金木犀の記憶【完結】
@Marikos
始まり
第1話
メチルセルロース、通称MC溶液はほとんど残っていなかった。
大学四年生の咲来さらは、卒業研究として、ある被験物質の慢性腎臓病に対する薬効を調べている。
水に溶けない被験物質を実験マウスに経口投与する時、咲来のいるラボでは、MC溶液と呼ばれる媒体に混ぜこんで投与する。このMC溶液は、ラボ内で他の研究生とシェアしているのだが、少なくなった時の補充は、最年少の咲来が暗黙のうちに担うことになっている。
咲来は小さくため息を漏らすと、スーツのジャケットを脱いで白衣を羽織った。
MC溶液の調製には少しだけ手間がかかる。
咲来はまず、メスシリンダーで精製水を500mlはかった。そのうちの一部を耐熱ビーカーに移して、マグネットスターラーで攪拌しながら80℃に加温されるようにヒーターをセットする。残りの精製水が入ったメスシリンダーは、冷室に持っていって冷やしておく。そして、他のラボと共用の秤量室に行って、電子天秤でMC粉末をはかりとった。
【オオマササラ 2.5 g】
MCの使用記録表に、ボールペンでそう記入した。
【ゴトウトモヤ 5.0 g】
すぐ上にはそう書かれている。この使用記録表には、ゴトウという人と咲来のサンドイッチが延々と続いている。
大政咲来ーー。
咲来はまだその苗字に慣れていない。カタカナで書かされると特に、自分の名前ではないような気がしてしまう。
高校生までは谷口咲来だった。高校一年生の時に親が離婚して、大学進学のタイミングで母方の苗字に変更した。
咲来の母親は当初、『咲来が結婚するまでの苗字だから』と言っていたけど、最近になって『ママには咲来しかいないの』と娘にすがるようになった。その母親は、気分の浮き沈みのせいで仕事を続けられなくなった。病院でついた診断名は、統合失調症だった。
母親が離婚時に慰謝料をもらわないことにしたから、収入源を失って、咲来は大学院への進学を諦めた。一生この苗字かもしれないと、覚悟し始めている。
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