続ビストロ・ボヌール

長井景維子

続・幸せ食堂

店を始めて、3ヶ月が瞬く間に過ぎた。10食全部売れない日もあった。雨の日や風の強い日は当日になってキャンセルされることもままあった。仕入れた材料が余りそうな時は、誠とリサが食べる夕飯のおかずになった。


幸子は仕事に慣れ、毎週三日間は楽しく料理を客に食べてもらっていた。そのほかの日も、買い出しやその他、予約の受付など準備に追われた。自分の時間が減っても、この仕事にやりがいを感じ、始めたことを後悔する気持は全くなかった。


ある日、店が休みで、ひとりリビングでくつろいでいると、玄関の呼び鈴が鳴った。玄関に出てみると、スーツを着た見知らぬ中年の男が一人、立っていた。



「はい?」


「ビストロ・ボヌールさんにちょっとお願いがあって参りました。」


「はい。」


「実は、私の90歳になる母が、老人ホームにいるのですが、一度、外出させて、外食させたくて。私は独り者なので、料理に自信がなくて。ここでなら、美味しい家庭料理をランチに食べられると伺いまして。」


「はい。家庭料理で日替わりです。」


「母は高齢なので、杖をつかせていただくのと、申し訳ないのですが、硬いものは噛み切れないので細かくしていただく必要があります。その分のお手間賃は負担させていただきます。」


「あ、杖は大丈夫です。どのくらい細かくすれば良いですか?フードプロセッサーで砕きますか?それとも、包丁で細かく切れば食べられます?」


二人は打ち合わせをして、男は二人分の予約をして帰った。手間賃は要らないと幸子は言ったが、男は譲らず、ぜひ取って欲しいというので、三百円ということで落ち着いた。当日のメニューはまだ決めてないので、幸子はこのお婆さんを考慮したメニューをその日用に決めた。


白身魚の梅マヨ焼き。ほうれん草とマッシュルームのキッシュ。お婆さんにはおかゆ。一般はご飯。ワカメときゅうりの酢の物。ジャガイモと玉ねぎの味噌汁。りんご寒天。


白身魚は季節のもので、タラがよかったのでタラにした。お婆さんにもなるべく食べやすく、包丁で刻まなくても食べられるようにメニューを工夫した。ワカメときゅうりの酢の物は包丁で細かく切り刻んだ。あとは味噌汁の具をお婆さん用に一人分だけ細かく包丁で切った。白味魚とキッシュは箸で食べられるだろうと思った。キッシュのマッシュルームとほうれん草はお婆さんが食べられるように細かく切って焼いた。


二人が予約した日の、十二時を少し回った頃、その中年の男とお婆さんがやって来た。男の運転する車の助手席にちょこんと座って、心なしか不安そうに幸子を見上げた。幸子は微笑みながら、


「いらっしゃいませ。ようこそ。」


と言いながら、お婆さんに頭を下げた。お婆さんは、にこりともせず幸子をじっと見ていた。


「ほら、お母さん、車から降りて。」


男は助手席のドアを開けると、お婆さんに杖を差し出して、車から降りるように促した。

お婆さんは杖を受け取ると、男はお婆さんの両足を車の外に出して、肩にお婆さんを背負うようにして車から降ろした。お婆さんは杖をつきながらゆっくりと立った。



「さあ、こちらへどうぞ。お待ちしてました。」


お婆さんは、ずいぶん長い間、ホームから出ていないと見えて、キョロキョロと周りを珍しそうに眺めていた。男が先に立って玄関のステップを上がると、お婆さんはその後を杖をつきながらゆっくりとステップを上がり、幸子が開けた玄関に入った。


「あら、お家の中に入っていいの?正明?」


お婆さんは小さな声で不思議そうに尋ねた。


「ここはレストランなんだよ。ここでご飯食べるからね。この人がお店の人。この方が作ってくれたお昼ご飯だよ。」


幸子はもう一度頭を下げ、靴を脱いでもらうよう、促した。玄関のたたきにお婆さん用に椅子を一脚用意しておいたので、そこに座ってもらって靴を脱いでもらった。


「スリッパは危なければ、靴下のままでお寒くないでしょうか?」


幸子は男に尋ねると、


「はい。靴下のままで失礼します。」


と言いながら、お婆さんを家にあげ、自分は靴を脱いでスリッパを履いた。


杖をつきつきゆっくりと廊下を歩き、リビングに入ってテーブル席に座ったお婆さんを見守りながら、隣の席に座った男に向かって、



「メニューを少し工夫しましたので、必要なものだけ刻ませていただきました。できるだけお箸で召し上がっていただきたかったので。」


「はい。ありがとうございます。入れ歯はあるので。」


「はい、おっしゃっていましたね。」



そう言いながら、急須で緑茶を入れて、二人に出した。お婆さんはしばらく黙って幸子を見ていたが、嬉しそうに、


「あ、お茶ってこうやって飲むものよね。懐かしいわ。」


と妙なことを言い出した。男が微笑みながら、



「いえ、ホームでは大きなヤカンからプラスチックのマグカップに冷めたほうじ茶をもらうだけでして。お母さん、お茶が大好きなんだよな。よかったな。瀬戸物の湯呑みも何年ぶりだろうね。」


幸子は考え込んでしまった。お婆さんは幸子が淹れた八女茶をふうふう言いながら美味しそうに飲み干した。幸子はすぐさま二杯目を注ぎ入れた。お婆さんはまた美味しそうにお茶を飲もうとしたが、男が、


「お母さん、お茶ばかりでお腹がいっぱいになっちゃうよ。お昼ご飯が食べられなくなるよ。」


と笑っていた。お婆さんも初めて笑いながら、


「そうね。お茶ばかり飲んじゃいけないわね。でも、とっても美味しい。」


と、まだ名残惜しそうにお茶をすすっていた。幸子は、


「嬉しいです。故郷から取り寄せてるお茶なんです。美味しいって言っていただいて、嬉しい。」


料理をお盆に乗せて運ぶと、お婆さんはさらに目を丸くして、


「美味しそうだわ。瀬戸物の食器が懐かしい。」


と喜んだ。幸子は普段、ホームでプラスチックの食器で食事しているらしいお婆さんを思い、複雑な気持ちになった。


タラの梅マヨ焼きもキッシュも酢の物も、味噌汁も、美味しかったみたいだ。箸でさっと切れて、入れ歯でも噛めて、幸子の選んだメニューはまずまずだった。


「美味しいね。これ食べてごらん、おしゃれな味だよ。」


とキッシュを食べた男が言うと、お婆さんは、


「ケーキみたいだけど、卵の味が美味しいわね。初めてだけど、私の好きな味だわ。」

と喜んだ。



「固いものもなく、美味しくいただきました。ありがとうございました。」


「最後にお茶、もう一杯いかがですか?」


幸子は茶葉を新しくしてお茶を注いだ。


「正明、またここに連れて来てね。お願い。」


とお婆さんは嬉しそうに言った。


「わかった。また、一緒に来ようね。」


デザートのりんご寒天とお茶を飲みながら二人は話していた。


「またのお越しをお待ち申し上げております。」


幸子は満ち足りた気持ちになった。二人は満足そうに食事を終え、帰って行った。


1ヶ月後のある日、電話が鳴った。出てみると、ある主婦が予約が欲しいと言う。聞くと、妊婦の娘と自分の二人の予約が欲しいとのこと。幸子は快諾した。


その日はなかなか忙しく、昼過ぎから立て続けに客が六人来て、例の二人はテーブルが塞がったその後に現れた。お腹が大きいので、和室は無理かと聞くと、和室で良いと言う。

まだお腹は目立たない。


「何ヶ月ですか?」


と幸子が尋ねると、


「はい、今、4ヶ月です。」


とはにかみながら答えた。


「つわりはどうですか?」


「ええ、少しあります。やはり酸味は嬉しいです。」


と答えた。


幸子はこの妊婦のために、今日の献立を酢豚にしていた。デザートも伊予柑を剥いたものを用意していた。母親が、


「酢豚なら、あなた嬉しいわね。良かった。」


と言いながら、出されたお茶を飲み、娘の方も、


「私のために酸味のある献立にしてくださったのかもしれないわ。」


と言った。幸子はキッチンで酢豚の仕上げをしていた。


この日の献立は、酢豚、春雨スープ、ご飯、伊予柑。酢豚にはパイナップルも入れてみた。


「さあ、お待たせしました。どうぞ。」


幸子が和室までお盆で料理を二度に分けて運ぶと、二人は早速食べ始めた。


暫くして、二人は食べ終わった。


「ご馳走様でした。美味しく頂きました。」

と母が幸子に挨拶して、


「娘が添加物がゼロの味だ、と言って喜びました。私はずっと生活クラブに入っていたので、無添加の材料で娘を育てたんです。だから、娘は添加物が入っていると、味が変だと今でもわかるんです。」


幸子は嬉しくなった。


「そうですか。それは良かった。私も調味料は生活クラブです。お味噌、お醤油、砂糖、塩、ウスターソース、マヨネーズ、ケチャップなど、無添加のものを使っています。安心ですよね。」


「そうですか。それはありがたいです。また来させていただきます。お腹の子のためにも良いものばかりです。」


「お名前を伺って良いですか。今度予約された時に、授乳中なども対応させていただきます。」


「はい。後藤です。この子は長谷川薫です。」



幸子はノートにメモして、


「わかりました。元気な赤ちゃん、産んでくださいね。お料理したくない時なんかは、ぜひご利用ください。」


と言いながら、名刺を渡した。


「はい。ありがとうございます。」


また、数ヶ月が経ち、ビストロ・ボヌールは順調に売上を上げていた。幸子はすっかり仕事に慣れて、エスニック料理などもメニューに加えたりするようになった。



ある日、90歳の母を以前連れて来た中年の男がやって来た。


「いらっしゃいませ。今日はお一人なんですね。」


男は、


「はい、母は先月他界しました。」


「え?」


「はい。ここへもう一度来たいと言っていたのに、連れて来れなかった。」


「そうですか。」


「はい。今日は遺影を持って来ました。遺影の前で食事させて頂きたいのですが。」


「はい、どうぞ。」


男は悲しそうに周りを見回した。あのあと母は急に具合が悪くなり、寝込むようになってしまったと言う。


「最期まで認知症にはならなかったんです。意識ははっきりしていました。あの、キッシュですか?あれが美味しかったと、何度も。お茶は湯呑みでいただきたいとも。ホームで我慢をさせてしまって、親不孝です。」


男はそう言って、自分を責めた。幸子は、


「お母様は、きっとお幸せだったと思います。私のキッシュを気に入って召し上がってくださって、心に沁みます。」


「もう一度、連れて来たかった。」


「はい。私もお目にかかりたかった。」


男は遺影をテーブルの上に置き、幸子は二人分のお茶を淹れた。


「すみません。僕だけでいいのに。」


「私の気持ちです。今日は陰膳しましょう。」


幸子は男の分と、亡くなったお婆さんの分の料理を作り、お盆に乗せて運んでくると、お婆さんの遺影の前に一人前の料理を並べた。男は自分の分を食べ始めた。今日の献立は、

夏野菜のカレーライスとマカロニサラダ。スイカ。



「お母さん、陰膳してくださったよ。さあ、食べようね。」


と男は遺影に話しかけた。幸子は一人、キッチンに下がった。


食べ終わると、男は二人分の支払いをして、


「影膳、ありがとうございました。おかげで、少し罪悪感が減りました。母は今日、ここに来てくれていたような気がします。」


と言った。幸子は、


「きっといらっしゃっていたと思います。お寂しいでしょうが、お心をどうか強く持って

ください。ご冥福を祈ります。」


と言いながら、微笑んだ。男も弱々しく微笑んだ。


その夜、風呂に浸かりながら幸子は考えてみた。瀬戸物の湯呑みが老人ホームの老人にとって嬉しいって今回のことがあるまで知らなかった。日本人であるならば、瀬戸物の急須、湯呑みで緑茶を飲むことは、生活に欠かせない。老人ホームでは冷めたほうじ茶をプラスチックのマグカップでしか飲めないって、気の毒に思った。


自分一人で行動を起こすのは少し勇気が必要だった。リサが小さい頃からのママ友に確か老人ホームでボランティアしている人がいた。その人に連絡してみよう。


橋本さんに電話すると、


「あ、リサママ、お久しぶり。元気?」


と元気そうな声だった。幸子は、


「ちょっと相談したいことがあるの。日曜日、空いてる?」


「いいよ。駅前のスタバでお茶しようか。」


「うん。ありがとう。二時でいい?」


「オッケー。」


日曜日になり、幸子は橋本さんとスタバにいた。


「私、こんなこと始めたの。」


「え?すごい。」


幸子からビストロ・ボヌールの名刺を受け取ると、驚きながら、


「あなたって、有閑マダムが似合うタイプかと思ってた。意外だけど、楽しい?」


「うん。今の所、大丈夫。」


「そうなんだ。よかったね。で、相談ってなに?」


アイス・カフェラテをストローで吸い上げながら、橋本さんは幸子の目を見た。


「うん。実はね、ボランティアで老人ホーム行って、緑茶を飲んでもらうってどう思う?」


「そうね。緑茶は施設によっては出すところもあるの。ただし、美味しい茶葉は使ってないね。それに大抵はプラスチックのマグカップと大きな急須なの。」


「そうらしいね。私も最近耳にして驚いたの。湯呑みでお茶を飲むって、日本人にとってはごく普通の何の贅沢でもないことなのに、老人ホームでは贅沢なのね。」


「そうね。そう言われれば、その通りだわね。」


「私にもできるかな、ボランティアでお茶飲んでもらうの?」


「私、一緒にやろうか?」


「本当?」


「うん。月一くらいならできるかも。」


橋本さんはバッグから手帳を出して、


「その、レストランって何曜日が休み?」


と聞いた。幸子は、


「月火木が営業なの。水曜日と金曜日が休みよ。」


「ちょうどいいわ。私も水曜日空いてるよ。来月の第一水曜日、空けといて。近くの特別養護老人ホームに行こうか。前もってホームに連絡しなきゃいけないから、私、しとくね。」


「ありがとう。ポットとか急須とか湯呑みはどうすればいい?私、一応、店で使う十客はあるよ。」


「それぐらいあればいいよ。私も家にある急須と湯呑み、少しだけど持って行くよ。ポットも。」


「ミネラルウォーターも準備した方がいいね。お茶葉は私、準備しておくよ。」


二人は打ち合わせを終えて、別れた。幸子は自分で思ったことを行動に移す力を身につけた。これはビストロ・ボヌールを始める前には考えられなかったことだった。ビストロ・ボヌールで出会った、あの、亡くなったお婆さんの思いを無駄にしたくなかった。料理という仕事が、世の中を知ることに繋がっている。自分に出来ることを勇気を少し出してやってみる。世の中はやる気を出せば仲間に入れてくれるものなのかも知れない。


ボランティアに行くと、お年寄りたちは喜んでくれた。あるお年寄りが、


「コーヒーも飲みたいなぁ。もう何年も飲んでない、インスタントでいいから。」


と言った。幸子と橋本さんが主任に確認すると、確かにコーヒーは施設では出さないらし

いが、健康には良いので、ボランティアで飲ませてくれれば嬉しいとのことだった。


「来月、インスタントコーヒーお持ちします。マグカップは各自のものを使わせていただきます。」


と、橋本さんが言うと、


「そうですねえ。施設でもコーヒーを出してもいいのかもしれないですが、そういう文化が出来てしまっていて。」


幸子には知らないことだらけだった。ボランティアも始めると奥が深いな。自分の老後、コーヒーも飲めない日が来るかもしれないことは、ショックだった。なるべく長い間、健康でいたいものだと心から思った。


橋本さんが、


「私もリサママのレストラン、行ってもいい?お料理、上手だったよね。」


と聞いてきた。幸子は、


「もちろんだよ、大歓迎。お口に合うか分からないけど。」

橋本さんは、


「わかった。また連絡するね。来月はコーヒー持って行こうね。私、インスタントコーヒー用意するから、クリープとお砂糖、お願い。」


「了解!」


ビストロ・ボヌールは順調に売り上げ、幸子はいつの間にか住宅地でも、レストランの女主人で通るようになった。幸子はゆかりにメールを打ってみた。


「ゆかりへ。ご無沙汰してます。元気に店をやってるよ。老人ホームでのボランティアもやってみたり、楽しく過ごしてる。また、会える日を楽しみにしてるね。今度、実家に帰ったときに会えたらいいな。」


ゆかりから返事が来た。


「元気そうで何より。私も元気だよ。相変わらず仕事は疲れるだけ。幸子が羨ましいよ。帰省の際にはぜひ会おう。」


リサが花束を持って帰って来た。


「お母さん、誕生日おめでとう。」


「あ、うっかりしてた、そうだね、忘れてたよ。」


「年とるの忘れてるって良いことだよ。笑。」


リサと幸子は顔を見合わせて笑った。夕飯を作ろうとしている幸子の携帯が鳴った。誠だった。


「今日は誕生日だから、外食しよう。駅まで来て。イタリアン、予約したから。」


リサと幸子は身支度を急いで済ませた。リッキーが自分も行きたそうに見ていたが、ゲージに入れて、餌をたっぷりやった。


「リッキー、ごめんね。おもちゃ買って来てあげるね。」


幸子はリッキーの頭を撫でて、リサと一緒に玄関を出た。綺麗な満月が出ていた。色々あった四十代最後の年は文字通り幸せいっぱいの良い一年になった、月を見上げながら、そう思う幸子だった。

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続ビストロ・ボヌール 長井景維子 @sikibu60

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