夕さり街12
ホロスケは、ナイトクラブの奥のソファ席にひっそりと身を潜めていた。ルナとサクのやり取りが始まった瞬間から、彼の顔色はみるみるうちに悪くなっていた。
「ほ、ほうぅ……こりゃあ、いけない流れ……」
唇をひくつかせながら、ワイングラスを持つ手がかすかに震えていた。普段は軽口と愛想笑いでどんな空気もやりすごす男だったが、今ばかりはその武器も通用しないと悟っているらしい。
冷気がじわじわと広がり始めた時、彼はそっと席を立ち、できるだけ音を立てずに壁際へと後ずさった。だがサクの存在が放つ気配は、それすらも許さないほどに重く冷たかった。
「これはちょっと……いや、だいぶマズい。自分、巻き込まれる筋合いはないんで……その、ほうぅ……」
誰にともなく言い訳を呟きながら、ホロスケはゆっくりと出口の方へ向かおうとする。しかし足取りはおぼつかず、まるで氷の上を滑るようにぎこちない。
「自分はただ、ルナさんに言われて……この子供を連れてきただけでして……ほっ……完全なる第三者、そう、ただの通りすがりなんです、ハイ……」
彼の口は動き続けるが、サクは一度も彼の方を見ようとはしなかった。代わりに、その空間の温度だけが確実に下がっていく。
「ほ、ほうぅ……いえね、あの、サクさんでしたっけ? 自分、面識もございませんし、第一この事態……聞いてないっていうか、その、想定外……なんですよ、うん……」
必死に顔をひきつらせながら、ホロスケは壁際の彫刻のふりをしようと、静止してみせた。片足を中途半端に上げたまま、ピタッと固まり、目線だけを泳がせている。
「ただ、ちょっとだけ面白そうかなって……それだけで……ほんの、出来心ってやつで……ほ、ほぅ……」
その時だった。サクが、まるで溜息をつくように、軽く指を鳴らした。音は小さかったが、それが引き金となって、空間が一気に張り詰めた。
「言い訳は通じない」
その一言は氷のように冷たく、ホロスケの背中を直撃した。
瞬間、ホロスケの身体が震え、彼の足元から白い霧のような冷気が立ち上った。
「ちょっ……ま、待って、待って! 自分、今帰ろうとしてたところでして……あの……」
慌てて逃げ出そうと足を動かしたが、すでに遅かった。彼の靴の先が床と一体化し、ズルッと滑った拍子に、ホロスケは派手に転んだ。
「ほ、ほぅぅ……っ!」
その滑稽な叫びが最後の言葉になった。次の瞬間、ホロスケの全身に凍てつく寒気が走り、そのまま氷の殻が彼を覆い尽くした。
腕、足、首……そして、言い訳ばかりしていた口元まで、氷は容赦なく侵食し、彼の身体を完全に閉じ込めた。
そこに残されたのは、あらゆる感情を凍りつかせたままの「ホロスケ像」だった。
両手を中途半端に挙げ、口を小さく開いたまま、驚愕と哀れさとが同居する、実に微妙な表情で――。
サクは、その氷像に目を向けたが、興味を持った様子もなかった。ただ、氷像の足元に残った「ほぅ……」という小さな吐息のような音だけが、静かに空気を震わせていた。
「無価値なものには、こうするしかない」
冷ややかに放たれたその言葉は、誰にも反論できない静寂の中に吸い込まれていった。
アサギは、目の前で人が凍りついていく光景を見て、息を飲んだ。肩を震わせながらも、マリがそっとアサギの前に立ち、わずかに手を広げて守るような姿勢をとった。
だが、サクは彼らを見ても、何の感情も抱いていないようだった。アサギを庇おうとするマリの小さな背中さえも、その眼差しには映っていないのかもしれなかった。
冷気はまだ、店内を這うように漂っている。氷像と化した客たちは、誰一人として動かない。微笑んだまま凍った者、グラスを掲げたまま凍った者、好奇心に満ちた視線をそのままにした者――すべてが、滑稽で、そして残酷だった。
ナイトクラブは、まるで氷の博物館になっていた。
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