Beauty mark

押田桧凪

第1話

 二年前、通勤中の車内で見掛けたつり革広告。『要らないホクロ買取強化中!』『可愛いは作れる。ホクロも作れる。』という字面に吸い込まれて、私はそこに行きたいと思った。


「例えばよくあるじゃないですか。無人島に何か一つ持っていくとしたら、みたいな。それと同じで顔、肩、耳……あなたの身体のどこかしらに、ホクロをおひとついかがです?」


 男は、ホクロソムリエと名乗った。その肩書きからして完全に怪しい人間であることは百も承知で、話を聞いてみようと思ったのは、自ら名乗り出るような礼儀正しさとか、にじみ出る人柄の良さだとか別にそんなのが原因じゃなかった。私はホクロフェチだった。私は全身を支配するように配置された、自分の均整な突起を愛していた。


「もともと誰のホクロかって? それはこの際、気にしないでくださいよ。こういうの、お誂え向きって言うんでしたっけ。サイズ・色・形はバラバラで、お好きなものをお選びください」


 人の顔に関しては、とやかく言えるような外見ではない。大衆の総意ともいえる審美眼を持ち合わせている自覚もない。しかし、これだけは言える。私ほどホクロを愛でる女はいない、と。サービスで初回施術は無料らしい。


「あっ、あの……。良かったら彼氏の耳たぶにあるホクロと同じ位置に付けて貰うことって可能でしょうか」


「ええ、いいですよ。喜んで。それから、ホクロは非常にデリケートでして。湿度、つまりは部屋の乾燥具合、室温、気圧など特定の条件に合った環境を用意してあげないと、ホクロは健やかに育ちません。きれいに咲かせたいのであれば、露出している部分は直射日光を避けて、弱酸性ボディソープで洗うことを心がけてくださいね」


 男は笑顔で快諾した。


 ◇


 初めての彼とのデートで行ったのは市内の小さなプラネタリウムだった。横顔を見ると、彼の首筋に走るホクロがドームに映った光にわずかに照らされて、それが良かった。夕方の景色から夜の街明かりに変わっていく演出の間もまだ私はそれを見つめていた。私たちは静かに手を繋いだ。


 投影終了後、「あらためて見ると、北斗七星みたいなホクロだね」と言って、彼は私の腕にあるホクロを触った。ああ、とても意図的だった。でも、不思議と気持ち悪さの感じさせないタッチで、好意で、呼び水で、告白だった。「初めて、そんなこと言われた。嬉しい」と返す。


 好きな人の手のひらにあるホクロを触りたくて手相の本を買い、教室で皆の将来を占っていた中学時代の黒歴史がよみがえって、それにむせそうになりがら、あは、と笑った。私は、占いたいんじゃなくてあの人のホクロに近づきたかっただけだった。


 高校時代、まだ開けてないのダサいね、と部活の先輩から笑われた。私の耳たぶには既に一つ、ここに刺して、と言わんばかりの位置にホクロがあって、私はそこにピアスを開けた。ファーストピアスがホクロで良かった。血が出て、痛かった。痛みがホクロを、全身を貫いてみじめさもダサさも克服できるんじゃないかと錯覚した。血で塗りつぶされたホクロの近くにまたホクロを植えて、育てる未来が私には見えなかった。


 だから、私の身体と同じ位置に愛おしいあなたのホクロを正確に刻んでいくことはたまらなく幸せだった。


「ねーえ、私の耳たぶ見て?」「ん? ……って、俺と同じ場所にあんじゃん? え、最初から?」「うん。なんか、運命感じちゃうかも!」「な、マジでそれ」


 良かった、もうこれで彼とはずっと一緒。白い肌に輝く、耳たぶのホクロ。大好きだよ、私が守ってあげるからね。ずっと、ずうっと。ぷっくらとしたこの膨らみを絶対に、誰にも傷つけさせてあげないからね。私はホクロをそっと撫でた。


 ◇


 おかしい。行為中に数えていたはずの、あの頃、私と同じ数だったホクロは前より明らかに増えていた。手探りで、もう一度それらをなぞる。暗闇で違和を確信に変えていく作業が、何よりの慰めだった。結婚して半年が経つ。


 前世でキスされた位置にホクロは咲くのだと聞いたことがあって、私がその小さな起伏を愛さないはずがなかった。だから、寝ている彼のあちこちを撫で回しながら、キスをする。来世ではもう私以外の誰にもを奪われないように、なんて。笑える。


 ホクロの位置で星座を覚えた。発光するホクロを見て、初めてのデートの日みたいだねって笑って、蛍光塗料をわざわざ買って、ホクロの上に塗ったの? この為だけに? バカじゃないの、って今度は一蹴して、そうやって罵倒されたくて仕方のない彼のすること全てが好きだった。たぶん、会社の飲み会なんかでもふざけて腹踊りをするタイプのひとだった。


 でも、もうおしまい。オセロの四隅を既に取られているような、無意識のうちに屈服させられている気持ちの悪さ。これを「みじめ」と呼ぶのだろう。みじめなかわいこちゃんは苦労するよぉ、と酒臭いおっさんの口から放たれた野次を聞き流していた頃の私に戻れたらよかった。当時はそれが私のことを指すとは思っていなかった。


 ご自宅用ですか、と訊かれた時にだけ止む雨のような恋愛だった。「いえ、プレゼント用でお願いします」と見栄を張るように食い気味に頼んで、また降り出した雨のようでもあった。本当は個人的に使うのだけれど。そういう強引さだった。二点を結んだだけで完成させた、こいぬ座みたいな。


 そうやって、誰かが名付けたら、あるいは誰かに名付けられたら離れられなくなるんだろう。タトゥーが愛なら、ホクロは呪いだ。たぶん、それは私の許可なく彼が望んで入れたものだった。勝手にホクロを増やしたのだ。目蓋を指ですりつぶすようにして、無理やり眠った。


「なあ、俺の背中と鎖骨にさ、新しいホクロがあるんだけど気づかない?」


 ダイニングテーブルから夕食を片付け、食後のコーヒーを用意しかけた時。あくび混じりに暢気な一言を漏らした彼はいつも通りのように思えたが、切実さの感じられないやけに平坦な声だった。私が今朝から言及を避けていた事実だ。気づいてたよ、もちろん。私はじっと黙っておく。


「その顔だと、やっぱ気づいてたんだ。ごめん、なんか失いたくなくて」


 悪びれずに彼は謝る。その目に決断の光が宿ったような気がした。遠くを軽く睨み、ふっとその表情を解く。どうやら私たちの関係は終わりかけていた。


 ◆


 最初の言葉は「唯一無二のあなたをつくりませんか」だった。怪しい人間であることに間違いはないが、妻の財布からこぼれ落ちた名刺を見て、俺はここにたどり着いた。


 大好きだよ、と言われた時にぞっと背筋が粟立つような感覚があって、それは俺ではなく、俺のホクロに言われているのだと悟った。俺が北斗七星みたいだ、と褒めたばかりに目をきらきらさせて取り入るように彼女に所有された。寝たふりをしていると彼女は俺のホクロを何度も触り、キスをした。俺は奪われると思った。誰にも取られないホクロを欲していた。


「ほら、よくテレビであるじゃないですか。生き別れた兄弟と再会して、顔の傷や子供の頃に負った怪我の痕を照合して涙するシーン。双子なら、ホクロの位置が鏡像関係になっていたり、それが証拠になったりしますよね?」


「その変化に気づくかチェックするのにも使えるんですよね。まぁ、そんなことは置いといて。ねえ、ためしに僕のホクロを触ってみませんか?」


 黒髪に隠れて気づかなかったが、よく見るといい顔をしている。男は不意ににやりと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Beauty mark 押田桧凪 @proof

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ