月に帰る 十三夜

磐長怜(いわなが れい)

月に帰る 十三夜 2022

 重要文化財棟の2階のゆがんだガラス扉がガタガタ鳴った。掛け金をはじき上げるのももどかしく、機構に巻き込まれた人差し指の横が少し裂けた。

気にせずに、昔のガラス扉を開けてベランダに飛び出る。真っ黒になった大学の木々を背景に、たたずむ彼のロングカーディガンがやんわり空気をはらんでいる。風流な月夜に似あわない、シェアサイクルの薄っぺらい赤。

「清宮! お前――帰んの?」

 月明りに照らされた鼻筋は一段と麗しかった。

「帰るよ」

 といって彼は涼しい笑顔を作り、俺を見た。


「あーごめん! あの本。 えーと、そうだ、清宮くん!

 彼に貸しちゃったんだよね」

 ゼミの教授は笑いながら拝んで見せた。可愛いとは言いがたいが、愛嬌と面倒見のよさがウリの教授である。

「教授が『今日の夕方なら貸せる』って言ったんじゃないですか……」

 大学教授というのは侮れないもので、一冊二冊は絶版本を隠し持っているものだ。俺の卒業に必要だというその本を、このコロナ禍に1人書くむなしい卒論で使う本を、教授は貸し出してしまったという。足元から崩れるような徒労感だ。

「まあまあ、ついさっきだから。今から追っかければ間に合うかも」

「すれ違わなかったすよ」

「そしたら、文化財棟?あっちに寄って帰るって言ってたから、

 客員教授のところでも寄ってるんじゃないかな」


 文化財棟には清宮どころか誰もいなかった。

「あー……」

 改めて大学に来るにしても、登校確認を取るのが面倒だ。なんといっても家でゴロゴロしていた時間の方が長い。ゲーム三昧で半分自宅警備員だった体に連続登校はきつい。

 久しぶりの重要文化財棟は、傷まないようにと一般生徒に用事のない部屋しか配置されていないだけに、暗くて、空気は外よりもひんやりとして動きがない。定時に消えたダウンライト。それでも薄ぼんやりと中が見えるのは、おそらく窓が月あかりを採っているからだ。人影がないか一応一通り見て、諦めて外に出た。

 外はすこし風が出て、空は月が出ているはずだった。ふと見上げると、2階で影が動いた気がした。2階のこちら側はベランダが張り出した造りになっているから、外だ。警報装置が鳴るから風通しと清掃の時以外はガラス扉を開けないのが普通だし、当然好んで出る奴もいない。

 けれど誰がいるか、わかった気がした。そんなところにこの時間に人がいるはずもない、が、清宮だったらいる。確信めいたものがあって月あかりのベランダに目を遣ると、ぱちんと音がするかのように目が合った。切れ長の、泣きぼくろのある中性的な顔立ちが見下ろしている。

清宮と俺はわずかに視線を合わせて、俺の方から目をそらした。

「待ってて!」

石造りの建物に駆け戻った。


 清宮を初めて見たのは、一年の頃だった。校内のどこで見たのか忘れたが、目に入った瞬間に――月並みだが雷に打たれた、と思った。恋とは確実に違うのだが、清宮の横顔があまりにも完成されていて、人のそれではない気がするほどで、目が離せなかった。

 その後も何度か盗み見たが、身長も見た目もとびぬけたものはない。クラスに1人はいる『感じは良いけど影薄いやつ』といったところで、それでも俺からすると何かが整いすぎていた。

 すぐにコロナになってしまって、友人だのサークルだのよりも登校や振り分けに翻弄されてしまったので、同じゼミだったこともLINEで後から知った。そこに就活だから卒論のテーマ決めも孤独で、大体のやつらは教授に相談しているような状態だった。

 転がり出るようにベランダに出る。風が落ち葉を作る音がした。そして冒頭の状況。さっきも目が合っていたというのに、今会ったかのような自然さはおかしい。でもこいつが笑うと、なんだか「そうだったんだ」と納得してしまうのだ。

 帰るの、と言ってしまった自分の訳の分からなさに羞恥を覚えた。現実的には、文化財棟のベランダに出るなんてあり得ないし、そこにシェアサイクルを持ち出すなんてもっとあり得ない。笑うことも咎めることもできるのに、俺から出た言葉は「帰んの」なんて言葉だった。

『カードが、認証されていません』

聞いたことのあるような機械的アナウンスがシェアサイクルから流れた。

「あー」

当の清宮はだるそうな声を出してポケットからカードを取り出してかざした。

ピッ。

『カードガ、認証サレマシタ。』

そうだ、最初の目的は、なんだったっけ。

「あ…教授に、本…」

「うん?」

 聞き返されると、たちまち俺の言葉は立ち消えた。清宮のなんとも思っていない目が笑っている。厚すぎず薄すぎずの口元が動く。

「昔の歌で、『月が青いから帰ろう』・・・だったかな。そんな歌、知ってる?」

「……知ら、ない」

「歌詞が何番まであったかは僕も忘れたんだけどね。一番は、『月が青いから二人っきりで 帰ろう』っていうんだ」

 取り合わずに続ける清宮の声は楽しげに澄んで、夜空に向かう横顔は首元まで流れる線を描いた。言いしれぬさざなみのような感情が胸襟に起きた。流麗だ、とか。怖い、とか。行ってしまうのか、これ以上見てはだめだ、不安だ、見たい……なんだ、なんだ、何を俺は考えているんだろう。

 こちらの混乱をよそに彼は続ける。

「だけど、最後の歌詞は『今日かぎり逢えぬとも帰ろう』っていう

 んだよ。そういうの、ちょっといいよね」

こちらをさりげに流し見る目があまりにきれいで動けない。視線の涼やかさに泣きぼくろがやたらエロい。同時に怖さが増した。

 清宮が自転車のスタンドを上げる。いつもならガシャンとか言うのに、今日に限ってなんの音もしない。ロングカーディガンが揺れた、と思ったときにはもう彼は、1歩蹴りだしていた。

「サドル低いな」

 と言って笑いながら持て余した足をこどものように伸ばし、クリープ現象よろしくベランダを滑ると、数メートル先で足元を見下ろした。

「清宮!」

 思わず叫んでいた。彼はまた柔らかくこちらを向く。

「うん?」

 自転車の前輪が浮いている。何を伝えたいのかわからないままで、いつも言葉は決定的に足りない。

「帰るんだよな?」

 仕方ないなとあやすように笑われた。

「帰るよ」


 そこからはもう、俺の見ている前で自転車はそこに軌道でもあるみたいに空に動き出して止まらなくて、ペダルをこぎ出すなんてことはやっぱり清宮はしなくて、アトラクションにでも乗ってるみたいだった。



 月は白くて、手の中には教授に借りた本がおさまっていた。

「あ、本が汚れる」

 慌てて本を持ち変える。どこで切ったんだろう。人差し指の横が裂けて血が滲んでいた。

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