憑人・勿忘草
柔らかな陽の差し込むリビングを横目に、人工光のもとで私は規則的な音を立てる。午後四時を回った日曜の部屋は、ひとりで住むにはすこしばかり広い。作りすぎても仕方がないので、おのずとひとつの工程に掛ける時間も減る。いつものくせで、と言ってもあえてそうしているのだけれど、早くに作り始めたので今晩もすこし早めの夕食になりそうだ。
去年まではここにもうひとりいた。今はもう帰ってこないが。
やさしくはにかむ顔も、写真を見ていなければすこしずつ霞むようになってしまった。何もかも、過ぎる時間と忘れっぽい私が悪い。ともかく、抗えない時の流れが貴方を流してゆくのを感じていた。縋り付くように握り締めていたのに、指の隙間から流れ出す砂のように、ゆっくりと手元から零れ落ちてゆく。今日も美しく世界を照らす陽の光の下で、私は貴方を失い始めている。
だから、ささやかな抵抗を始めた。あの人の月命日には、あの人が残していったレシピを、あの人が作っていたとおりに作るようにした。性格の割に粗雑な包丁さばき、かと思えばいやに慎重な火加減。せめてその形は忘れないように。幸せだった日々の残滓に縋るように。零れ落ちる砂を固めてしまえるように。丹念になぞってゆく。習慣の中の、狭いキッチンを流れるゆるやかな一刻でだけ、貴方はまだもうすこし生きられる。そうしておけば、少なくとも私が死ぬまで、貴方は誰の記憶からも忘れられることはない。皆から忘れられたときに、人はもう一度死ぬらしいから、それならば、貴方の記憶を持って、貴方の二度目の死をもって、私は貴方とともに逝きたい。そんなことを考えている。
きっと今ごろ、リビングにもよい香りが漂っているだろう。そこにいる私が、目を輝かせてこちらのほうを見ている頃合いだ。
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