残像のケルウス

あじふらい

残像のケルウス

まるで悩む私の心のような薄闇の中に大きな影を見つけ、ハザードを焚きながらゆっくりとブレーキを踏む。

ぼんやりとした影はだんだんと輪郭を鮮明にし、その全体が顕になる。

立派な角の生えた大きなエゾシカだった。

さらに減速をする。

そのエゾシカは虚ろな目をしてぎこちない姿勢で立ち尽くしながら、尿を垂れ流していた。

先行車と事故を起こしたのか、森の中で傷付きたまたまこの場所で息絶えようとしているのかはわからないが、辛うじて息をしている彼はもう間もなく死ぬだろう。

生え変わったばかりであろう濃いこげ茶の冬毛は艶々と輝いていたが、彼が冬を迎えることはない。

もう彼には座り込むための力もなく、次に地面に伏すのはその息が絶える時であると容易に想像できた。


私はギアをバックに入れなおし、彼の少し手前まで戻ると、路側に車を停める。

車に積みっぱなしのライトを取り出し、点滅させた。

前後を確認して車から降り、恐る恐る巨体に近寄る。

フラッシュライトが何度も何度も彼を照らすが、彼は反応を返さない。

ツンとした匂いと、そこへ混ざる鉄臭さが鼻腔を刺激する。

車が一台、二台とこちらに向かってきているのが見え、路肩に退避しながらライトを大きく振る。


減速して通り過ぎる車のテールランプをいつくも見送ってしばらくした頃、突然ドサリと音を立て、巨体が地面に沈んだ。

目は虚ろに開かれたままだが、もう生の気配は消え去っていた。

初めて命の消え去る瞬間を見届けた。

誰もいない道で、既に魂の抜けた亡骸に目をやる。

篝火のように、発煙筒を焚く。


私は車に飛び乗る。

発煙筒の赤が急かすようにいつまでも網膜にちらついている。

脇道の林道に入り、未舗装に変わった路面を、揺られながら進む。

しばらく進めば、目当ての待避所が見えてきた。


駐車をし、準備をしていた登山用のザイルを肩にかける。

巨体の倒れるその瞬間がリフレインし、私の心を焦がしている。

山を駆り立てられるように進む。

安物のスニーカーがズルズルと滑り、手を付けば枝葉が突き刺さる。




宛もなく歩き続け、やっと納得のいく場所を見つけた。

目の奥でちらついていた焦燥は、満月に照らされた山の景色に馴染み、すっかりと消えている。

ザイルを目前の巨木に括る。

ジップロックに入れた一通の手紙をポケットの中で撫でる。

あの牡鹿の最期を見届けたあとから、心の靄は綺麗に晴れていた。

消えてしまった残像を追いかけるように、揺れる輪の中を覗いた。











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

残像のケルウス あじふらい @ajifu-katsuotataki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説