見つめていた。きっと限られた言葉の数で何かを伝えようとしているのだろう。もしかしたら、こども園で誰かから妙な話を仕入れてきたのかもしれない。

「じゃあ、なんでそう思うのか、教えて」

 廉はうんと頷いて、強く手を握ってきた。

「あのね、十才になって、ちょっとしたらぼく、くるまにひかれちゃうの。でね、死んじゃうんだ。お母さんもお父さんも大泣きするんだよ。ぼくね、きのはこにはいって寝てるんだ」

「キノハコ?」

「うん」

 廉は尻を浮かせてソファーから滑り落ちるように床に倒れた。廉は胸元で手を組んで目を閉じた。どうやらキノハコに入っている自分の容姿をまねし始めたようだった。和中はキノハコが棺であると理解した。子どもにしてはかなり不吉で、十歳で死ぬという予言じみた内容以外は現実的な話だった。廉はまだ葬式に参列したことがない。廉の前で葬式の話をしたことさえなかった。隣に座り直した廉の手を強く握った。廉はたどたどしい話を続けた。

「でね、ぼく、ちがうひとになるの。ちがうひとになっておとなになったら、いっぱいいろんなひとをほうちょうでさすの。でね、ちがうひとになったぼくのまわりにいっぱいひとがながれるの。ちがいっぱいでるんだよ。でね――」

「廉」まだ話を続けようとする廉の話を遮った。「こども園でお友だちからそんな話を聞いたんだな? いいか廉、そんな話はしちゃだめだし、そんなことをすることももちろんだめだ。誰から聞いたんだ?」

「ちがうよ、おとうさん。ほんとうに……」

「廉っ」

 和中が声を荒げると、廉の目はたちまちうるんできた。揺れる瞳の中に和中が蠢いている。妻の菜々美が浴室から出てきた。まだ髪の毛が濡れて束になったままだった。和中の荒げた声に出てきたようだった。

「そんな話は二度とするな。約束だ」

 廉は激しく首を振り、細い髪の毛がふわりと靡いている。その姿がか弱くひたすら尊い。和中はつないだ手ともう一方の手で廉の肩を抱き寄せた。廉の頭が近づき、甘い匂いがする。どこの誰だか悪い影響を受けているようだが、かわいい息子には違いない。反抗期を迎えてもこの愛しているという気持ちだけはずっと持ち続けていたいと和中は強く思った。

 和中はその時、もっと廉の話をまともに聞いておけばよかったと後悔を抱き続けるとは思いもしなかった。

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