第8話
「何を、しているんですか?」
自分でも聞いたことがないくらい低い声が出た。頭に血がのぼっているのが自分でもわかる。同時に、現状を冷静に把握しようとする自分もいた。
――――当たってほしくない予想が当たってしまった。
エーリヒの部屋にはエーリヒ以外にもう一人いたのだ。この城の主であるヨハンが。突然現れたダニエルを見て、ヨハンが「おや?」とでも言うように首を傾げる。その表情すら腹立たしい。
「僕の従者から今すぐ離れてくれますか?」
入口から見て反対方向を向いている一人掛けのソファーにエーリヒは座っていた。ソファーの背もたれから茶色い頭が飛び出している。ヨハンはエーリヒを逃がさないためか、両手をソファーのふちに突いていた。
エーリヒが今どういう表情をしているかはわからないが、ヨハンを押し返そうとする手で拒否していることはわかった。
ダニエルが口出すには充分だ。睨まれたヨハンは両手を上げ、素直にエーリヒから離れる。見られてはいけないところを見られたはずなのに余裕の表情だ。口角が上がっている。
ダニエルはヨハンを見据えた。
「さあ、出て行ってください」
出口を示すと、ヨハンがダニエルの言葉に意外そうに片眉を上げた。
「弁明もさせてもらえないのですか?」
「
「ふむ。『今は』ですか。エル様はリヒト君をとても大切にしているんですね」
「ええ。僕の従者ですから」
「そうですか。まあ、リヒト君の気持ちも固いようですし……いいでしょう。今宵は私が身を引きましょう」
「……それはどういう意味ですか?」
眉間に皺を寄せ尋ねるダニエルにヨハンは肩を竦めるだけで答えようとはしない。苛立ちが募る。
「リヒトは渡しませんよ?」
「そう警戒せずとも大丈夫ですよ。リヒト君から言ってこない限り、無理矢理引き抜くようなことはしませんから」
「……そのわりに、強引に迫っているように見えましたが?」
「ああ。アレは内緒話をするのにちょっと近づいただけです。ねえ、リヒト君?」
――――あれがちょっと?! だいたい内緒話って出会ったばかりなのに何の話があるっていうんだ。
イライラするがそれを態度に出すわけにはいかない。せめてエーリヒが助けを求めてくれたら。
けれど、エーリヒはこちらを見ないまま頷いて肯定を示した。ヨハンが満足気に笑みを浮かべる。ダニエルは眉間に皺を寄せたまま溜息を吐いた。
「わかりました。今回は見逃しましょう。ですが、次はありませんからね」
「それはそれは、ありがとうございます。肝に銘じておきます。それではお二人ともいい夢を」
にっこりと微笑んで出て行くヨハン。癇に障る男だ。わざとそういう風にふるまっているとしか思えない。
「はぁ……。大丈夫でしたか?」
ソファーの前に回り、エーリヒの様子を窺う。俯いていたエーリヒが顔を上げた。
「っ」
ダニエルはエーリヒを見て思考が停止した。
お風呂上りだったのだろう。エーリヒは寝着一枚しか羽織っていなかった。髪はまだ湿っていて頬も微かに上気している。普段も魅力的だが、今はそれに艶やかさがプラスされている。つまり、色気がすごい。
ソファーに座っているエーリヒはどうしてもダニエルを見上げる形になる。いわゆる上目遣い。眼鏡越しでもわかる長い睫毛は微かに震えていて、魔道具の効果でダニエルと揃いの茶色に見える瞳は若干潤んでいる。血色のいい唇は薄く開いて、ダニエルはその唇に釘付けになった。
「ぎりぎり、でした」
「ぎりぎり……なにがぎりぎり……ぎりぎり? 何かされたんですか?!」
我に返ったダニエルが問い詰めるとエーリヒは首を横に振った。己の掌をじっと見つめ呟く。
「いいえ。ただ、もう少しで殴り殺してしまうところだったんです」
残念そうな。ホッとしたような。どちらともとれそうな声色。
物騒な発言だが、ダニエルはその言葉を聞いてホッとした。
「そうでしたか。どちらにしろリヒトが無事ならよかった」
考えるよりも先に本音が口から飛び出していた。
エーリヒが「え」と顔を上げる。慌ててダニエルは誤魔化すように微笑んだ。
「そ、それはそうと、バレませんでしたか?」
「あ、はい。それも大丈夫だと思います。エル様が絶妙なタイミングできてくれたので助かりました」
「よかった」
「……もしかして、エル様の方でも何かあったんですか?」
「え?」
ギクリと身体を揺らす。
「ま、まさか。僕なんかに何かしかけてくるはずがないじゃないですか」
「本当に? 何かあったから気づいて助けに来てくれたんじゃないんですか? ……たとえば女性が送られてきたりだとか」
ダニエルは完全に固まった。視線がぎこちなく空を泳ぎ出す。
「ま、まさかそんなことがあるはずが」
「あったんですね?」
「……はい。でも、断りました」
「本当に?」
疑いの目を向けられ、ダニエルはコクコクと頷き返す。
「本当です。おそらく足止めの為に送り込んできたんでしょうけど、僕はそういうのには全く興味がないのできっぱり、はっきりと断りました! だからこそ、こうしていち早く助けにこれたんです」
「……それもそうですね。でも、やっぱり一発くらい殴っておくべきでした」
「ははは。まあでも、その力を知られていないというのはいいことです。切り札はいざという時に使うのが一番効果を発揮してくれますから」
「そう、ですね」
「確かに」とエーリヒは頷いた。ダニエルはゴホンとわざとらしく咳ばらいをする。
「それと、僕からも内緒の話があるんですが……近寄ってもいいですか?」
「はい。私からもあるので。……そっちのソファーに移動しましょうか」
「はい」
一人掛けのソファーから三人くらいは座れそうなソファーへと二人で移動し身を寄せる。
――――僕の部屋にはこんなソファーはなかったのに。あのむっつりめ!
ヨハンへの悪態を吐きつつ、ドキドキする己の心臓には気づかないフリをしてダニエルはエーリヒの耳に顔を寄せた。
◇
雲一つ無い快晴。まさに観光日和だ。
「楽しみですねエル様」
「そうだねぇ。あ、ヤンちょっと」
「はい」
離れたところで控えていたヤンを呼び寄せる。ダニエルは手にしていた観光パンフレットをヤンに見せて一点を指さした。
「予定変更で、今日はココに行ってみたいんだけど案内を頼めるかな?」
「それはかまいませんが、この場所は少し離れたところにあるのでしばらく馬車に乗ることになりますが大丈夫ですか?」
「離れたところと言っても領地内だ。移動に一日以上かかるわけじゃないだろう? なら大丈夫だよ。今日は身体の調子もいいから」
「かしこまりました。それではお時間もないですからすぐに向かいましょう」
用意されていた馬車に乗り込む。ヤンは空気を読んだのか、一緒には乗らず、御者の隣に座った。つまり、車内にはエーリヒとダニエルの二人だけ。ヤンが一緒に乗るならそれっぽく見えるように演技をしようと思っていたのだが……どうしようかと悩んでいるとエーリヒの強張った表情が目に入った。
「どうしたの?」
「いえ……」
視線を逸らすエーリヒ。よくよく見れば顔色が悪い気がする。ダニエルは顔を近づけ、小声で尋ねた。
「もしかして寝れなかった? 昨晩、僕が無理なお願いをしたから」
「いえ。それは関係ありません。……ただ、少々寝つきが悪かっただけです」
やはり寝れなかったらしい。それならとダニエルは腰を上げた。
「到着するまでの間、寝ているといいよ。着いたら起こしてあげるから」
返事を待たずにエーリヒの隣に移動する。強引にエーリヒの肩に腕を回して引き寄せた。
「え? あ、あの?」
「頼りない肩で申し訳ないけど、僕の肩を使って。壁に寄り掛かるのは痛いだろう?」
「そ、そんなことないです。自分は平気ですから」
「いいからいいから」
身長差がほぼないとはいえ少しだけダニエルの方が高い。頭を肩に乗せるというよりはただ寄り掛かるようになってしまうが仕方ない。
「あ、あの」
「しっ……ちょうどいいからこのままで。それか、膝枕でもいいよ。エーリヒが寝やすいほうで」
「っ。そ、それでは、このままで」
御者がいる小窓から視線を感じたのか、エーリヒはぎゅっと目を閉じ大人しくなった。話し相手がいなくなったダニエルは外の景色を見て気を紛らわせる。なんだか車内が暑く感じるのは気のせいだろう。
◇
「ここが例の観光スポットか」
「きれいですね」
「うん。空気も澄んでるしいいね~」
両手を広げ深呼吸をするダニエルの隣でエーリヒは湖に目を奪われていた。
その気持ちはわかる。
森林に囲まれた湖。その水面には木々の隙間から差し込む光が反射してきらきらと光り輝いている。王都ではまず見ることができないような自然の美しさ。そのせいか、まるでおとぎ話に出てくるような幻想的な空間が出来上がっている。
ただ、意外だったのはエーリヒもここにくるのが初めてだったということ。他国からきたとはいえ、モテるエーリヒのことだから誘われてきたことが一度くらいはあるだろうと勝手に思っていた。なにせこの場所はカップルに人気の観光スポットなのだから。
――――とはいえ、確かここも数年前までは魔物の住処だったはず。『
「ヤン」
「はい」
「リヒトとちょっと湖の周りを一周してくるからここら辺で待っていて」
「かしこまりました。必要でしたら小舟の用意をしておきますが」
「あーそうだね。せっかくだしお願いしようかな」
「用意しておきます」
「よろしく。それじゃあ、リヒト行こうか」
「はい」
二人で並んで歩き始める。
その背中をヤンはじっと見つめた後、小舟の準備の為踵を返した。
「……そろそろ大丈夫かな」
「だと思います」
そっとエーリヒから離れる。といってもヤン達から見られた時に違和感を覚えられない程度の距離。
「なんかごめんね」
「何がですか?」
「なりゆきとはいえ、変な役回りをさせちゃったから」
こんな地味な男の相手役なんて嫌だろう。エーリヒと自分とでは不釣り合わないことはわかっている。それでも昨晩のことを考えると、こうするのが一番だと思う。ヨハンを牽制する為にも。
昨晩二人で話し合って決めたことの一つだ。
「とんでもない。むしろ役得ですよ」
微笑むエーリヒを見て、ダニエルはつい遠い目になった。
――――僕にエーリヒの十分の一でも魅力があればなあ。
「あ、ちょっと、そこに立っていてもらってもいい?」
「はい」
いつの間にか、半周程歩いていた。足を止め、ヤン達からは見えないようにエーリヒを盾にする。ダニエルはその場にしゃがみこむと少しだけ眼鏡をずらし、周囲を見渡した。精霊達への
「やっぱり」
「え?」
ダニエルは眼鏡をかけなおし、立ち上がった。首を傾げるエーリヒににっこりと微笑みかける。
「お待たせ。行こうか」
「はい」
エーリヒとたわいない話をしながら時間をかけて残りの半周を歩く。
戻ってきた二人にヤンが駆け寄った。
「大丈夫ですか? 途中うずくまっていたようでしたが」
「あー……見えていたのか。一応隠れて休憩していたつもりだったんだけど。大丈夫だよ。いつもこんなものだから。すぐ体力が尽きて、すぐ回復する。リヒトもついてるからそう気にしなくていい」
「そうですか。ですが、メーベルト城に滞在している間は私にも教えていただけると助かります。お二人に何かあった時、ヨハン様に叱られるのは私なのですから」
「それはそうか。なら、次からはヤンにも伝えるようにするよ」
「よろしくお願いします」
言葉とは裏腹にヤンの表情は変わらない。相変わらず無表情で、こげ茶の瞳は一切揺れていない。
――――エーリヒを見て人形のように綺麗だと思ったことはあるけど、ヤンはまた別の意味で人形みたいだな。
「小舟の用意は済んでいますが乗りますか?」
「もちろん。せっかくここまできたんだからね。リヒト乗ろう」
「はい」
「漕ぐのはどうしましょうか? 私が漕ぐこともできますがリヒト様にお任せしても?」
「あー」
ちらりとエーリヒの顔色を窺う。――――この顔を見る限り頼んだ方が良さそうだなあ。普段引きこもり(設定)の僕の従者なら漕げなくても変じゃないし。
「ヤンに任せるよ」
「かしこまりました」
舟に乗るのはいつぶりだろうか。少しワクワクしている。
エーリヒは初めてだったらしい。眼鏡の隙間からきらきらとした瞳が見える。そんなエーリヒを見て、ダニエルの口元が綻んだ。
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