黄金色の稲穂21
アサギは床に浮かぶ断片的な文字を、吸い寄せられるようにして追っていた。
その言葉たちは、意味を持ちかけては霧のようにかすれ、記憶のどこかをかすめるたびに、ふっと指の隙間からこぼれていく。
「……医師が……」「……現場に……」
どこかで聞いたことがあるような響き。
けれど、それが何なのか、確かめようとするほど、輪郭は遠のいてしまう。
現実の皮をかぶった夢のような気配。
アサギの胸の奥に、じわじわとしたざわめきが広がっていく。
もっと近づかなければ。
この先に、何かある気がする。
その衝動に導かれるように、さらに目を凝らしたその瞬間――
ふいに、誰かがアサギの手をそっと包んだ。
驚いて顔を上げると、そこにはひとりの少女が立っていた。
まだ幼さを残しながらも、静けさと強さをたたえた眼差し。
アサギを見つめるその目には、不思議と迷いがなかった。
「読まないで」
少女は、ささやくように言った。
その声には、制止の響きよりも、守ろうとするやさしさが含まれていた。
小さな手は、ただアサギの動きを止めるのではなく、不安ごとそっと抱きとめるようだった。
アサギはその少女を見つめながら、戸惑いの中で言葉を探した。
「……マリ……?」
なぜその名前が口をついて出たのか、自分でもわからなかった。
けれど、その名は最初から胸の奥に宿っていたような気がした。
懐かしさとも、安堵ともつかない、言葉にならない感情が波のように寄せてくる。
マリは微笑んで、アサギの手を静かに握り返した。
その温もりに触れた瞬間、アサギの中のざわめきがすっと静まり、心の底に静かな灯がともるのを感じた。
ちょうどそのとき、遠くから列車の音がかすかに響いてきた。
夜の闇を割って、一本の光が近づいてくる。
ふたりは言葉を交わすことなく、自然と並んでホームへと歩き出した。
靴音が、静まり返った構内にかすかに響き、どこか遠い世界にいるような感覚を誘う。
やがて、列車が音もなく滑り込み、静かな呼吸のように停まった。
開いたドアの向こうからは、柔らかな光があふれている。
アサギとマリは、何のためらいもなくその中へと足を踏み入れた。
無人の車内には淡い光が漂い、夢と現実の境目をそっとなぞるような空気が流れていた。
アサギは窓の外の闇を見つめながら、そっと隣に立つマリの顔をうかがった。
彼女は前を向いたまま、少しだけ口元をゆるめていた。
その表情は静かで、深い安心を含んでいて、見る者のなかにあるざらついたものを、ふわりと包み込んでしまうようだった。
胸の奥が、不思議なほど穏やかになっていく。
やがて列車のドアが静かに閉まり、ふたりを乗せた車両は、夜の闇のなかへと滑り出していった。
あとには、誰もいない駅舎と、吹き抜ける風だけが残された。
ホームに刻まれたふたりの気配も、夜の深みにすっと溶けて消えていった。
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