9.領地再生計画 ②

 最後に浮かんだのは、フィオナの姿だった。

 彼女は今、厨房で食事の後片付けをしている。

 ふわりと揺れる金色の髪と明るく快活な笑顔が、ユーリの脳裏に鮮やかに映し出される。

 その笑顔が、ふと柔らかく変わり、彼女がそっと自分に寄り添ってきた。

 無邪気だった瞳が、いつの間にか優しい視線へと変わり、その青い瞳が静かに自分を見つめている。

 彼女の胸元が、知らず知らずのうちに自分の腕に押し当てられ、その温かく柔らかな感触が、薄い布越しに伝わってくる。

 フィオナの体温が近くに感じられるたび、ユーリの心臓はさらに速く鼓動を刻んでいった。


『ユーリ……』


 甘く囁く声が耳元に響き、その声はまるで誘うように甘美で、彼の意識をじわじわと飲み込んでいく。

 無邪気だった笑顔が、徐々に女の顔へと変わり、その青い瞳には深い感情が宿る。

 フィオナの唇が、わずかに開き、息が触れそうな距離まで近づいてくる。

 彼女の指がさらに絡み、肌に触れる感覚が次第に強くなる。

 フィオナの体の重さを感じ、彼女の吐息が魂を包み込むように心地よい。

 太陽に呑み込まれ脳がとろけ、地上へと落ちていく。

 その想像があまりにも生々しくなりすぎたことに気づき、ユーリは慌てて頭を振って、妄想を振り払おうとした。


(フィオナまで……いや、考えすぎだろう)


 ユーリは急いで紅茶を喉に流し込み、全ての妄想を心の奥底へと封じ込めた。


「貴方様、そんなに喉が渇いていたのですか?」


 突然、オフィーリアの声が響き、ユーリは一気に現実へと引き戻される。

 頭の中にはまだ妄想の残滓がこびりついていて、すぐには切り替えられない。

 胸が早鐘を打つように鼓動し、紅茶を置いた手が微かに震えていた。


「あ、いや、その……」


 何とか口を開くものの、声は上ずり、言葉はまとまらない。

 オフィーリアは不思議そうな顔で、じっとユーリを見つめている。

 その無垢な瞳が、まるで全てを見透かしているかのようで、ますます彼を追い詰めていく。


「貴方様?」


 彼女の真っ直ぐな瞳にさらに追い込まれ、ユーリは何とか平静を装おうとして声が上ずる。


「そ、そう、ちょっと喉が渇いてて……」


 無理に笑顔を作りながら、言い訳を絞り出すが、オフィーリアの視線はまだ彼に刺さるように注がれている。

 そのまま視線を合わせ続けるのが耐えられなくなり、ユーリは額にうっすらと汗を感じながら、逃げるように言葉を続けた。


「お、お手洗いに行ってこようかな……」


 そう言ってユーリは立ち上がった。


 トイレへと向かうユーリに向かって、マーガレットが声をかけてくる。


「リリィさん、旦那様を案内していただけますか?」

「はい、わかりました」


 リリィが柔らかな笑顔を浮かべ、ユーリに近づいてきた。

 その笑顔はまるで光のように眩しく、純粋でありながらどこか甘い魅力があった。

 ユーリは思わずぎこちない笑みを浮かべる。

 彼女の無邪気な笑顔に、どうしても気持ちを落ち着けることができない。

 リリィのやわらかな手がそっと彼の手を取った瞬間、その温もりがじわりと伝わり、胸の奥に先ほどの妄想が蘇ってくる。


「こちらでございます、旦那様。ご案内いたしますね」


 リリィは何事もないように軽やかな声で、ユーリを優しく引いていく。

 その無邪気な笑顔を前に、ユーリは心を落ち着けようとするが、リリィの手の感触が頭から離れない。

 ふわりと揺れるピンク色の髪、その後ろ姿が、先ほどの妄想を強く刺激してくる。


(リリィと……こんなこと考えてる場合じゃない!)


 必死に自分を戒めるが、彼女が歩くたびに手を引かれ、距離が妙に近く感じられる。

 手と手が触れ合うその温かさは、ユーリの心を揺さぶり続けていた。


「旦那様、大丈夫ですか? 少し顔が赤いように見えますけど……」


 リリィがふと振り返り、心配そうに尋ねてきた。

 純粋な瞳がまっすぐに見つめると、ユーリはますます動揺してしまう。


「だ、大丈夫だよ! ちょっと、暑くてさ……」


 声が少し上ずりながらも、なんとか答えたが、彼女の無邪気な笑顔がさらに心を揺さぶる。

 リリィは自然に手をもう少し強く握り、そのまま彼を先へと案内していく。

 彼女の動作は優雅で、指が自分の手に絡む感触が頭から離れない。

 再び妄想が頭をもたげ、彼女がもっと近くに寄り添ってくる光景がちらついた。


(やめろ、やめろ……今はそんなことを考えてる場合じゃない!)


 もう一度自分を叱咤するが、リリィの手の感触がその妄想をどうしても追い払わせてくれない。

 やがてリリィは静かに立ち止まり、微笑んでユーリに向かって言った。


「こちらがお手洗いです。どうぞ、ごゆっくりお使いくださいね」


 その眩しい笑顔と共に、彼女の手がようやく離れた瞬間、ユーリはホッとしたような、しかし少し物足りない感覚に包まれた。

 リリィがドアを開けて一礼し、そのまま去っていく。

 ユーリは深く息を吐き出し、ようやく一人きりの静寂に包まれたのだった。



 用を足したユーリは、トイレの扉を閉め、大きく息を吐き出した。


(ふう……やっと少し落ち着いたかな)


 頭を冷やすように胸を押さえ、しばらく深呼吸を繰り返す。

 心を整えた後、静かに自分の部屋へと戻る。

 襖の前に立ち、一瞬躊躇してから、そっと開ける。

 すると、部屋の中ではリーゼロッテとオフィーリアが何やら真剣に話し合っている様子だった。

 二人の落ち着いた雰囲気に、先ほどまで妄想に先走っていた自分がふと恥ずかしくなる。


「お戻りなさい、旦那様」


 リリィが優雅に一礼し、穏やかな笑顔で迎え入れてくれた。

 彼女の変わらない優雅さに、ユーリは少し救われた。


「リリィ、ありがと。助かったよ」


 ユーリはぎこちなくお礼を言ってから、二人が座るテーブルの方へと向かった。


 テーブルに近づいてきたユーリに気が付き、リーゼロッテとオフィーリアが一瞬会話を止めた。


「お待たせ。なんだか真剣な話をしてたみたいだけど……」


 ユーリは席につきながら、二人に目をやる。


「何の話をしていたの?」


 そう言うと、オフィーリアが少し難しい表情をして答えた。 


「ルナ=ノワール商会の今後について、お話しをしておりましたの」


 その言葉にリーゼロッテは、少し唇を引き結びながらも、真剣な目でユーリに向き直る。


「ユーリ様、以前お話しされていた領地の立て直しについてですが、商会の役割をどのようにお考えですか?」


 彼女の問いに、ユーリは先ほどまでの邪念を追い払い、考え込むように視線を天井に向けた。

 頭の中で計画の輪郭を整理する。

 前世の知識を産業改革前のこの世界にどう適応させるのか。

 上杉鷹山の潘政改革――産業振興、農業改革、それを参考にして、この世界に合った形に修正していくのが良いのは間違いないだろう。

 彼は静かに息をつき、軽く頷きながら二人に向かって答えた。



「大まかな方向としては、領内で絹織物、石鹸、蝋燭、ガラス製品、磁器などを生産。それをルナ=ノワール商会を通じて販売して、外貨を稼ぎたいと思っているんだけど」


 ユーリがそう言うと、リーゼロッテは琥珀色の瞳を細め、考え込むように小さく頷いた。


「蝋燭は蜜蝋に比べて見劣りするから貴族向けには売れないと思うけど、獣脂蝋燭ぐらいまで安くできれば庶民でも使えて、健康被害を減らせると思うんだよね」


 ユーリはそう言って、少し悩むように視線を落とした。

 思えば、レオニダス家でも父や義弟の使う部屋には蜜蝋が使われていたが、使用人の部屋はいつも獣脂の蝋燭だった。

 あの部屋で、彼は大量の煙とすすに悩まされた。

 換気の設備もなく、しばらくいるだけで目が痛くなり、喉がイガイガしたことを、今でも覚えている。


 すると隣で、オフィーリアがゆるやかに紫の瞳を上げ、やや慎重な調子で口を開いた。


「貴方様、その構想はなかなか大胆ですけれど……二つほど、懸念すべき点がございますわ。一つは、新たな職人ギルドを支えるだけの資金が不足していること。そしてもう一つ……」


 彼女は少し言葉を区切り、静かな眼差しでユーリを見つめた。


「そのような事業が成功した暁には、領内で貧富の格差が広がり、かえって社会不安を招く恐れもございますわ」


 オフィーリアは過去にも経験があったのか、実体験をともなったように神妙な声で言った。


 ユーリは顔を少し伏せて思案する。

 数秒の間を置いてから、ユーリは顔を上げると、二人を見渡しながら口を開いた。


「新しいギルドの設立資金は、商人ギフトで仕入れた美容薬液をルナ=ノワール商会で販売して、その収益を当てたいと思っているのだけど……」


 ユーリは自信を持って説明するつもりだったが、言葉の最後にほんの少しだけ、不安が滲み出てしまった。

 あくまで机上の空論であり、実際にやってみなければ分からない。

 そう思うと、最後まで自信をもって言い切ることが出来なかった。

 そんなユーリを見ながら、リーゼロッテは小さく頷くと、慎重に考え込んだ。


「ルナ=ノワール商会の役割は、美容薬液を貴族向けに販売することと、領内の生産品を販売することになりますね」


 リーゼロッテの言葉を聞いたオフィーリアは、眉を僅かに動かし疑問を呈す。


「貴族向けでしたら、店舗での販売よりも、訪問販売を行う方が効果的ではありませんか?」

「確かにそうですね。わざわざ市場に出向くよりも、自宅に商人を呼び寄せるのが一般的ですね」


 リーゼロッテもオフィーリアの言葉に頷いた。


「訪問販売って、要するにクチコミで広めるってこと?」


 ユーリがオフィーリアに確認するように尋ねると、彼女はほのかに微笑んで頷いた。


「ええ、夜会やお茶会を通じて広めていくのですわ。もし、店舗を構えるのでしたら、美に関する新しいサロンをルナ=ノワール商会で立ち上げるのも面白いかもしれませんわね」


 オフィーリアは自分の名声を広めるチャンスと思ったのか、「王国だけでなく帝国や共和国、美を求める女性たちが店舗に押し寄せる。ふふ、それも良いかもしれませんわね」と呟いている。

 その提案にユーリは一瞬考え込んだ。


(確かにサロンは良いかもしれない)


 帝国や共和国からも人を呼び寄せることができれば、領地の発展に大きく貢献できるだろう。


(そう言えば、ルクレティアのアムール・パヴィヨンもレーベルク男爵領で営業するんだよな……)


 ユーリはそう思うと、『美のエルドラド』という言葉が脳裏に閃く。


(カジノや美食も提供できれば、富裕層ビジネスになるんじゃないか?)


 エレガンスと娯楽の融合――美のサロンで身体を整え、カジノでスリルを味わい、美食レストランで舌鼓を打ち、最後は娼館で甘美な時間を過ごす。

 男爵領の城館や後宮の目と鼻の先にある湖を利用し、水上リゾートにすれば、特別感と非日常の体験が一度に楽しめるだろう。

 湖面に映る夕景や静かな水上の移動が、訪れる者に忘れられない贅沢を提供するはずだ。

 夜会の締めくくりに花火を打ち上げれば、水の上に幻想的な光景が広がり、その美しさは訪れた者に鮮烈な印象を残すに違いない。


「水上夢幻都市ラグジュアリア……」


 色々と妄想していたユーリの口から、そんな言葉がこぼれ出た。





◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆


ここまで読んで頂きありがとうございました。


リリィ、萌え!!

と思ってくださいましたら、

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