夕さり街11

「おいおい、みんなで子どもいじめとは、趣味が悪いねぇ」


 不意に放たれた声は、耳で聞いているというより、頭の奥で鳴り響くようだった。音というより“存在の気配”のように、空間に染みわたっていく。


 ナイトクラブのドアの前に立っていたのは、漆黒のスーツを纏った男――サクだった。

 その姿は影そのものでありながら、どこか滑稽で軽やかな雰囲気すらまとっている。不思議な重力で空気をゆがめながらも、足音ひとつ立てず、まるで床と触れ合っていないような歩みで奥へと進んでくる。


「ああ、恥ずかしい、恥ずかしい」

 彼は顔を覆うように手を掲げ、首をかしげて客たちを見渡した。

「子どもひとりに寄ってたかって、みっともないにも程があるだろう?」


 皮肉めいた笑みを浮かべたまま、彼の言葉は嘲るでもなく、怒るでもなく、ただ“呆れている”ように響いた。けれど、その声には明らかな“拒絶”の意思があり、何人も反論できる雰囲気ではなかった。


 沈黙が広がる中で、唯一その場を動かしたのはルナだった。

 ナイトクラブの主である彼女は、表情こそ崩さず笑みを保っていたが、その瞳の奥に浮かぶわずかな動揺が見え隠れしていた。


「……おや、サクじゃない。こんなところにまで顔を出すなんて、随分と珍しいことね」


 その声音は柔らかさを装っていたが、ほんの僅かに震えていた。

 彼女のような女王でさえ、サクの登場には警戒を隠せない。


「いつもは高みの見物を決め込んで、口なんか出さない主義じゃなかった?」


 ルナの皮肉混じりの言葉に、サクはひとつ肩をすくめた。

「我の勝手であろう? 今日は……少し、気に入らない光景があっただけだ」


 そう言いながら、彼はゆっくりとアサギの方へ目を向ける。

 だがその視線は感情を含まない。哀れみでも、怒りでもなく、ただ“そこに在るもの”を見るような目だった。


「何もかもが、気に入らなかった」

 サクはぽつりとそう言うと、パチンと指を鳴らした。


 次の瞬間だった。


 ナイトクラブ全体に異様な冷気が走った。空気の色が変わるほどの、絶対的な冷たさ。床が薄氷を張ったようにきしみ、壁や天井がきらきらと凍りついていく。

 客たちの表情が恐怖に染まるより早く、彼らの足元から順に氷が這い上がり、体を完全に覆った。


 誰も叫ばなかった。

 声を発する暇すらなかった。

 氷に包まれた客たちは、その瞬間の姿勢のまま、まるで時間ごと凍りついたように動きを止めた。


 空気の振動も、音も、熱も消えた。

 そこにはただ、静寂と冷気だけが残された。

 店中が――完全に凍っていた。


 その中心に立つサクだけが、無傷のまま、変わらぬ表情で微笑んでいた。


 ルナは初めて言葉を失ったように、唇をわずかに動かし、息を呑む音だけを漏らした。

 その瞳には、はっきりと“焦り”が浮かんでいた。


「何が……したいの」

 ようやく絞り出した声は、先ほどまでの艶やかさを失い、低く沈んでいた。


「別に何も」

 サクは肩をすくめるように言った。

「我はただ、見ているだけだよ。どちらにも肩入れはしない。味方でも、敵でもない。だが……」


 彼は氷の中で怯えるように身をすくめたアサギを、ちらりと見やった。

「我の気分を損ねたやつは、こうなる。それだけの話さ」


 それは警告だったのか、それともただの独り言だったのか。

 サクは再び笑みを浮かべ、凍てついた空間の中央で軽く手を振る。まるで舞台に立つ道化のように。


 氷の彫像と化した客たち。凍りついた空気。そして、真ん中でぼんやりと立ち尽くすアサギと、彼の前にかばうように立つマリ。

 そのすべてを俯瞰するように、サクの視線は静かに流れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る