第2話.聖女は緊縛に憧れるの

 時計を見れば、まだ朝の七時。

 いつもなら休みの日は二度寝をするけれど、目が冴えてしまって亜梨鈴ありすはベッドから下りた。


(イケメン……だったなあ)


 思わず自分の唇をなぞって、苦笑してしまう。顔はもうぼやけて覚えていない、夢の中の自分がそう思っただけ。


 目の前に歩んできた半裸の魔王様の体つきが良かったのと、後ろから拘束してきた男性の力強さ、両方共がイケメンって思って、そのままキスされるかも、と少しドキドキしてしまった。怖いよりも陶酔していたのは、夢ならではだろう。


(惜しいな、……目が覚めちゃった)


 こんな夢を見たのは、欲求不満だからだろうか。


 過去に彼がいたのは学生時代に一人だけ。キス以上の経験はなし。でも仕事が忙しくて彼を作る暇がなかった――今までは。


 床に下りれば、薄手のポリエステル百パーセントのモスグリーンのワンピースの端が膝上で揺れる。クローゼットまで歩んで、亜梨鈴は苦笑いした。


 本や雑誌、段ボールが散乱した部屋はうんざりする。


 亜梨鈴は、勤めていた病院を一昨日やめた。ひとまずは実家に帰るため、荷造りを始めたのだが、物の散乱した様子を目の前にすると、ため息がこぼれてくる。


 積み重ねられている薄い本を手にして、夢の原因はこれか、と思い当たる。


『ワンダーランド・ファンタジー』通称ワンファンは、亜梨鈴が学生の頃に流行ったゲームだ。


 内容は主人公の聖騎士の下に仲間が集まり、魔王を倒すというありふれたもの。 

 発売時はオンラインゲームというものはなかった。自分でキャラをカスタマイズして没入感を味わうという事ができる時代でもなかったから、決められたストーリーで第三者視点でやるゲーム。


 でも、友人達とは夢中になって、どのキャラが好きか、どのカップリングがいいかと話して楽しかった。


 すごく古いゲームだけど、自分はこれが大好きで、コミケというところで薄くて高い本を随分買った。絵が美しかったのもあって、未だに捨てられない。本棚から荷造りのために出したそれを見つけて、昨晩は思わず読みふけってしまった。


 確か話は主人公の白い鎧をまとう騎士ローランド。その次はのちに聖女となるヒロインの王女グレース。この二人の物語のはずだけど、亜梨鈴はあまり興味がなかった。

 それなりに事情があったはずだけど、性格が良すぎて相思相愛だったな、ぐらいの印象。王女を守る騎士、ありふれた公認カップル。


 自分が好きだったのは、ハーフエルフの女の子ヴィオラ。隠れ里で仲間を殺された過去を持っているのに闊達で優しい女の子。一番年少で十六歳なのに強力な魔法をバンバン覚えていって、絶対外せないメンバーになるし、やんちゃ系半獣の王子様ヒューに守られていく様子が好きで、そのカップリング推しになってコミケではその本ばかりを買っていた。


 一つ頁をめくると、更にイケメンが描かれている。これは主人公を裏切る親友の暗殺集団の頭のイヴァン。何か色々葛藤をしていたみたいだけど、亜梨鈴にはどうでもよかった。

 裏切ってまた仲間になってまた裏切る人間。一度裏切る人間はまた裏切る、お話の中では定番だ。


(そう言えば、麗ちゃんは、主人公ローランドとイヴァンのカップリングが好きだったな)


 ローランとイヴァンは主人公とその親友で、聖騎士とアサシンという立場も能力も性質も反対、それがいいらしい。

 BL好きな彼女。のちにコミケでは違うCPの人達は揉めると聞いたけど、学生の自分達は幼くそこまで押し付けるほどでもない。

 互いの好きなカップリングをけなすこともなく、ただ笑い合うだけだった。


(――これ捨てようか、どうしよう)


 もう遥か昔の本。見ていないものは捨てるべきだよね、そう思いつつもまだ迷って横に置く。こんなことばかりをしているから片付かない。


 もう使わない本や資料をゴミ袋に入れながら思考はとりとめなく溢れてくる。





「――私、縛られてみたいんだよね」


 夢に出てきた自分が縛られていたのは、絶対にあの言葉のせいだ。


 亜梨鈴は、助産師だ。夜勤をしていた真夜中、ようやくお産の波が引いてナースステーションで電子カルテに記入をしていた時、同じく病棟のラウンド巡回を終えた武田さんがぽつっと呟いた。そちら振り向いても彼女は平然としていた。


 そう言えば、武田さんを含めその前に何人かで合コンに行った。

 あまり盛り上がらず、その場でバイバイ。女子同士では、誰かが男性陣と連絡を取り合ったという話も聞いていない。その発言からだろうか。


「――そうなんですね」


 亜梨鈴は、キーボードを打ち込ちながら答えた。夜に二人きりになると産科で助産師という特殊性からか、ごくまれに女話になることはある。


 聞いても嫌な感じも盛り上がりたいとも何の感情もない。

 行為自体の詳しい猥談になることはない。あまり突っ込まない亜梨鈴の性格からだろうか。


「そう。きつく縛られてみたいんだよね」


 驚いたのは、年上で綺麗な武田さんが、さほど仲良くもない亜梨鈴にふった話題だということ。


 そして亜梨鈴もそういう願望があったこと。


(……他の人でもそう思うんだ)


 願望はあるけれど、したことない。大学卒業から二十二歳で勤めて、二十四歳。学生時代に付き合った彼は一人だけで、就職してからは誰もいなくて現在はフリー。


 心理学の先生によると、Mはそういうシチュエーションの「話」に萌えるのであって、実際痛いのは嫌だ、と。まあそうだろう。武田さんも想像だけ、アリスもそうだ。


(たぶん……これからもなさそう)


 目下それよりも、彼氏を作るほうが先だ。


 そこでナースコールが鳴って話が終わった。武田さんは、いつかそういうことをするのだろうか、という疑問はなかった。――どうでもいい。


(でも夢に出てきたのは、印象に残っていたからだろうな)


 ――ポーン。


 と、ナースコールならぬ呼び鈴がなって慌てて立ち上がる。そういえば引っ越し業者が段ボールを持ってきてくれると言っていた。


 それだと思いインターフォンに向かいかけて、自分が寝間着姿の事を思い出す。ブラジャーをつけていない肩からずり下がるワンピース。カーディガンを羽織ったほうがいいかと慌ててクローゼットへ走る。


 と、体が後ろに傾ぐ。デカい顔型キャラクタースリッパ、ちびキャワが踏んでしまったのは、ワンファンの本。

 滑ったが捉まるものはない。薄くて高い本が散乱する、頭が凹凸のある家庭用コピー機へとダイブした。

 最後に見たのはスリッパの謎生物の笑み、これ可愛いくせに内容は超ダーク。


 その呪い?


 ――そして亜梨鈴は意識を失った。


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