ソロキャンプの女

北見崇史

ソロキャンプの女

 秋も深くなり、夏のあいだ賑わっていた湖畔のキャンプ場も閑散となってきた。

 土日はまだしも、平日に来るものはほとんどおらず、だから月曜日の今日はソロキャンパーが一人だけである。

 二十代中頃の女が一人で訪れていた。湖岸付近ではなくて、水辺から少し離れた木々の中にある啓けた場所にテントを張っている。ありがちのキャンプ用具を並べて、お湯を沸かしてお茶を飲んだり、椅子に座って文庫本などを読んでいた。

 女がそこに到着したのは午後の二時過ぎだったが、夕食の用意を始めるころには暗くなっていた。持参した焚火台に薪をのせて火を点ける。外灯がないので灯りはランタンだけだ。メニューはカップ麺と菓子パンである。凝った料理を作るつもりはないようで、お湯も焚火ではなくて、小さなガスコンロで沸かしていた。

 豆パンを食べながらカップ麺の汁をすすっていたが、一瞬動きを止めてから、そうっとおいた。耳を澄ませて湖岸のほうへ集中している。 

 足音と気配が近づいてきた。うら寂しいキャンプ場に泊っているのは彼女だけであり、当然のように身の安全を警戒する必要がある。

「ああ、焚火台を使ってんのか」

 暗闇の中から現れたのは四十代くらいの男だ。痩せた馬ヅラで、頭にはハンチング帽子をのせている。黒っぽいジャンパーを着ていて、ズボンのポケットに両手を突っこんでいた。

「まあ、これならいいかなあ。ホントは湖岸でやればばいいんだけど、まあ、火事にはならないし、いいか」

 初対面にもかかわらず挨拶はなかった。女と焚火を見ながら、あれこれと言っている。

「キャンプ場の敷地内なら、どこでも焚火はいいって看板に書いてあったので」

 女は焚火のことで注意を受けていると思っていた。

「まあ、そうだけども、ほら、飛び火が枯草に移って燃えだしたらたいへんだからさ」

「すみません。じゃあ、移動しますので」

「ああ、いいって、いいって。ここでもいいからさあ、いいんだって」

 移動の支度をするそぶりを見て、男はそうしなくていいと言った。面倒くさいことをしなくていいので、女はいくぶんかホッとした表情である。 

「夜の見回りですか」

「いや、散歩だよ」

「さんぽ?ええっと、管理人さんですよね」

 キャンプ場の受付に管理人はいなかった。利用者カードに記入して、利用料と一緒にボックスに入れただけであった。よって、この男とは初見となる。

「ああ、ちがうちがう」

「え」

 女の声が一瞬止まったが、すぐに警戒する表情となった。

「誰ですか」

「だから、散歩してんのよ。ここの湖畔の別荘地に住んでっからさあ」

「・・・」

 男は付近の別荘地に住んでいるという。女は、てっきりキャンプ場の管理人だと思い込んでいた。

「女のソロキャンプ、ちゅうやつだろう。さいきん流行ってるよなあ。へへへ」

「ええ」

 女は短めに返した。可能なかぎり話したくはないとのオーラが全開だった。ソロキャンプの最中に、好き好んで怪しげな中年男と二人っきりで話したいと思う女性は多くない。

「こういう道具って、けっこう金かかっとるんだろう。いくらぐらいだ」

「安ものなので」

 キャンプ道具のことを言っている。女の返答は相変わらず素っ気ない。男が立ち去るまで、塩対応で乗り切るつもりのようだ。

「まあ、若いからな。そういうのもいいんじゃなか。うんうん、いい経験になるしな。若いんだから、いろいろやってみればいいんだ。キャンプでもなんでもさ」

「・・・」

 望みもしていないのに見知らぬ人物から話しかけられ、さらに上からの物言いである。迷惑を通りこして、不快の感情まで達してしまう。

「あのう、なんですか」

「なんですかって、なんだよ」

「ナンパですか、警察呼びますよ」

「ナンパじゃねえよ。オレは話してるだけだろう。あんたに、なんも悪いことしてないぞ。警察とか、関係ないからな」

「もういいです」

 焚火が消えかかっている。女が火箸を突っこんでグリグリとかき回した。だけど火の粉が飛ぶだけで炎が立ち上がらない。

「ああ、ダメダメ。新しい薪をくべてさ、空気を吹きつけてやらないと」

「触らないでくれますか」

 男が勝手に薪をくべて、ふうふうとやっている。女は、すごく迷惑そうだ。

「いいからいいから。お礼とかいらんからね」

 通報すると警告しているのに、なおも恩着せがましく居座ろうとしている。その図々しさに呆れて、女は脱力したようにため息をついた。

「キャンプにきてるのに、カップラーメンとパンかいな。お金ないんだねえ」

「簡単にすませたいんです」

 バカにしたような言い方に、女はムッとして言い返した。

「なんだったら、オレの家にくればいいんだ。豚のバラ肉あるから、焼き肉するかい。焼き肉のたれも美味いやつがあるんだ。焼酎もあるから、飲み放題でもいいよ」

「いや、いらないです」

 男はしつこく誘ってくる。オレは独身だからなんも気兼ねしなくていいと、余計な情報もペラペラとしゃべっていた。

「ホントに通報しますよ」そう言って、キッとした目で睨んだ。

「ああ、べつに、そういうのじゃないんだけど。オレはさあ、あんたが心配なんだよ。こんな危ない場所で、若い女がさあ、バカみたいに一人でキャンプしてっからさあ」

 十秒ほどの沈黙があった。女は固まったまま考えをめぐらせている。ランタンの灯りを受けている中年顔が、意味ありげな笑みを浮かべていた。

「危ないって、どういう意味ですか」

「殺人犯がいるかもしれないからな」

「このキャンプ場にですか」

「キャンプ場だけというよりは、この湖の近辺だよ。なにせ、何人も殺されてるんじゃないかって話だ」

「何人も殺されているって、連続殺人?」

「まあ、そうだね」

 腕を組んで、したり顔で頷いた。

「この湖のこと、ネットで調べましたけど、そんな事件ないですよ」

「あー、出てない出てない。事件になってないからね」

「どういうことですか」

 男と係わりたくはないのだが、殺人という物騒なテーマが女の心に突き刺さった。広い湖畔のキャンプ場にて、たった一人の女キャンプをしている。確率は限りなく低いが、万が一ということもある。

「ここはキャンプだけでなくて、一人でハイキングにくるやつらもけっこういるんだ。そんで行方不明になるんだよ」

「だったら、警察が探すでしょ。テレビだって報道するはず」

「だからあ、行方不明になるのは誰も探さないような孤独なやつらなんだって。死んでも、気にもされないし、捜索願とかもないんだよ」

「ええっと、それって殺人事件ではないですよ。ただいなくなっただけだと」

「それが違うんだなあ」

 座りたいのか椅子らしきものを探すが、女が用意するわけもないので立ったまま話を続ける。

「酷い噂があるんだよ。消えたやつらの」

「臓器を抜かれたとかですか」

「もっとグロい」

「グロいって、なんですか」

 男が真顔になって口をつぐんだ。タメを作って、これからの話を効果的にする演出である。

「人喰いに喰われたんだって」

「え」

「この湖の周辺の山があるだろう」

 周囲を指さして言うが、当然のように真っ暗で見えない。女は記憶にある風景を思い出そうとしているのか、眉間にシワを寄せていた。男は満足して話を続ける。

「だいぶ前の話になるけど、山の中に精神病院があったんだ。火事になって、もう影も形もないけどな」

「山の中なのに精神病院なんですか」

「ああ、そうだ」

 よくあるホラー話の初期設定みたいだと、女が訝しんだ。 

「けっこう重度の患者ばかりで、まあ、なんていうか閉鎖病棟だよな。なんで火事になったのかわからないが、そのどさくさでヤバイのが脱走したらしいんだ」

「ヤバイのって、どんな人なのですか」

「だから、人を喰うやつだよ」

「・・・」

 ここで核心をついてきた。男は少しばかり後退って、暗闇の中へ体を半分ほど入れた。

「かなりイカレたのが隔離されていたらしいんだよ。まあ、病気だからしょうがないんだが、人の肉を喰うことに異常な執着をしていたみたいなんだ。食人にとりつかれていたサイコパスだ。そいつがな、いまだに捕まらず、このあたりに住み着いているってことだ」 

 男の顔はランタンの灯りの外にある。首から上は闇の中だ。

「そんな危険な人がいるのなら、どこかで目撃されるはずですよね」

「それがな、そいつはハイキング客だけではなくて、住人も喰い殺しちまったんだ。挙句に、その住人に成りすまして、なにくわぬ顔で生活しているっていうんだよ」

「そんなのムリでしょ。だって精神がおかしくなっているのだから、ふだんの行動も異常ですぐに見つかるはずです」

 フフフ、と無知を嘲るような笑いだった。

「サイコパスは、常に異常ってわけじゃないんだよ。ときどきそうなるだけで、いつもは温厚で人当たりもよくて、親しみやすかったりするんだ。あきらかに異常な行動をしていたら人は逃げてしまうし、そうなると人を殺せないだろう。油断したところを襲うのが、もっとも成功率が高いからな」

「・・・」

「ソロキャンプの女の子なんて絶好の獲物だよ。気さくに話しかけて、打ち解けた頃合いを見計らって殺せばいいんだ。目撃者もいないし、ゆっくりと食人できるってわけさ」

 恐怖に慄いている、と思ったが、女はわりと平然としていた。食べかけの豆パンに齧りつき、カップの紅茶をずずっと啜った。押しが足りないことに気づいた男が、さらなるホラーを追加する。

「なにせ人を喰う異常者だからな、殺し方も残忍極まりない。死ぬ寸前までゆっくりと引き裂いて、汚らしく食い散らかすんだ。それはもう悲惨で、見た者は吐きそうになるって」

 暗闇のどこかでフクロウが鳴いていた。あんがいと柔らかな響きで、その場を和ませようとしているみたいだった。

「怖い話ですね。でも、わたしはすごく安心しています」

「どうして」

 男の顔が灯りの中へ入ってきた。

「だって、あなたは気さくでも人当たりも、それほど良くありませんから。うっとおしくて迷惑で目障りだけれども、少なくともサイコパスではない」

 焚火の勢いが弱くなっている。女は火箸を突っこんでグリグリやるが、男は新たに薪をくべようとしない。

「怖がらせてくれてありがとうございます。おかげで退屈せずにすみました」

 意地悪を見透かされてしまい、男は頭を掻いた。

「でも行方不明者がいるっていうのは」

「ほんとうですよね」

 女そう言うと、意外そうな顔をしている。

「その精神病院から逃げ出したサイコパスの人喰いって、男のかたですか」

「あ?」

「人喰いが男性とは限りませんよね」

「いや、まあ、知らんけど」

「気さくに話しかけるのならば、女性のほうが警戒されないですよね。とくにソロキャンプをしている若い女の子なら、たのまなくとも、獲物は向こうからやってきますもの」

 今度は男が黙った。

「非力な女の子でも、人を殺すことはできますよ。たとえば、お話をしながら鼻の下を伸ばしきった男の背後に回るんです。油断していますから簡単なことですよ」

 女が立ち上がった。自分のほうへ来るのではと焦った男が一歩後退するが、彼女は薪をくべただけだ。ふたたび座って話しを続ける。

「そうして、ナイフで首を切ればいいのです。ちょっと押し込んで横に引くだけで、簡単に頸動脈が切断されますから。力はいりません」

 そう言ってジーパンのポケットから取り出したのは、小さな折り畳みナイフだ。男がそれを数秒間見つめてから、自分に言い聞かせるように言う。

「ここなら広いから逃げ切れる。大丈夫なんだ」

「わたしは足が速いですよ。同年代の男の子よりも、ずっと速い」

 抑揚のない声から意志の強さがにじみ出ていた。女から目を離さず、男は足元に落ちていた枝を拾った。木刀ほどの大きさがあり、それを二度三度と振り下ろした。

「オレは剣道をやっていたんだ。段も持ってるんだぞ」

「そのわりには、へっぴり腰に見えますけど」

 剣道の有段者というのに、その立ち振る舞いは素人に見えた。

「どうか、その枝をおろしてください。もし殴りかかってくるのなら、ほんとうに警察を呼びますよ」

 そう言ってから女はナイフをしまった。ケイタイをミニテーブルの上に置くと、薪をくべて火箸でグリグリし、炎の勢いをさらに強くする。

「わたしは人喰いではありませんから、そんなに脅えないでください。だいいち、信憑性の薄い都市伝説みたいな話を始めたのは、そちらですよ」

「べ、べつに、ビビっちゃいないって。ただ、ちょっと警戒しただけだ」

 枝を放り投げて、暴力の意思はないとアピールした。ヘタに警察を呼ばれたら面倒なことになる。女の体は細く華奢で、殺人ができるようには見えない。緊張を解いても大丈夫だと判断したようだ。

「まあ、噂話っていうのは尾ひれがついて大げさになるからな。行方不明者ってのも、山に入って遭難でもしてるんだろう。お姉さんがヒマそうだから、おもしろい話でもと思ったんだけどな」

 悪気はなかったと、ペコペコと頭を下げた。おふざけのつもりで女にちょっかいを出したのだが、逆に女のターンでやられてしまってバツが悪そうである。

「では、退屈ついでにこんな話はどうでしょうか」

 男が背を向けようとした時、女が問いかけるように話し始めた。 

「湖の向こうの山の中にあったのは精神病院ではないのです」

「いや、だから、その話はもういいや。オレは帰るから。いろいろ悪かったな」

「あそこには、山の者たちの集落があったのです」

 立ち去ろうとしていた男の動きが止まる。進行方向になにかの気配を感じた。

「大昔から山奥で暮らしていた者たちです。山の民といいますか、部族というか、集団といいますか」

 人に説明しているというよりは、一人でつぶやいているみたいである。

「山のもんって、サンカとかいうやつか。聞いたことがあるな」

「サンカは放浪の民ですね。いろんな呼ばれ方をしていますし、いろいろな集団があります。それぞれに繋がりがあったり、まったく独立している者たちもいます」

 男は帰るつもりだったが、女の誘うような語りに抗えないようだ。

「湖の向こうです。見えますか、あの山の、もう二つ向こうの山の谷あいにありました」

 二人がいる周辺以外は、ほぼ闇である。木々が邪魔して、別荘地の灯りも遮られている。女は真っ黒な空間を指さして、あそこよ、あそこと言っていた。

「あの山で、千年にもわたって、十数家族が暮らしていました。彼らが里に下りてくることは滅多になかったです。ほぼ隔絶した集落だったのですよ」

「俺はここの生まれじゃないから詳しくないけど、山の民なんか聞いたことないぞ」

「彼らが里の者と接触することはごく稀で、それも遠くの都会に行くからです」

「なんでだ」

「都会は人に無関心ですから。山の者が紛れ込んでも気にしません」

「だから、なんで山の者が降りてくるんだよ。隔絶された集落なんだろう。ふつう、そういうやつらって、ほかの人たちと接触しないだろうよ」

 怒ったような口調の男へ、女は端的に言う。

「金です」

「きん?」

「砂金で物品を買うのです。山の恵みだけでは、集落を維持することができないので、ずっと昔からの習慣です」

「金が採れるのかよ。おい、くわしい場所はどこだ。あの山の小川でとれるのか」

 砂金があると聞いて、男の語気が荒くなった。

「採れるというか、運んでくれるのです」

「運んでくれる?」

「砂金は人に採れない場所にあるので、運んでもらいます」

「誰にだ」

「知りたいですか」

 女の顔が止まっている。熾火を浴びて朱に染まっていた。それ以上先に進んではいけないと心のどこかで叫んでいるが、物欲が先に出ていた。

「ああ、知りたい」

 火鉢で熾火を雑に掻きまわしてから、女が男を見て言う。

「土竜」

 一瞬、間があいた。

「モグラ?」

「そう。彼らが土中を這い進み、その毛皮に砂金をたくさん付けてきます。土はまったく付かないのに、砂金だけがくっ付いて、それはもう金色に輝いてきれいな土竜です」

 数秒間の空白で、男の思考が我へと戻る。

「ハハハ、なんだ冗談かよ。まんまと食いついちまった。やられたよ。モグラか、くだらねえなあ」

 男は苦笑いしながら首を振っていた。

「砂金を街へ持っていくのは、集落の若い女の役割なんです」

「もういいってよ、そのヨタ話は。モグラとか、マンガにもならねえわ」

「若い女が選ばれるのには理由があります。物品を買うだけではなく、もう一つの役目があるからです。それは女にしかできないことです」

 なんとなく性的なニュアンスを感じさせた。男は耳を澄ます。

「集落に外の血筋を入れなければなりません。そうしなければ血が濃くなりすぎて、滅んでしまいますから」

「じゃあ、パパ活でもしてたっていうのか。それとも立ちんぼか」

「誰とでも、なんでもします。不良やヤクザ、たとえ垢とシラミまみれの浮浪者にも抱かれます。妊娠さえすれば、相手の素性など、どうでもいいですから」

「作り話だとしても、ちょっと酷いなあ」

「ヒドイのは、役目を果たせなかった女の末路です」

「妊娠しなかったってことか」

「子供を宿すことのできない女は価値がありません。土竜が持ってくる黄金の恩恵に泥を塗る存在です。集落に対する背信となります。生きて戻ることは、けっして許されません」

「もう、帰るかな」

 話が剣呑な方向へと下り始めた。これ以上係るとロクなことにならないから、早く帰りたいと思っていた。

「この地で行方不明になったのは女だけです。子供を宿すことができなかった若い女が、生きたまま、ゆっくりと時間をかけて引き裂かれたのです」

「もういい、くだらない話はやめろ」

 目の前の蚊を掃うように、、男が二度三度と手を振った。

「体を毟られる痛みに絶叫するのです。精神病院で重度の患者が金切り声をあげるように、その叫びは、聞くものの耳の柔らかい神経を尖った鉤爪で引っ掻きます」

「だから、やめろと言っているんだ」

「どんな痛みなのでしょう。骨から肉をベリベリと引き剝がされる苦痛には、とても耐えられそうにありまえん。いっそ死んでしまいのだけど、山の者は容易く死ねないのです」

 女は立ち上がっていた。細長の目をいっぱいに開いて男を見る。

「な、なんでだよ」

「呪い」

「呪いって、なんのだ」

「黄金」

 そう言って、拳を突き出した。そこから砂のようなものがサラサラと流れ落ちている。熾火の赤を受けてキラキラと光っていた。

「オレは帰る。くだらない話には、もう付き合いきれない。時間の無駄だ」

 吐き捨てるように言ってから、くるりと振り返り立ち去ろうとするが、すぐに立ち止まった。

「うっ、なんだ、土臭いぞ。すごく土臭い」

 帰り道の方向から土のニオイがしている。まるで鼻の奥へ土を突っ込まれたように、とても濃厚な臭気だった。

「務めを果たせない者は苦しみぬいて死にます。土竜のニオイがしたとき、呪いは痛みとなるのです」

 異様な臭気に怖じ気づいて、来た道から帰ることを男は諦めていた。振り返りほかを探そうとして、ギョッとする。

 女の両脇がキラキラしていた。ランタンの灯火を浴びて暗闇にうっすらと浮き上がっているのは、男が見たこともない生き物だった。

「なんだ・・・、」

 巨大なネズミみたいなものが、女の両側に密着して立っていた。着ぐるみを来た人でないのは、あり余る生命のオーラでわかった。出会ったら死を予感させるような、ケモノの気迫があった。 

「おま、その頭は・・・」

 女の髪型がおかしなことになっている。髷を落とした落ち武者みたく、中央部に頭髪がなかった。ただし、肌色の地肌を見せているわけではない。そこは赤くたいがいに湿っており、ベロベロとしてグロテスクだった。血のしずくが額を通してポタポタと落ちている。

 男は悟った。あれは頭の皮を剥されているのだと。

「ギャアアアアアアーーーーーー」

 けたたましい悲鳴が闇をギザギザに切り裂いた。生皮を毟られたあまりの激痛に、多少のタイムラグを経て、女が絶叫したのだ。

「うわああっ、やめろ」

 女の頭部への残虐は始まったばかりだ。

 キラキラと光る毛皮のケモノがぶっ太い爪に髪の毛を巻いて、左右の残りをゆっくりと引き剥がしている。

「痛い、痛い、痛いっ、もう引っぱるな、イタタタタタタタタ、ギャアーーーー」

 人の頭の皮を剥ぐには相当の力が必要となるが、ケモノたちの腕力は強く容赦がなかった。ただし、あくまでもゆっくりと、できるだけ苦痛が長引くように剥いでいた。

「か、顔っ」

 頭部が真っ赤な溶岩だらけと化している女ではない。男が驚いているのはケモノたちの顔だ。

「に、肉だらけ」

 ケモノたちの顔には肉の花が咲いていた。五弁や六弁ではなく、無数の肉が咲いているのだ。しかも、それらのおぞましい花弁は存外に長く、タコの足のようにうねっている。鼻孔にたくさんの突起があるホシバナモグラに似ているが、それよりも大仰で迫力があり、なによりも奇っ怪で気色悪かった。

「助けて、たすけて、頭が痛い、死ぬほど痛い」

 頭皮をすべて剥ぎ取られた女が懇願していた。肉弁のケモノが彼女を両側からガッチリと押さえているので、逃げ出すことができない。

「ギャーーーーーーーー」

 悲鳴は暗闇の隅々まで浸透し、金切り声になるほど男の心を削り取る。

「やめ、やめてやめて、ギャアアアアアーーーーーーーーーーー」

 右の肉弁のケモノが爪の先を頬に突き刺し、そのまま毟った。耳の下まで引き剥がされた頬が、ベローンとぶら下がった。

「ギャアアアアアーーーーーーー」

 左の肉弁のケモノは女の股間に爪を突き立てて、グリグリと回し始めた。ジーンズが破れて、股の間から大量の液体が滴り落ちている。鉄混じりの生臭い臭気が、驚愕して身動きできない男のまわりにわだかまった。嘔吐の衝動が沸き上がっていたが、女とケモノたちを見ることに集中しすぎて麻痺してしまう。

「ほら、これだ――、これを見ろーっ、ギャーーーーーーーー」

 絶叫とともに女が言っていた。自らの声量で喉を傷めつけている。

「わたしは死にたい、死にたいけど許してもらえない。なにもできない女のぶざまを見るがいい。化け物にもてあそばれる女の地獄を知るがいい。これが女だ、あれだけ尽くしたのに、身を粉にして働いたのに、最後はこうなるんだ。女はこうなるんだ」

 砂金を纏ってキラキラと輝く肉弁のケモノに蹂躙されて、女の肉体が剥されてゆく。すでに絶命しているのが医学の常識だが、彼女はしぶとく生きていた。阿鼻叫喚は暗闇を真っ赤に彩り、太い樹木を芯から枯らせようとしている。土のニオイは耐えがたいほど強烈となり、まるで土中で深呼吸をしているかのようだ。

「オレは関係ない。ただの通りすがりだから」

 男のつぶやきはか細い。肉弁のケモノと女から視線を外して歩き出した。真下近くまで首を垂れている。冷や汗が止まらず、背中がびっしょりと濡れていた。

「あ、」

 だがしかし、逃げようとする先が土臭過ぎた。

 暗闇の中から肉弁のケモノが姿を現した。しかも数が多い。あちこちにいて、男がどこへ行こうと立ちはだかるのだ。仕方なく進める方向へ歩き出すのだが、そこには無惨にも毟り剥がされた女の残骸があった。

 男は知らんぷりして、その脇を通り過ぎた。自宅とは逆の、さっき女が指さした山の奥へと歩を進める。周囲は真っ黒であり、目を開けても瞑っても同じことだった。

「ギャアアアアアアーーーー」

 肉弁のケモノが女の足をつかんで引きずっていた。肉と骨の残骸となり果てていたが、甲高い悲鳴は尽きることがなく、男の後をついてくる。

 赤の他人に気安く声などかけるべきではなかったと、深く悔やみながらの早歩きであった。

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ソロキャンプの女 北見崇史 @dvdloto

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