第35話

手付かずの前菜の横に、スープが運ばれてきた。

「あの、飲んでいいですか?」

 ワイングラスを持ち上げて咲来が許可を求めると、

「あ、いいです。内々定の話だけちゃんと伝えておきたくて」

と、後藤は手で促した。

 赤ワインを口に含むと、咲来の口の中に葡萄の香りがふわりと広がった。


「別に、飲みながらだって聞けますよ」

 前菜を口に運んで、咲来はモゴモゴと訴えた。

「そうかもしれないですけど、俺、ササラちゃんが酔っ払うと記憶無くすの知ってますから」

「ええ?いつそんなことありました?」

「やっぱり全然覚えてないんですね」

 後藤は困ったように苦笑いした。

「五月頃だったかな。ササラちゃん、秤量室で俺に話しかけてきたんですよ」

 そう、咲来の記憶を試すように言った。

「俺の香水を、何の匂いでしたっけって」

「あ、それは覚えてます。金木犀の匂いだって教えてくれましたよね」

 咲来が応じたら、後藤は安心したように笑った。

「良かった。それすら忘れられてたら俺、ちょっと凹むところでした」

 ちゃんと全部覚えてますよ、と咲来は膨れてみせたけど、どうかな、と後藤は信じなかった。

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