リストカット・シンドローム
イグチユウ
リストカット・シンドローム
田中美穂菜は変わっている。
彼女は、俺と同じ学年の女子生徒なのだが、高校生とは思えない大人びた美人で、男子が女子について話をするときは必ずと言っていいほど名前があがってくる。彼女に告白しようと勇猛に突っ込んでいった男子生徒達はたくさんいて、そのすべてが見事に撃墜されている。今ではもう彼女に告白してもいい返事はもらえないだろうというのが学年内での見解で、一年も中盤にさしかかる頃には彼女への告白の嵐はほとんどやんでいた。といっても、彼女の人気はなくなったわけではなく、いつか必ず自分の彼女にと、息をひそめている連中もたくさんいるらしい。
しかし、俺は彼女と一年間ほとんど接点はなく、挨拶を交わしたことさえなかった。廊下で何度かすれ違ったり、図書館にいるのを見かけたりすることはあったが、そんなものは風景の一部に彼女がたまたま入っていたというだけのことである。なので、俺にとって彼女は「男子にもてる美人な同学年の女子生徒」というだけであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
そして、今年の四月、俺は彼女と同じクラスになった。別のクラスになった友人からはとてもうらやましがられたのだが、俺の感想は「へ~、そうなのか」と思った程度で、特に同じクラスになったからには是非、お近づきになりたいだとかそういう思いは全くなかったのである。もともと女子とそれほど積極的にかかわる性格でもなかったし、関わるような出来事があれば、少しは話をしたり挨拶をしたりすることはあるかもしれないが、そんな出来事がなければ彼女と一年間言葉を交わすこともないのではないかと思っていた。
しかし、同じクラスになってみるとそんな思いはすぐにひっくり返ってしまった。
彼女は、今まで自分が出会ったどの人物からも感じたことのない独特な雰囲気を感じたのだ。見た目がきれいだからというだけの理由ではなく、気がつくと彼女のその雰囲気に引き寄せられるように視線を向けてしまっている。
彼女は普段、クラスの女子生徒たちとごく自然に溶け込んでいる。しかし、そういう場合はたいてい相手から話しかけてきているのであって、自分から積極的に離しかけている姿は見たことがなかった。誰とでもうまく関わっているが、親友と呼べるほど仲のいい相手はいないようだ。広く浅くで、相手にも深入りさせず、自分も相手に深入りすることはなかった。そこには自分の本質が誰にも理解されないだろうという、諦めが感じられる。
彼女は一人でいるとき、ほとんどは真剣な表情で本を読んでいた。本にはカバーが掛けられているので、どんな本を読んでいるのかは分からないが、彼女のその姿はまるで一枚の絵画のようだ。彼女から発せられる雰囲気は高校生の少女のものではない。それをどう表現したらいいのかは分からないが哲学者のようでもあり、科学者のようでもあった。
ただ、彼女は常に何か一つのことを考えているのだと、僕は確信に近い想像をしている。しかもそれは世界にとって重要事項なのでは、と思わせるほどの雰囲気が彼女にはあるのだ。しかしどんなに一人で想像してもその根源は分からない。独特のニオイを漂わせながらも、そのニオイの元が何であるのかということを悟らせることはなかった。
最初は、そんな考えを自分の中だけに留めておいたのだが、他のクラスメートたちも同じようなことを感じているのではないかと思い、親しい男子生徒に話をしてみたことがある。
「田中さんって、独特の雰囲気がないか?」
「まぁ、確かにな。――なんだ、好きなのか? 止めておいた方がいいぞ。高嶺の花すぎる。おもえだって、彼女に振られた男たちの話は知っているだろ?」
彼は茶化すようにそういった。そして、そこで俺は初めてその可能性について考えた。俺は彼女に恋をしているのだろうか? と。確かに今や彼女の存在は俺の中で特別な存在にはなっていたが、過去に恋愛経験のない俺には、それを否定することも肯定することもできない。恋愛感情というよりは知的好奇心であるような気がするが、それが恋愛感情というものだと言われてしまえば納得できなくもない。
その曖昧さは少し気分が悪かった。まるで自分の心臓に異物を入れ込まれたかのようである。その感覚を振り払うと、私は友人に答えた。
「それは正直分からない。ただ、気になってはいる。彼女の何かを深く考えているような雰囲気が」
「それは……、そうだな、あれだ。彼女が美人だからだ」
「美人だから?」
友人のその答えに俺は首をかしげた。
「美人っていわれるような女性は、その用紙のせいで勝手にそういう雰囲気を醸し出してしまうものなんだよ」
「……成る程」
友人のその意見は、今まで自分が考えていたのとは全く違う角度だった。人の意見というのは聞いてみるものだ。おかげで、思考の幅が広がった。
ただ、確かに友人の意見も一理あるが、それが正解であるようには思えない。俺の勝手な推測だが、彼女の持つ独特な雰囲気の根源はそこではないだろう。
「案外、どうでもいいことを考えているのかもしれないぜ?」
「どうでもいいこと?」
「例えば、世界平和とか」
「……どうでもいいのか、それは」
その後も俺は想像を膨らませていたが、答えは出なかった。勝手な想像が真実という理想の答えになるわけもなく、しかもそれは割れずに限りなく膨らんでいってしまうのだと俺は学習した。
結局は他人が考えていることを、全て把握しようとするのは無理なのだろう。自分が変わっていると思うような相手であればなおさらだ。
考えるだけでは駄目なのなら、行動するしかない。その日俺は、彼女に声をかける決心をした。
周りにクラスメートがいる状態では話しかけづらいし、他のクラスメートたちに聞かれるのもよくないので、彼女が図書館にいる際に声をかけることにした。彼女は弁当を食べ終えると、昼休みは大抵図書館にいる。俺も図書館には頻繁に行くので、そのことは以前から知っていた。そして、その日も彼女は図書館にいた。図書館には彼女の他に二人の生徒がいる。図書館にきたらよく見る顔ではあったが、関わりはなかった。
彼女はその二人からも離れた場所にいて、席に座り一人で分厚い本を読んでいた。机の上には、他にも数冊の本が置かれている。真剣な表情で文字を追っていて、非常に超え和かけづらい状況だ。一瞬やめておいた方がいいのではないかという弱気な考えが頭の中に浮かんだが、その考えはすぐに頭の中から追い出した。
「世界平和についてでも考えているのかい?」
つい頭の中にあの友人の言葉がつい浮かんできてしまい、その言葉が出てしまった。いきなりこんな声のかけ方をされて驚いているのだろう。彼女は俺の方を向いて、目を見開いていた。筋違いのような気はするが、心の中で友人のことを恨んだ。後日、下駄箱のスリッパに砂でも降りかけておいてやろう。
「……誰?」
彼女は本気で誰だか分からないようで、訝しげな表情で俺の顔を見上げている。今まで何の接点もなかったのだから、知られていなくても仕方がないがショックであることには違いない。俺は多少の気まずさからこめかみを欠いた。
「一応同じクラスなんだけどね。山本良野だよ」
僕が名乗ると、彼女は何かを思い出したらしく、表情を和らげた。
「あぁ、つっこみにくい人ね」
そう言いながら彼女は微笑んだが、彼女のその言葉が何を意味しているのかは理解できなかった。
「どういうことだ?」
「あなたの名前って漫才コンビみたいじゃない。それであなたは背が高いから“頭を叩いてつっこめないね。つっこみにくそう”ってクラスメートの女子が言っていたのよ」
そんなことを言われているのかと、少しだけ驚いた。漫才コンビのような名前だとはよく言われるが、つっこみにくそうと言われたのは初めてのことだ。貶されているわけでもなければ、ほめられているわけでもないので少し複雑な気持ちだった。しかし、そこで話がずれていると気づき俺は話を戻した。
「で、君はいつも何を考えているんだ?」
「少なくとも世界平和についてではないわね。そんな下らないことを私は考えたりしないのよ」
彼女にとっても世界平和というのはどうでもいいことらしい。俺は彼女が持っている本に目をやった。長いタイトルの本で、“死刑”という文字が入っている。そのほかにも彼女がいる机の上には“自殺”、“死”などの言葉が入った本が数冊置かれていた。
「私は死というものがどういうものなのか分からないの」と彼女は言った。
「誰だってそうだと思うけどね。俺だって“死”とは何だと聞かれたら、正直ちゃんと答えられる自信はない」
「そうでしょうね。私も今まで“死”について納得のいく説明をしてくれる人に会ったことはないわ。もしかしたら答えなんてないのかもしれないけど、私はとても気になるの。理解できないことがたくさんあるのって、私には気分が悪いのよね」
「他のことを考えたりはしないのかい?」
「 “死”に対して疑問を持ってからはあんまりないわ。だって、この世で一番大きな疑問じゃない。きっと答えを出すことができたら、他のことなんてどうでもよくなっちゃうわ」
彼女はそう言うと、今まで俺が見たことのない奇麗な笑みを浮かべた。つい、俺は顔をそむけてしまったが、彼女は俺のそんな動作に不思議そうな顔をしている。
「どうしたの?」
……直視できなかった、とは言えない。
俺が決心して話しかけ、少し奇妙な会話を交わしたあの日から、俺は田中さんとよく話すようになった。といってもいつでも“死”に関して話をしているわけではない。他愛のないこともよく話した。彼女との話は、他愛のないことでも、少し変わっていた。
「三人寄れば文殊の知恵って、いうじゃない」
彼女は唐突に話しかけてきた。彼女との会話の始まりはいつも唐突で、最初の一言では彼女が何を言おうとしているのかを理解することはできない。彼女が変わっているという認識は、話をするようになった今でも変わらぬままだ。
「馬鹿な人でも、平凡な人でも、三人集まればいい知恵が浮かぶ――そんな意味だっけ?」
「その通りよ。でも、このことわざが正しいなら現在っておかしいと思わない? 国会議員はどう見ても三人以上いるのにいい案なんて浮かびやしないのよ。あれだけいれば三人ずつのグループがいくらでもできるって言うのに。――ねぇ?」
「手厳しいことを言うね」
「だってそうじゃない。だいたい誰でもいいから三人集めて話し合った程度で浮かんでくるアイディアが文殊菩薩に相当するなんて、文殊菩薩に失礼だと思わない?」
彼女は一呼吸つくと、「まぁ、どうでもいいけどね」と呟いた。彼女との会話は大抵その一言で終了し、時間があれば次の話題に行く、というお決まりの流れがある。彼女との会話は、どうでもいいようなことばかりだったが、とても楽しかった。彼女と言葉を交わすと、心が潤ったし、彼女の笑顔を見ると、僕も嬉しかった。彼女と過ごす時間が、いつの間にか俺にとって一番の時間になっていた。
「ちょっとこれを見て」
いつものように他愛のない会話をしていたある日、彼女はそう言うと俺に左手を差し出してきた。しかし、彼女の手のひらの上には何もない。もしや「空気」がのっかっているんだとでもいいだすのだろうか?
「何も持っていないけど、とんちでも始めるのかい?」
実際彼女はとんちのような話をしてくることが多々あったので、俺はそう聞いたのだが、彼女は少しすねたように頬を膨らませた。
「違うわよ。手首、手首を見て」
「手首?」
そこには一筋の傷があった。何かのトラブルで偶然切れてしまったようには思えない綺麗な傷だ。まるで、自分でわざと切ったかのように見える。
「私、中学の時にリストカットしたことがあるのよ」
彼女の告白を聞いた僕は言葉を失くした。自分ではどういった表情をしているのかは分からなかったが、彼女が少しあわてたように弁解を始めたので、よっぽどひどい表情をしていたらしい。
「別に生きているのが辛かったとか、いじめられていてその苦しみから逃れたかったからとかじゃないのよ。ただ、少し嫌なことがあって気分が落ち込んでいるときに、ついいつもみたいに死について考え始めちゃったの。そしたら発作的に、ね」
彼女は自分の手首にある傷跡をさすりながらそう言った。振り返ってみると、彼女は時折今と同じように手首をさすっていることが幾度かあった。リストカットという行為はおそらく彼女の中に、手首の傷跡以上に心の中深く刻まれ、傷跡を残しているのだろう。一体、彼女は自分の手首に冷たい刃物を当てたとき何を考えていたのだろうか。死について知りたくて死ぬ。その行為は、どこかおかしいように感じられた。
とりあえず、彼女には一つ言っておかなければならないことがある。
「君はもっと自分を大切にしたほうがいい」
僕がそう言うと、彼女は挑発的な笑みを浮かべた。
「もし私が死んだら、山本君は悲しんでくれるかしら?」
「もちろん」
彼女は傷跡をさすりながら、嬉しそうな笑みを浮かべた。
数日後のことである。昼休みが終わった、五時間目の授業で彼女の姿が無くなっていた。
どうやら昼休みの間に早退したようだが、午前中はいつもと変わらず元気そうだったので、一体彼女に何があったのかといっそう心配してしまう。授業中も、僕は彼女の席に何度も目をやっていた。彼女は教室からいなくなってしまっただけで、一日から色が失われてしまった気分だ。彼女が早退した理由は、他のクラスメートに聞いてみても分からずじまいだった。
放課後になると、俺はいつもより足早に家に帰った。今日は金曜日で明日から学校は休みだというのに、気分は浮かない。自分の部屋に入ると机上にある携帯電話を手に取り、背中からベッドに倒れこんだ。
“今日は早退していたが、どうかしたのか?”と彼女にメールを送る。しかしいくら待っても返事は来なかったので、僕はそのまま眠ってしまっていた。
お気に入りの曲が聞こえてきて、俺は目を覚ました。横に目をやると、携帯に着信があるようで、音楽をならしながら小刻みに震えている。寝起きで頭が働かないまま携帯を開くと、ディスプレイに“田中美保奈”と表示されていた。それを見るとすぐに眠気が吹っ飛び、急いで電話に出る。
『もしもし、山本君? 私だけど』
彼女の声は少し沈んでいて、わずかながら震えていた。それはとても彼女の口から出ているとは思えないほど、弱々しかった。
「今日はいきなり早退していたけど、どうしたんだ?」
『お父さんが死んだの』
俺は息を飲み込んだ。
そう告げた彼女はしばらく沈黙し、俺も何も口に出すことができなかった。
『昼休みの間にお父さんが倒れたっていう連絡があったの。……病院に駆けつけたんだけど、結局助からなかったんだ』
「……そうか」
俺は何も言うことができなかった。無力だった。どう考えても彼女の悲しみを拭い去る方法は思い浮かばないし、気の利いた言葉も知らなかった。自分がまだ子供で、未熟で、何の力もないのだということを痛感させられる。それでも、俺は彼女に一言だけ伝えた。
「俺にできることがあったら、何でも言ってくれ。君のためだったら何でもする」
『じゃぁ、私の家にきてくれるかな。今は誰かと話をしていたいの。おかあさんはそれどころじゃないし』
彼女はそう言うと、家の場所を僕に説明してくれた。始めて知ったが、彼女の家は俺の家の近くにあるらしかった。
『山本君、私分かったことがあるんだ』
「なんだい?」
『死ぬって悲しいことなんだね』
彼女の声は震えていた。いつもの落ち着いた声とは対極的な、子供のような弱弱しい声。力がなく、今にも消えてしまいそうだった。普段は大人びた彼女も、今は子供だった。大人になりきれない二人が電話を通して会話している。
「本を読んだりして、悲しいことなんだっていうことは知識として知っていたけれど、経験してみて本当の意味で理解した。死ぬって言葉じゃ表わしきれないようなことなんだ。ずっと一緒だって思っていた人が、いきなりいなくなる。あたりまえだと思っていたのに、そうじゃないんだって思い知らされる。とっても虚しくて、自分が無力なんだっていう事実に頭を殴られる。――とにかく、とっても悲しい、悲しいんだ」
「……」
「私、これからは死ぬようなことはしない。リストカットなんて死んでもしない。おかしな表現だけどね」
「そうだな」
そういう彼女はまだまだ子供ながら、大人に一歩だけ近づいたような気がした。きっと、悲しみを乗り越えることで人は子供から大人になっていくのだろう。俺は、彼女の口にしたその決意が、とても嬉しかった。
「ねぇ、山本君」
「なんだ?」
「もし私が死んだら、山本君は悲しんでくれるかしら?」
彼女は悪戯に笑いながら、僕にそう尋ねた。
今の俺には気の利いた言葉なんて全く浮かばない。けれど、自分の確かな思いを込めて、彼女のその問いに答えた。
「当たり前だ。そんなことはわざわざ聞くまでもない」
彼女との会話はそこで終った。俺は携帯電話をポケットにしまい、玄関を出て自転車に乗った。
彼女のために俺は何ができるかは分からない。でも、俺がほんの少しでも彼女にしてあげることがあって彼女の支えになら、俺は必ず行動するだろう。
とりあえず、彼女に何を話そうか? 自転車のペダルを漕ぎながら、そう考えた。
リストカット・シンドローム イグチユウ @iguchiyu
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