第22話 題材

 日曜日の朝。日課となった早朝のランニングを終えた俺は、ランニングの時に着たものとは別の、前の高校のジャージを持って峰先生の教室に向かっていた。

 関口さんからの連絡によると、関口さんがどれだけ踊れるかの確認が済んだのか今日から俺も指導が受けられることになったのだ。

 インターホンを鳴らしてマイクに「斑目です」と声をかける。

 中から近づいてくる足音が聞こえ、峰先生が扉を開けて出迎えてくれた。

「いらっしゃい、斑目くん。行きましょうか」

 出迎えてくれた先生と共にレッスンルームへ向かう。ガラス戸を開け、靴を脱いでいる途中で峰先生から話しかけられる。

「そうそう、今日は本当なら舞ちゃんも来るはずだったんだけど…お家から電話があって、今日は熱を出してるみたいでお休みするみたいなの」

「そうなんですか…」

 初耳であったが、今日は一人でレッスンを受けるつもりだったので問題無い。

 更衣室を借り、普段着からジャージに着替える。来てすぐに着替えるなら下に着てくるなりすれば良かったかもしれない。

「さて斑目くん、朝のランニングは続けてる?」

「それはもう…はい」

「そう、良かったわ。でもね…斑目くんが頑張ってくれてるのに悪いんだけど、私の舞台の構成の方が固まってなくてね。教えるって言っても本当に基礎も基礎のものになっちゃうのよ」

「…前から思ってたんですけど、舞台の構成ってどういうことを言うんです?」

「構成って言ったら…踊り方だったりパートごとの変化はそうだし、ストーリーとそれに合わせた演技指導も入るわね」

「演技?踊るだけじゃないんですか?」

「それはそうよ貴方。バレエだって元々は舞台舞踊、『白鳥の湖』とか『くるみ割り人形』って見たことない?」

 『白鳥の湖』の名前を出されて俺はようやく理解する。

「てことは今は…ストーリーをどうするかで悩んでいるんですか?」

「ん〜…ストーリーってのはそうなんだけど…まず決めなきゃいけないのは方向性なのよ」

「方向性?」

「悩んでるのよ。舞ちゃんを一番綺麗に見せるならバレエの要素は入れたいけど、舞ちゃんは一人で踊ったことしか経験が無いのに無理やり二人でバレエを踊るって決めちゃったら、斑目くんはどうなるのってねぇ…」

「二人で踊るバレエってあるんですか?」

「あるにはあるのよ…パ・ド・ドゥっていうのが」

「パド…?」

 聞き慣れない単語のため思わず聞き返す。

「あぁ…デュエットみたいなものよ。こっちは男女二人で踊る方だけど」

 相当悩んでいるようで、峰先生は腕を組んでそこらを歩き回り始めた。

「二人で踊るっていうなら社交ダンスみたいにした方が早いけど…二人とも経験がないのにメインに据えるのは怖いのよ」

「社交ダンスって難しいんですか?」

「ものにもよるとしか言えないわね…。それっぽく見せるのだったらまだなんとか…でも観客は高校生が大半なんでしょ?」

 聞かれて俺は頷く。

「だったらなおさら…他のダンス部だったりが若者ウケしやすい創作ダンスを踊るのに、貴方達が初心者なのに社交ダンスを披露なんてしてもねぇ…」

 先行き不安、俺達の現状を表すのならそれが適切だろう。

「ところで斑目くん、貴方…大人数の前でパフォーマンスをする訳だけど、それって大丈夫なの?大人数の前で何かしてた経験とかってあるのかしら?」

「!…実は―――」


「あがり症って…舞台なんて到底上がれないじゃない…」

「…はい、ですが、そこをどうにかっ…考えたいんです…」

「でもねぇ…こればっかりは…」

「…お願いしますっ…!」

 峰先生は追加の悩みの種が入り、ひどく困っている。

 自分で言うのもなんだか、難しい役割を押し付けたものだと思う。

「じゃあ…どういうところで苦手意識が出てるとかってわかってる?」

 俺は今までの緊張に苦しんでいた時のことを、じっくりと思い出す。

 長期休みの作文をクラス全員の前で音読するため席から立った時、班の課題を発表するためにマイクを手に取った時、今の高校へ転校してきて自己紹介をするため教壇に上がった時、あの…告白の時。

 どんな時も、人の視線が怖かった。

「視線というか目が合うのが怖いっていうか…目が合わなくなると、段々と体に力が入らなくなっていくんです…」

「う〜ん…よくあるものだろうしねぇ。そういう時はネクタイのあたりを見れば良いって聞いたことがあるけど…」

「それは…過去にやってた時期があったんですが…それでも失敗して…」

「有名なものだしね…。だったら緊張から抜け出す何かって無いの?ルーティーンだったり、お守りだったり」

「そういった物は特には…」

「何でも良いのよ。逆に怖くて仕方なかったけど克服できたものとか、普段からリラックスするために使ってる何かだったりは…」

 克服、リラックス、どちらも俺とは縁遠い言葉だ。

 こういった負け戦を何度も経験して、戦う準備自体を億劫に感じるほどに負け続けてきた俺に今さら、緊張から来るパニックを打ち消せるものなんてものは…


『…茹でガエルって知ってる?』

『蛙を水が溜まった鍋に入れて、少しずつ温めていったらそのまま気付かずに茹でガエルになるって話。聞いたことない?』

『ああいう風に、少しずつの刺激を加えていって訓練するのが大事だと思うの』


「…………関口さん?」

 峰先生は振り返り、扉のほうを向いた。

「…?舞ちゃんが来てるの?」

 先生は教室の扉を開け、玄関まで確認に行った。


「斑目くん、舞ちゃんなんてどこにもいないじゃないのよ…………斑目くん?」

 あったんだ…。途中から、ずっと隣に。

「峰先生…見つかりました。僕にとってのお守りが」

 峰先生は首をかしげ何のことかわからない様子だ。

「僕は…関口さんが、関口さんさえいてくれれば…どんなことだって出来ます」

 そうだった。克服できたもの、リラックスできるもの、両方を満たしてくれる存在が俺にはいたんだ。

 峰先生は大まかにだが俺の言いたいことを理解してくれた様で、目を大きく見開いた。

「えっ!貴方達ってそういう関係だったの!?あらやだ私ったら…、舞ちゃんママから聞いてた分だと良いお友達としか言ってなかったからつい…!」

「あぁいえいえ、僕らはまだ『いいお友達』ですので」

「まだって…それより貴方、急に落ち着いたわね…」

 まだはっきりと答えが返って来てないんだ。返事も待たずに勝手に外堀を埋める様な真似はしたくない。

「それよりも舞ちゃんが斑目くんにとってのお守りって、本当にそうなの?疑ってるわけじゃ…いや、疑ってるんだけどね…?」

「本当なんです」

 俺が自分で言うのもおかしな話だが、どこまでも真っ直ぐな目をしていたと思う。

「…で、斑目くん的に舞ちゃんは具体的にどういう所がお守りな訳?」

「何というか…関口さんを見つめていると頭を真っ白に出来て、緊張だったりをスゥ〜ッと忘れることが出来るんです。目が離せなくなって、他の全部が気にならなくなるっていうか…」

「…その説明、舞ちゃんがとんでもなく危ないものに聞えるんだけど本当に合ってるのよね?」

 俺は激しく頷く、今の説明が全てだ。

「…まぁわかったわ。それって、ずっと見てなきゃいけないの?それともその状態がしばらく継続できたりするのかしら…?」

 俺は顎に手を添えて考える。

「試そうと思って試したことは無いんですけど…その状態で関口さん以外の何かを目に入れたら真っ白から一気に引き戻されてしまうと思います」

 恐らくは、梅干しを見て唾を出す様な条件反射の一種なのだろう。

 梅干しを散々見続けた状態で赤いスーパーボールを見つめても、唾が出る状態が持続しない様に、関口さんのことだけを考えられる状態は、関口さんを見ている時しか持続しない。

「にしても、『見つめる』ねぇ…ちょっと現実的じゃないかもよ」

「…!どうしてですか!?」

「どうしても何も、足元が見えなくて難しいとか依然に、どうしたって不気味に写るじゃない」

「不気味…ですか?」

「見たことある?足元も進行方向も全く見ずに、パートナーだけを見ているダンサーなんて」

 俺はそもそもダンサーを見る機会自体が少ないのだが、そんなに異質に写るものなのか。

「そんなに…ダメなんですか?」

「バレエもタンゴも社交ダンスも、ずっと相手だけを見ているなんて、技術的にも芸術的にもあり得ないのよ」

「そんなっ…」

 この先生があり得ないとまで言うんだ。それほどまでに異様で非現実なものなのだろう。

 しかしどうする。今までのようにぶっつけ本番で上手くいくことに賭けるのか。

 そうして上手くいったことが、今までに一度でもあったか。

「でも…良いじゃないの。そういうの」

「…え?」

 峰先生はちょっと待っててと言い、しばらくその場で考え込んでいると、パンッと手を鳴らした。

「わかったわ!斑目くん、貴方は『人間じゃない役』をしましょう!」

「えぇっ?」

 突然決められた僕の役の方向性に驚きが隠せない。

「いや、普通に踊るだけだったら役とか別に決めなくても…」

「その普通が普通じゃないから!それに合う役を決めるんじゃない!」

 迫力が先程までの峰先生と比べ尋常では無い。関口さんに初デートに誘われた時のことを思い出した。付き合いの長さから、根っこの部分が二人とも似通っているのだろうか。

「『人間じゃない役』って…犬とか猫とかですか?」

「まぁ…最悪それでも良いけど、『舞ちゃんだけを見てても違和感が無い役』よ!」

 峰先生は目を爛々とさせ、俺がまだ理解の出来ていない名案を考えついた様だった。

「歪だけど、それでも確かな愛が感じられる!滑稽に見えて、どこまでも純粋で!その人にしか価値を見出せないあまり、その人以外目に映そうともしない!そんな役よ!」

 腕を大きく広げ、言葉を発する度にアチラコチラに体を向け熱弁している先生は、舞台に立つ役者の様に見えた。

「…具体的には…?」

「そうねぇ、まぁゾンビとか…操り人形…フランケンシュタイン…理性を失った狼男なんかも良いし…いっそ全身を金属に覆われたロボットなんてのもアリねぇ…」

 選択肢がハロウィンの仮装じみてきた。

 ホラーが苦手と言っていた関口さんであれば、ダンスの相手にゾンビやフランケンシュタインは嫌がるだろう。狼男やロボットは、被り物や装飾により俺がまともに踊れなくなりそうだ。

「その中だったら…操り人形ですかね」

「操り人形!良いわね…!普段はただのマネキン人形。しかしどこからか繋がった魔法の糸…。ぎこちなくも紳士的に木の腕で女性の手を取り、一夜限りの舞踏会…最高じゃない!」

 想像を次々と口走る様子にも磨きがかかり、どこからかスポットライトが差して見えた。

「良いのが出来そうね…こうしちゃいられない。今から構成固めてくるから斑目くん、今日はお疲れ様!」

 峰先生は大きな足取りで部屋から出ていこうとする。

「えっあの、俺はどうしたら!?」

 扉から首から上だけを出した峰先生が返事をする。

「今日は着替えて帰って!この教室の鍵は掛けなくて良いから、電気だけ消して帰ってね!」

 そう言うと峰先生は廊下へ消え、ガラス戸を開け閉めする音がした。

「…着替えるか」

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