となりのトンチくん

無名

となりのトンチくん

僕は営門に向けて足早に歩いていた。駐屯地は間もなく眠りにつこうという時刻で、視界で動いているのは僕の足くらいだった。


目下僕の頭を悩ませていることが2つある。1つ目は、コンビニに寄ってから帰宅するか、一度帰宅して洗濯機を回してからコンビニに行くか決めかねていることである。今日こそ肌着を洗濯しなければ明日には着るものがなく、だからこそいつもより早く仕事を切り上げて帰路についているわけだが、さっきからひっきりなしに腹が鳴っていた。引っ越してきて2週間足らずだが、既に官舎の冷蔵庫の中身が把握できなくなっている。


もう1つの悩みは、部下の田中士長に作ってもらったポスターに描かれた出自不明のゆるキャラ『トンチくん』が、とある警察のマスコットキャラクターに酷似していたことである。そうだ、あの全身山吹色のあいつだ。ちょっと頭に思い浮かべてみてほしい。

『トンチくん』と本家との違いといえば、帯革(たいかく)が弾帯サスペンダーに変わったことと、耳の間のアンテナがないこと、田中の絵が下手なために心なしかブサイクになったことくらいなものだった。豊かな腹などは、瓜二つだ。


「小隊長、田中に任せるなんて人選ミスにもほどがありますよ」

加藤曹長の眉尻が跳ね上がっていた。

「もう2週間ですよ。いい加減部下のことくらい把握してくれないと」

「因みにこういうの得意なのって……」

「自分で探したらどうです?」

加藤は僕の言葉を遮り、さっさと背を向ける。ここで再び人選を間違えて怒られるのと、しれっとそのまま提出して怒られるのとどちらがマシだろうか。僕は頭を抱えながら歩いていたものだから、彼に声を掛けられるまで、その存在に気付かなかった。


「ごきげんよう」

僕は声がする方に目を向け、飛び上がりそうになった。数メートル先の木の下に、『トンチくん』が立っていたのである。いや、身に付けているものは『トンチくん』そのものなのだが、よく見るとそれは紛れもなく人間であった。

「遅くまでお仕事お疲れさまでございます」

彼が慇懃に一礼するのに合わせて、大きな耳も一礼する。彼の顔に見覚えはなかったが、少なくとも一回りは歳上に見えた。僕が1歩後ずさる間に、彼は2歩近付いてくる。

「こんな時間に1人歩きは危ないよ」

彼の手が、僕の手を握ろうとする。僕は大声を上げたつもりだったが、実際に出てきた声は、ちいかわにも及ばないものだった。

「待ってよぅ」

駆け出した僕を、彼の声が追い掛けてくる。ぺたぺたという足音はすぐに遠ざかって、しかし僕は振り返ることができなかった。警衛所から複数の人影が飛び出してきて、やっと僕は足を止めた。僕が一部始終を説明する間、彼らは笑いを堪えていた。

「早く帰って寝た方がいいですよ」

僕は今、メイちゃんの気持ちが痛いほど分かる。その晩、僕は『トンチくん』に何度も起こされた。


「あのポスターのって……」

僕が重い瞼を擦りながら尋ねると、田中は仏頂面を僕に向けた。

「ああ、小隊長も見たんですか」

田中は表情を崩さず、淡々と言葉を並べる。

「誰も信じてくれないから、ポスターにしてみました」

僕は黙って右手を差し出す。田中は少し目を大きくして僕の手を見つめたが、やがて強く握り返してきた。彼の口元の筋肉が弛緩する。僕はその手をしっかりと握りしめながら、ポスターをそのまま提出することを決意した。

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となりのトンチくん 無名 @mumei31

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