第10話
それは本当に偶然だった。メーベルト城を出て行くまで残り数日。その前にせっかくだからトザット王国で三本の指に入ると言われている美しい庭園を見てみよう。そんな軽い気持ちだったのだ。
まさかその庭園で彼女に出くわすとは思わなかった。
「あれ? あなた達は」
ヨハンにエスコートされ現れた女性。その女性を見てダニエルとエーリヒは目を見開いた。思わず顔を見合わせる。
その女性に見覚えがあった。確か、名をジュリアという。あの日、エーリヒにハンカチを差し出し、その後ヨハンに声をかけられた女性。
――――辞退したんじゃあ? いや、断られたからヨハン自ら動いているのか。そこまでして……。だからここ数日ヨハンとは顔を合わすことがなかったのか。
エーリヒが一歩前に出ようとしたのをダニエルがさりげなく止め、代わりに自分が前にでる。にこやかに笑みを浮かべて。
「いい夜ですね。ヨハン卿、と名も知らぬお嬢様」
「あ。私は」
ジュリアが答えようとするとヨハンが前に出た。
「彼女は私の領民の一人です。先程まで仕事の打ち合わせをしていたんですが、彼女が帰る前に庭園を見てみたいと言ったのでこちらに連れて来たんです。まさかお二人がここにいるとは思わなかったので……」
平民であるジュリアを守っているようでもあり、余計なことを喋るなとジュリアを牽制しているようでもあり、
ヨハンと対峙しているダニエルは人好きする笑みを浮かべ頷き返した。
「そういうことでしたか。それでしたら僕らはもう部屋に戻るところでしたから気にせずどうぞ」
「お気遣い感謝しま」
「いいえ。結構です! 私はもう充分満足しましたから。お二人こそ
ヨハンを押しのけて出てきたジュリアの勢いにダニエルは驚く。押されたヨハンの眉間には皺が寄っている。なんとも珍しい表情だ。
「え、いや、ですが」
わざとヨハンに視線を向けるが、ジュリアはその意図に全く気づく様子はない。それどころか、ダニエルとエーリヒを交互に見ては目を輝かせ、頬を紅潮させている。ジュリアはダニエルをじっと見つめた。
「庭園に咲いた『夜の薔薇』はもう御覧になりましたか?」
「え、いや……どうかな。軽くしか見てないから」
「なんてもったいない! メーベルト城の庭園が美しいというのは有名ですが、その一番の見どころはなんといっても薔薇です。特に夜に見るのがオススメです。一目を避けるかのように夜に花開く大輪の薔薇……ぜひともお二人の目で確かめてみるべきです」
「そ、そうなんですね。わかりました。見てみます」
ダニエルの返事に満足げに頷いているジュリア。隣にいるヨハンは諦めたのか口を挟む気配なく、目を閉じ眉間の間を揉んでいる。
「あ、あの~」
「なんでしょう?」
「ところでどうしてあなたはそんなにここについて詳しいのですか?」
たかが庭園だとはいえ平民がそこまで詳しいというのは違和感を覚える。もしかして以前からヨハンと交流があったのだろうか。
「ああ。それは私が記者だからです!」
胸を張り、満面の笑みを浮かべるジュリア。ダニエルは瞬きを繰り返した。
「記者ですか?」
「そうです。私の書いた記事はそれなりに人気があるんですよ。それで、私がメーベルト城の庭園について詳しい理由ですが。それは……ここだけの話。次回の特集がまさに『メーベルト城の庭園について』だからです。貴族でもなかなか見ることが叶わないという秘密のベールに包まれたメーベルト城の庭園。貴族も平民も皆飛びつくこと間違いなしです」
「そ、それは楽しみですね」
「でしょう。しかも、この記事が出た後、領主様主催で夜の庭園ツアーが開催される予定です。つまり、これがどういうことかわかりますか?」
「い、いえ」
「誰にも邪魔されずに見ることができるのは今だけということです!」
ジュリアからの圧が怖い。ダニエルは何と返せばいいかわからず「は、ははは」と笑って誤魔化すしかない。
な、なんだか少しずつにじり寄ってきているような気がするのは気のせいだろうか。
「ところで……お二人の夜の散歩についていってもいいでしょうか? ああ、決して邪魔をするつもりはありません。ただ、そう、遠くからお二人が庭園を散歩する様子を観察させていただければ……お二人がどういう反応をするのか見たいだけですから。私のことは気にせずそこらへんに落ちている石だと思ってもらえれば」
「ね?」とジュリアが一歩近寄った分だけ、ダニエルが後ろに下がる。無意識の行動。完全に押されているダニエルを救ったのはまさかの人物だった。
「ジュリア」
咎めるような声色。さすがの
「も、申し訳ありません。つい我を忘れてしまい」
「い、いえ」
悪気が無いのはわかるから、ダニエルも苦笑して許すしかない。
しょげているジュリアに疲れた様子のヨハンが声をかける。
「もう遅い。そろそろ帰ったほうがいい」
「そうですね。帰ります」
「送っていこう」
「ありがとうございます。それではお二人ともさようなら」
「は、はい。さようなら」
ヨハンとジュリアが去っていくのを見送り、ダニエルとエーリヒはほぼ同時に息を吐き出した。数分間の会話でどっと疲れた気がする。
「あーせっかくだから、彼女の言う通り散歩の続きする? 例の薔薇でも見に」
「そうですね。せっかくですから」
「それにしても、なんかすごい人だったねえ」
歩きながら言うと、隣でエーリヒがふふっと笑った。
「少々個性的な人ではありますが、悪い人ではありませんよ。むしろ、尊敬できるところがたくさんある素晴らしい女性です」
「え?」
「若いのに自分の考えがはっきりしていてとても芯が強い」
「確かに。女性で記者なんてしてるくらいだし……だからこそあの求人も断ったんだろうね。給料だけで見ればぜったいこっちの方が儲かるだろうに」
「彼女にとってソレは重要ではないのでしょう。……ただ、それでなぜ(
「そうなんだよね。やっぱりあの求人はただのカモフラージュだった? ……それとも、彼女の熱意に負けたとか?」
「無いとは言えませんけど……腑に落ちないですね」
「うん」
――――裏があると考えるのが一番しっくりくるけど……。
「……フフッ」
「どうしました?」
「いや、さっきの顔を思い出してしまってつい。あの人にあんな表情をさせるなんて……彼女すごいよねえ」
「そう、ですね」
片手で口元を隠しているが、笑みは隠しきれていない。
「あ。これが例の薔薇ですね」
「そうみたいだね。確かに綺麗だ」
薔薇が咲き誇る一角。夜でもわかるほどの赤が一面に広がっている。夕方にでも水をあげたのか、にわか雨にでも降られたのか、表面に水滴がついている。そのせいか
「まるで血のようだね」
「……」
後ろに立っているエーリヒからの反応はない。振り向いたが、こんな薄暗い中では表情は見えなかった。
エーリヒが口を開いたのはしばらく経ってから。
「そうですね」
「……リヒトはあまり薔薇は好きじゃない?」
「……はい。薔薇はあまり」
「そっか。ならもう部屋に戻ろう」
「え? いいんですか? せっかくでしたらもう少し見た方が」
「いや。もういいよ。別に僕もたいして薔薇に興味は無いし……それにさすがにこれだけあると匂いがきつい」
ちらりと薔薇を見てから踵を返す。エーリヒも黙ってダニエルの後に続いた。
庭園を散歩するのにさほど時間をかけていないと思っていた。でも実際は思ったよりも時間が経っていたらしい。
「――――!」
玄関扉の中から怒鳴り声が聞こえる。おそらくヨハンだ。――――もう帰ってきていたのか。
それだけじゃない。物が割れた音もしている。
「どうしたんだろう?」
「さあ。わかりませんが落ち着くまで待った方がいいと思います」
「そうだね」
扉にかけていた手を外す。とりあえずどこかで時間をつぶそうと思った瞬間、扉が開いた。
中から出てきたヨハンがダニエルにぶつかる。
「っ」
「エル様?!」
「あ、ああ。大丈夫大丈夫」
尻もちをついたダニエルに手を貸そうとするエーリヒを制し、自分で立ち上がる。その間にヨハンは再び出て行ってしまった。
――――周りを気にせず殺気を露わにするなんて……何があったんだろうか。……まさか。
先程元気な様子で帰って行ったジュリアの姿が頭に浮かぶ。
――――いや。落ち着け。さすがに僕と会った後に事件を起こすなんて馬鹿な真似はしないだろう。自分を疑えと言っているようなものだ。
そう思っているのに不安はぬぐえない。
「とりあえず部屋に行きましょう」
「う、うん」
エーリヒに促され、城の中へと入る。エントランスホールではヤンの指示でメイド達が割れた破片を片付けていた。見た感じ、飾っていた花瓶が割れたようだ。
――――何があったか聞きたいところだけど。聞いたところで教えてはくれないだろう。
「ヤン。僕らはもう部屋に戻って寝るね」
「あ、はい。承知しました」
どこかいつもと違う雰囲気のヤンに背を向け、部屋へと戻る。もちろん、すぐに寝るわけではない。ダニエルの部屋にエーリヒを呼ぶ。
「リヒト。今からお願いできる? ちょっと危ないかもしれないけど」
「もちろんです。彼女の無事を確認してくればいいんですよね?」
「うん。でも、絶対無理はしないで。危ないと思ったらすぐに戻ってきて。無事かどうかだけわかればいいから」
「わかりました」
「頼んだよ」
「はい」
コクリと頷いたエーリヒは部屋を出て行く。一度自分の部屋に戻った後、窓から脱出するのだ。
――――さて、この騒ぎに乗じて僕も動くとしますか。
ベッドのサイドテーブルに置いてあるベルをおもむろに手に取った。やってきたのはヤン。でも、用事があるのは彼にではない。
「アルマを連れてきてくれる?」
「アルマをですか」
「そう。……せっかくだからね。寝る前にお茶のいっぱいでも彼女につきあってもらおうかなって。あ、それと、リヒトはもう寝てるから起こさないように気をつけてね。絶対バレたくないから」
「承知しました。では、彼女を呼んできます」
「よろしく」
ダニエルはにっこりと微笑んだ。
数分後、顔をこわばらせたアルマを連れてヤンが戻ってきた。
「アルマだけ中に入って」
「は、はい」
ティーセットを乗せたカートを押してアルマが部屋へと入ってくる。部屋の外にいるヤンに向かってダニエルは笑顔を向けた。
「それじゃあ、おやすみ」
一礼するヤンとお別れするようにパタンと扉を閉めた。
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