第19話 パティシエ王子

 翌日出勤すると翔斗さんはお店にいなかった。


 代わりにいたのは。


「おはようございます。あなたがゆっちゃんですね」


 にっこりと微笑む……メガネのこのお人は。


「いちごの夫のガトーと申します。どうぞよろしく」


 言わずと知れた『パティシエ王子』その人だった。


 気品ある佇まい、お洒落なメガネに貫禄の薄髭。数年前にテレビで観たそのままの人が目の前にいて、私は畏れ多くて数メートル手前から近づけない。


 そんな私に「どうしたの?」と言うように小首を傾げてくる。まずい、なにか言わないと。


「あの……翔斗さんは」

「今日は諸用で休みです。それで僕が代打にね」


「諸用……ですか」


 言いつつ売り場の裏手にひっそり置かれた黄色の薔薇にちらりと目を向ける。するとそれに気がついたらしいガトーさんが「そうです」と頷いた。


「え?」


「その薔薇の贈り主に会いに行っているんです」


 え。そんなまさか。


「贈り主……わかったんですか?」

「ええ」

「ど、どうやって?」


 思わずスターのオーラも忘れて詰め寄ってしまい我に返って慌てて身を引く。


 そんな私をガトーさんは「はは」と笑いつつ「翔斗くんには特殊能力があるからね」とその目を細めた。


「特殊能力……って、あの記憶力のことですか?」


 訊ねてみると「そう」と頷いた。


「筆跡と、花選びのセンス、包み紙の趣味なんかも見てわりと簡単に導き出したようだよ」


「な」


 昨日はぜんぜんわからないような顔をしていたのに。


「それも能力のひとつだけど、彼にはもうひとつ決定的な能力があるんだ」


「え……?」


 その顔を見上げるとガトーさんはメガネの奥の瞳を優しく細めて微笑んだ。


「彼は天才販売員ヴァンドゥールだから」

「天才……ですか」

「お客様を誰ひとりとして逃がさない」


 逃がさない……それってつまり、どういうこと?


「あの……薔薇の贈り主に会って、翔斗さんはどうするつもりなんでしょうか」


 翔斗さんが販売員としての記憶をたよりに導き出したってことは、贈り主はお客様ということ。


 私への『嫉妬』の気持ちがあるのだとしたら、翔斗さんへの恋心が少なからずある女性、ってことだよね?


 そんな相手と対峙して……で、どうするの?



 するとガトーさんは「それはまあ、いつも通りなら」とその目をショーケースの向こう側へと向ける。


「メロメロにしてここに連れてくるでしょうね」


「……へ」


 思わぬ答えに顔が引きつった。


「彼に限って相手を責めたり咎めたりすることは百パーセントない。なぜなら相手は『お客様』だから。彼にとって『お客様』というのは、常に最優先であり最愛。それは性別も年齢も関係なく、極端な話『人』かどうかも関係ない」


 そういえば猫にまで丁寧に話しかけていたのを思い出した。


「そんな彼だから。とくに女性のお客様からは誤解もされやすいわけだけどね」


「今までも、いろいろとあったんですか?」


 少し躊躇いがちに訊ねてみると、ガトーさんは「それはもう」と俯き加減にして弱ったように笑った。


「お客様の娘さんを紹介されてしまったり、連絡先をしつこく尋ねられたりなんていうのは常で。店にいきなり指輪と婚姻届が送られてきたこともあったそうだよ」


「す、すご……」

 さすがに指輪と婚姻届はこわい!


「そ、そういう時はどうやってお断りするんですか?」


 間違ったことを言えば怒らせかねないし、でもだからと言って受け入れるわけにもいかないよね?


「うん。そういう時はいつも、今回のようにね。八本の赤い薔薇を用意して直接ご自宅に伺うんだよ」


「八本?」

「そう。意味は『あなたの思いやりに感謝します』」

「んん……。それはお相手の気持ちを受け入れたってことにはならないんですか?」


 花束の意味はともかく、意中の相手が薔薇の花束を抱えてやってきたら誰でもそう思うんじゃ?


「それがそうでもないんだよ。そこが翔斗くんのすごいところで」


「は、はあ……」


「ああ。噂をすれば」


 言いつつ出入口のほうに目を向けるガトーさんに私も倣う。


 見るのとほぼ同時にコロンとドアベルが綺麗な音を鳴らした。



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