第十話 きっと、恋

 十一月中旬のある朝、ひばりは大学に行く前に、美咲の病院に立ち寄った。入院した日に宣言した通り、ひばりは毎日欠かさず、お見舞いに通っている。今日のように、午後が授業で埋まっている日は、登校する前の午前中の時間に、美咲の病室を訪ねていた。

 普段、美咲はひばりを見つけると、やっと会えたというふうに笑ってくれるのだが、その日、ひばりが病室に着いたとき、美咲は珍しく辛そうな表情をしていた。

「今日は体調悪そうだけど、どうしたの?」

「さっき部屋に来たお医者さんから、『もう退院できないかも』という知らせを受けてね」

「何、弱気なこと言ってるの? 美咲は絶対に退院できるから大丈夫よ。私とクリスマスデートするんでしょ? 四人で雪だるま作って、桜を見るって約束したでしょ?」

「できないんだよ!」

 美咲の唐突な大声に、ひばりは驚いて身を引いた。彼女は尖った口調で続けた。

「ひばりはポジティブなことばかり言うけど、私の様態はひばりが思ってるより深刻なんだよ? デートなんて吞気なこと言ってられないくらい、身体も心も苦しいんだよ?」

「わかってるよ。でも、現実ばかり見てたら大変じゃん? だから、少しでも楽になってほしくて、明るい話題にしてたんだ」

「逆にプレッシャーだよ! 私の意思じゃ身体はどうこうできない。それなのにひばりは退院後のことばかり話して、車いすの人に走れって言ってるようなものだよ!」

「はぁ⁉ 美咲のこと、こんなに考えられるのは私くらいよ? それなのに負担だなんて、自分勝手に話すのもいい加減にしてよ!」

 ひばりは美咲に怒声を放つと、カバンを背負って病室を出た。病室の廊下には、薬品の鼻につく匂いが漂っていた。


 その日、ひばりは三時間目から授業があったが、受けられる気分ではなく、昼食後、A棟の階段を上がった。屋上のドアは基本的に鍵がかかっているのだが、まれに開いていることがある。ひばりがドアを引いたら、運よくその日は鍵がかかっていなかった。

 屋上は背の高いフェンスで囲まれていて、大きな機械から水道のパイプが伸びている。パイプのそばに腰掛けられる高さの出っ張りがあって、ひばりはそこに座った。

 思い出すのは、美咲とのお泊り会のときの会話。ひばりにとっての美咲は、ピーマンのような引き立て役ではなく、かといって豚肉のような主役でもなく、言うなれば、ホイコーローという料理そのものだった。

 ふと喉が渇いて、カバンから水筒を出したとき、一緒に奥にあったクリアファイルも引っかかって出てきた。手に取って中身を確認すると、数枚の紙に丸文字で長い文章が書かれていた。それは文化祭ライブのときに美咲からもらったものだった。

「判断はひばりに任せるけど、ここぞというときが来たら読んでみて?」

 美咲の言葉を思い出す。ひばりは紙を手に取って、おもむろに読み始めた。

『私と大学で初めて会ったときのこと、覚えてる? 私はひばりに久しぶりだね・・・・・・と、声を掛けた。ひばりは忘れてしまったかもだけど、私たちは昔、関わったことがあるの。今から書くのは小学生のときの話だよ――』


 小学校三年生の頃、美咲には気になる同級生がいた。朱村ひばり、華奢な黒髪の女の子だ。五十音順の関係で、美咲の出席番号は一番で、朱村さんは二番だった。おかげでふたりは席が近く、顔を合わせる機会も多かった。

 ある日、国語の授業の途中で、朱村さんが手を挙げて発表した。失敗を恐れず、堂々と発表する姿はカッコよく、美咲は授業が終わるや否や、後ろを振り向いて話し掛けた。

「朱村さん、はきはき話していて凄いよ。みんなが見てるのに、よく緊張しないね」

「おじいちゃんに、『自分の選択や行動に自信を持ちなさい』って教えられたからね。あと、私のことは『ひばり』って呼んでいいよ」

「ありがとう。私は友達から『みっちゃん』って呼ばれることが多いかな。それにしても、ひばりは国語以外の授業でも、いつも積極的に動いていて尊敬するなぁ」

「私は自分を表現したり、覚えたことを外に出したりするのが得意みたい。でも、みっちゃんだって探してみれば、きっと誰にも負けない特技を持ってると思うよ?」

「私に向いてることなんてあるかなぁ」

「なら今日は私、みっちゃんの特技を探す手伝いをするよ。休み時間、校庭に行こう? みっちゃんに得意な運動があるかもしれない」

 その日の休み時間、ふたりは校庭隅に集まった。ひばりが背の低い鉄棒を指差す。

「みっちゃんは逆上がりってできる?」

「こないだ体育の授業でやったときはできなかったな。そう言うひばりはできるの?」

 すると、ひばりはためらいなく鉄棒を掴み、当然のように逆上がりを決めてみせた。

「こんなもんかな。みっちゃんも体育のとき、ダメだっただけで、今はできるかもよ?」

 美咲は勇気を出して鉄棒を掴んだ。しかし、何度挑戦しても、逆上がりはできなかった。

「運動は鉄棒の他にもあるよ?」

 ひばりはそう言って、そばに置かれていた縄跳びを手に取った。「次は二重跳びに挑戦だ!」と美咲にお手本を見せる。美咲はなんでも得意なひばりを羨みながら、自分も全力で縄跳びをした。しかし、やっぱり二重跳びも、美咲には向いていないようだった。

「大丈夫。運動が苦手だっただけで、まだ選択肢はあるよ。休み時間、そろそろ終わっちゃうから、次は放課後に音楽室へ行こう?」

 放課後、ふたりはランドセルを背負って、三階隅の音楽室へ向かった。教室では音楽の先生が楽器の手入れをしていた。美咲たちに気付いて、「どうしたの?」と話し掛けてくる。

「みっちゃんの特技を探しているんです。確か、前に音楽の授業で歌ったとき、みっちゃんは歌がうまかった気がしたので、今、ひとりで歌ってもらおうと思って。『ビリーブ』の伴奏、お願いできますか?」

 先生は「もちろん」とピアノのイスに腰掛けた。それから先生が前奏を弾き、美咲は息を吸った。美咲が一番を歌い終えると、ひばりは真っ先に拍手してくれた。先生が伴奏をやめ、「上手だったよ」と褒めてくれる。

「ですよね! 私もこれまで聴いた『ビリーブ』で一番上手だと思った。授業ではみんな一緒に歌うから目立たないけど、ひとりで歌ったら、こんなにうまいんだと感動したよ」

「私、歌を褒められるの、初めてかも」

 すると、音楽の先生が話に混ざってきた。

「堂々と歌ってるからよ。歌が苦手な子はこれでいいのか不安になって、声が震えやすいんだけど、蒼谷さんの歌声には迷いがない」

「ほら、みっちゃん、ここでもおじいちゃんの教えが出てきたよ。自分の選択や行動に自信を持てば、見ている人に想いは伝わるんだよ。私、おじいちゃんから将棋を教わってるんだけど、みっちゃんも歌を練習してみれば? 小学生のうちは難しいかもだけど、今から歌を練習すれば、大人になったらライブで歌えるかもしれないし」

 ひばりは楽しそうに提案した。そう言えば、大学生になると、文化祭でライブができる学校もあると聞いたことがある。

「わかった。私、ママたちに相談して、来月から歌の習い事を始めてみる」

「なんで来月? 今日、頼めばいいじゃん?」

「実は私、来月頭に、隣町の学校に転校するんだ。だから新しいことを始めるなら、キリのいいタイミングのほうがいいと思って」

「やっと仲良くなってきたのに、転校しちゃうんだ。みっちゃんがいないと寂しいな」

 すると、ひばりは思いついたように、ランドセルから紺色のつば付き帽を取り出した。

「これ、少し前にお小遣いで買ったんだけど、私よりもみっちゃんのほうが絶対似合うから、プレゼントするよ!」

 帽子を美咲に渡してくれるひばり。手に取ったとき、ほのかにひばりの髪の柔らかい香りが漂って、美咲の心臓がドクンと大きく波打った。と、唐突にひばりが大声を出す。

「今日、おじいちゃんの誕生日だった! お祝いに行かなきゃだから、先に帰るね!」

 急いで音楽室を出ていくひばり。彼女がいなくなった後も、美咲はなぜか胸の辺りがムズムズして、帽子を手に立ち尽くしていた。

「先生、なんだか変な感じがします。今までに味わったことのない、不思議な気持ち」

「それはきっと、恋だと思うよ?」

 先生は大人っぽい表情で微笑んだ――。


 ひばりが文章を読み終えたとき、屋上のドアが開いた。虎山くんたちが出てきて、「朱村さん、大変なんだ!」と大きな声を出す。

「さっき、美咲のおばさんから連絡があったんだけど、美咲の様態が急変したらしい」

 サッと血の引く音がする。ひばりはクリアファイルをしまってドアへ走った。一緒に階段を駆け下りながら、亀川くんが話す。

「展覧会で会ったオタクの宇佐美さん、覚えてる? 僕、実はこないだも相談に乗ってもらったんだ。そのとき、困ったときは頼っていいと言われたんだけど、大学から病院までは遠いから、送り迎えを頼んだんだ」

「電車使うとなると、来るのを待っている時間がもったいないからな。玄、ナイス判断!」

 虎山くんが亀川くんを褒めたとき、三人はA棟を出た。大学外の停車スペースに一台の軽自動車が停まっている。虎山くんが手を振ると、運転席の窓が開いて、宇佐美さんが「ご無沙汰でござる!」と頭を下げた。

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