海が綺麗ですね

ねぱぴこ

第1話

 母方の祖父が亡くなった。死因は老衰で、八十八歳の大往生だった。

 祖父の家は僕の家から電車で二十分ほどかかるところにあって、小さい頃にはよく遊びに行っていた。とはいえ中学生になってからは、夏休みと冬休みの年二回、親に連れられて顔を見せるために帰るだけになっていたけれど。

 告別式の翌日、家に帰る前に両親に促されて僕は祖父の家に立ち寄った。最後に祖父の部屋に入ったのは、小学生の頃だ。

 すでに母が掃除をしていたこともあって、部屋の中はずいぶん綺麗に片付いていた。

 ――僕は、壁際の机の上に置いてあったあるものに目を留めた。

「……なんだ、これ」

 それは十センチぐらいの大きさの、虹色のグラデーションがかった綺麗な巻き貝だった。

 ――こんなもの、前からあっただろうか。じいちゃんの趣味だとは思えないけど。

 祖父は無口な人で、いつも黙ってにこにことしていた。祖母は母を産んでからすぐに亡くなったので、同居の提案もしたけれど、やんわりと断られたらしい。

 僕が貝殻に耳を当てると、中から波の音が聞こえた。

 なぜだか僕はその巻き貝に心を惹かれて、そっと手に取るとズボンのポケットに忍ばせた。

「ねえ、たまには水上バスで帰らない?」

 その日、父と母に僕はそう提案した。波の音を聞いて、唐突に海が見たくなったのだ。空は青く澄み渡っていて、日差しもちょうど良く、海を見るには絶好の天候だった。

 水上バスに乗ると、僕は真っ先に一人でテラスに向かった。頬に風が当たって心地よい。

 僕はポケットから出した巻き貝を耳に当て、波の音を聞きながら、通り過ぎていくビルや街並みを眺めていた。

 その時、巻き貝を当てていないほうの耳から女の人の歌声がかすかに聴こえたような気がした。

 僕は巻き貝を耳から外して辺りを見回したが、歌声はまだ聴こえている。テラスにいるのは僕のほかにはカップル一組のみで、歌っていないどころか、その歌声を気にしている様子さえ感じられない。

 僕はテラス内をあちこち動き回って、歌声がよく聴こえる場所を探した。決して水上バスのスピーカーから流れているわけではない。その歌声は――僕の真下にある、水の中から聴こえていた。

 僕にしか聴こえていない幻聴なのだろうか。じゃなきゃ、人の歌声が海の中から聴こえてくるはずなんて――。そう思いながら僕は、水の中を覗き込むようにテラスの柵から身を乗り出し――

 そのまま水中に、吸い込まれるように落下した。

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