日暮れの土手
壱原 一
正面から風が吹いた。草むらが揺れる音がする。音に引かれて目を向けると、斜めに上がる土手の一面にススキやメヒシバが茂っている。
空は青く、果ては茜色に燃えて、長く横たわる白い雲を薄紅色に焦がしている。
草むらと夕空の地平に、子供の人影が立っている。
逆光に黒々と遮られ、ふくふくした輪郭しか読めないが、陰りゆく残照の縁でぽつねんと佇む自分を、真っ直ぐ見下ろしているように感じる。
身じろぐと足元で石が鳴った。背後でちゃらちゃら川が流れる。日暮れの土手下で、自分も真っ直ぐ子供を見上げる。
俄に子供が意気を込めて、溌溂と澄んだ大声で、ゆっくり数を数え始めた。
ひーい。ふーう。
みーい。よーお。
数が数えられる度、瞬きもしない筈なのに、子供の隣に影が増える。背格好も男女も様々な、同じ年頃の子供の影。
増える毎に隣と手を繋ぎ、ひと連なりの影になって、まるでひとつの生き物の如く、それぞれの息づきや身動きにゆらゆら揺れ合っている。くすぐったげな含み笑いが入り混じる。
いーつ。むーう。
なーな。やーあ。
楽しさに弾けるような数え声の途中で、土手上の道の先から、荒い足音が聞こえ出す。
ざっざっざっざと跳ぶように駆ける、力に満ち溢れた足音。
間も無く食いしばった歯の間から押し殺した唸り声が漏れるのが加わり、徐々に歯列が開かれて、逆巻く激流がほとばしる風な、腹の底からの雄叫びへ変わり、怒涛となって至り来る。
あぶない。
あぶない!
逃げて、逃げて逃げて!みんな逃げて!!
逃げてーーー!!
頭の中で、1人分の子供の声が、けたたましく響き渡る。
声は外に届かず、土手上の子供達には聞こえない。
こーお…
並んで手を繋ぐ9人の子供達の横から、天を衝く大きさのおどろおどろしい影が覆い被さる。
きゃあっと悲鳴を上げて逃げ惑う子供達を、次々に掴み上げて食べてしまう。
どくどくと心臓が脈打ち、視界がぐらぐらとぶれる。息が上がり、汗が流れ落ちるのに、その場へ打ち留められたように指先ひとつ動かせない。
いくらも経たない内に、逃げる影は一つもなくなり、恐ろしい巨大な影は、体を丸めて項垂れ、ずるずると土手上を進み去る。
やり遂げてただ去ってゆく。
やがて、また、正面から風が吹く。土手上に子供が立っている。
真っ直ぐに自分を見下ろし、ゆっくり数を数え始める。子供が増えて手を繋ぐ。
違う、と頭の中で藻掻く。
そうできなかった。
けれどそうもならなかった。
*
ひ ふ み よ
いつ む なな や
こ
数え上げられる合間に、どくどくぐらぐらと焦り、何としてでも知らせよう伝えようと、死に物狂いで暴れる。
ああ、一声、一歩、腕の一振りでも示さなければ。この土手で繰り返し、繰り返し。
きっと今こそ動ける筈。今やっとこの時が来たのだ。
重い水袋のような腕を上げる。温かい手に、しっかりと握り締められる感触が返る。
それを支えに踏ん張り、川原に根が生えたようだった踵を引き剥がして走り出す。
叫ぶ。喚く。大声で、逃げてと。
日暮れの土手下の暗がりで独り見落とされたあの日。
恐ろしさに黙りこくって、棒立ちで見るしかできなかった自分の声を再生する。
起きてしまったこと。過ぎてしまったこと。取り戻せない物事の、その後を運ぶために走る。
今のこの期に及んで、あの忌まわしい大きな影に、好き勝手できる余地はない。
日暮れの土手を駆け上がり、同じ丈、同じ目線になって、逃げ惑う皆の中へ分け入り、大きな影を指さして知らしめる。
こいつはもう何もできない。皆に、何の手出しもできない。
知っている。罰を受けた。二度と皆を害せない。
指さした先の虚空に、ぽっかり黒い穴が開く。穴から何本もの腕が、猛り狂って溢れ出た。
大きな影を鷲掴みにし、引きずり寄せて穴へ連れ入る。押し込んで、ねじ込んで、抗う影の唸り声に、怒号と泣き声で蓋をする。
完全に収めて、ふうと穴が閉じてゆく刹那、腕の数本が9人の子供達の方へ伸び、遠くから撫でるように揺れた。
荒ぶる影の唸り声と、怒りと嘆きの狂騒が満ちる黒い穴へ、するする吸い取られていった。
*
黒い穴が消えた後も、9人の子供達は、驚きと戸惑いを露に穴があった虚空を見詰めた。
それから1人また1人と自分の方へ集まって、土手上に注ぐ夕日を浴び、懐かしい顔ぶれを輝かせる。
「居た」
「居たぁ!」
「どこに居たの?」
「探したんだよ」
「危ないから」
「一緒に居なきゃって」
「見付からなかった」
「心配したよ」
「無事で良かった」
独りで下に居たんだよ。それで見付からなかった。ごめんね。
ごめんね。
泣きべそを掻いて謝ると、良いよ、泣かないでと笑われる。9人が隣と手を繋ぎ、最後の1人に手を伸べる。
早くかえろう。皆でいこう。
目を拭い、笑って頷き、熱く小さな手を握る。今まで握り締められていた、温かい手の感触が、ふわりと解け離れてゆく。
ありがとうと言い、思いながら、日暮れの土手を全員でかえる。
これで漸くかえってゆける。
*
老いた目元から一筋が流れて、僅かに握り返していた力が絶えた。
きっと安らかに眠ったと全員が慰め合った。
いつも優しく、穏やかで、言い知れぬ陰のある人だった。
陰から日の下へ出たように、ほっと微笑んでいた。
終.
日暮れの土手 壱原 一 @Hajime1HARA
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