秋生さんの靴
野原 耳子
秋生さんの靴
七歳上の姉が死んだ。
現場の調書にあたった警察官の言葉を引用すると、それは不幸な事故だったらしい。突然心臓発作を起こして亡くなった運転手のトラックが不運にも青信号をわたる姉へと突っ込んだ。姉は距離にして十メートル近く空を舞い、開花直前の桜の木にぶつかって地面へとぼとりと落下した。全身骨折および内臓破裂により、即死だった。
その光景を、姉の後ろを歩いていた夫、つまり春樹の義兄にあたる秋生(あきお)は目の前で見ていた。
「パリンッって音がしたんです」
葬儀中に、義兄はそう言った。
「トラックが奈津子にぶつかったときに、パリンって聞こえたんです。人間の骨が折れる音って、ガラスが割れる音に似てるんですね」
義兄は力なく椅子に腰掛けたまま、姉の棺を凝視して呟いた。だが、そのパリンという音は、姉の骨が折れる音ではなく、義兄の心が割れた音なんじゃないかと春樹(はるき)には思えた。
「秋生さん、靴は?」
赤く腫れた目元をハンカチで押さえたまま、母が義兄に訊ねる。見下ろすと、義兄は靴をはいていなかった。靴の代わりに、眩しいくらい純白の靴下をはいている。
義兄は、あぁ、とも、うぅ、ともつかない相槌をうって、傍らに置いていたカバンから靴を取り出した。それは、鮮やかな黄色いハイヒールだった。だが、シンデレラの靴のように片足分しかない。
「事故のときに奈津子(なつこ)がはいていた靴です。もう片方は、はねられたときにどこかに飛んでいってしまって」
母の問い掛けを、義兄は姉の靴に関する質問だと勘違いしたようだった。淡々と語る義兄の姿に、母は一瞬言葉に詰まった後、そうなのね、と静かに返した。
義兄は、相変わらずぼんやりとした表情のまま、独り言のように呟いた。
「奈津子の靴が見つからないんです」
***
葬儀の数日後に、義兄は姉と暮らしていたマンションを引き払ってしまった。勤め先の銀行も辞めてしまい、職場を立ち去った足で、姉の実家であるわが家にやってきた。
「突然で申し訳ないのですが、しばらく奈津子の部屋に住まわせては頂けないでしょうか」
他人行儀な口調でそんなことを言う。
義兄は、葬儀の日と同じように靴をはいていなかった。真っ白な靴下が土で汚れていたが、家に入るときには蛇が脱皮するように靴下をするりと脱いだ。脱いだ靴下の下にはもう一枚、別の靴下がはかれていた。
その日から、義兄は姉の部屋に住んでいる。まるで屋根裏のネズミか、家に潜む小人のように、ひっそりと静かに。
義兄は毎朝、靴もはかずに家を出ていき、夕方過ぎに帰ってくる。食事も外ですませてしまっているのか、一緒の食卓についたことはない。春樹たち一家が全員風呂に入った後、居間にちらりと顔をのぞかせて、お湯を頂きます、と律儀に言って風呂に入る。
それから月初に、母に茶封筒に入った五万円を渡す。母がお金なんていいのよと諭しても、義兄は頑なに封筒を差し出し続ける。いい加減にあきらめて母が封筒を受け取ると、義兄はほっとしたように小さく息を吐く。
義兄は、ときどきケーキやら果物をお土産に買って帰ってくる。それを母に渡しながら、「最近の大学生はどんなものを食べてるの?」なんて春樹に訊ねてくる。
春樹がマックとかスタバのフラペチーノと答えると、へぇそうなんだ、とよく解ってなさそうな相槌を漏らす。だが、結局一度もマックもスタバのフラペチーノも買ってきたことはない。
ときどき言葉をかわす以外は、義兄は姉の部屋に閉じこもっている。
***
扉をノックすると決まって十秒後に、はい、と義兄は返事をした。
「秋生さん、いま大丈夫?」
「はい、大丈夫ですよ」
扉を開くと、義兄はベッドにちょこんと腰掛けていた。その両手は膝の上に律儀に置かれている。ベッドには、姉が実家にいた頃に使っていた黄色の小花柄のシーツがかけられていた。
「秋生さんって、あんこ好き?」
「あんこ?」
「それから、おみそ」
「おみそ?」
義兄はオウム返しに呟いて、不可思議そうに首をかしげたものの、結局こくりとうなずいた。
「おみやげあるんだけど、入っていい?」
「もちろん、どうぞ」
和やかな声で迎え入れられる。春樹が絨毯の上に座り込むと、義兄も、よっこらしょ、と声をあげてベッドから絨毯へと下りた。
「よっこらしょって、おじさんみたいに聞こえるよ」
「だって、もう三十二歳ですから」
春樹の言葉に気を悪くした様子もなく、義兄は小さく笑みを浮かべて言った。今更ながら、義兄は姉よりも五歳年上だったんだなと思う。
そういえば初めて義兄を紹介されたときに、姉には落ち着いた年上の人が丁度いいのかもしれない、と思ったことを思い出す。鮮やかなオレンジ色のワンピース姿の姉と、ベージュ色のスーツを着て柔和な笑みを浮かべる義兄が並んでいるのを見て、ずいぶんと対照的な二人だと思ったんだった。
持っていた菓子箱を絨毯の上に置くと、義兄は嬉しそうに声をあげた。
「へぇ、味噌まんじゅうか。名古屋に行ってきたんですか? 全然気付かなかったなぁ」
セロファンの袋に包まれた小ぶりな饅頭を手に取りながら、のんきな声をあげる。
「日帰りで行ってきたから」
答えながら、春樹は饅頭を一つ手にとってセロファンを剥き始めた。ふわっと味噌の芳ばしい匂いが立ちのぼる。一口かじると、舌の上に味噌とあんこの甘じょっぱい味が広がった。
「一人で行ってきたの?」
義兄はそう問い掛けながら、春樹にならうようにセロファンを剥き始めた。決められた順番を守るようにゆっくりと、一剥ぎ一剥ぎ丁寧に剥いでいく。
「そう、一人で。あのさ、家から一番近い駅に長距離バスの乗り場があるんだよね。そんで深夜とかに、時々だれも乗ってないバスとか停まってんの。そういうの見ると、乗りたくなんない?」
饅頭を奥歯でもごもごと噛みしめながら、そんなことを呟く。義兄は指先で饅頭をそっと摘んだまま、ピタリと動きを止めて春樹を見やった。
「春樹くんは乗りたくなるんですか?」
「乗りたくなって、ひょいって乗っちゃうな」
短絡的ともとれる春樹の答えに、義兄はすこしだけ困ったように眉尻を下げて笑った。
「どこに行くのかわからなくて怖くないですか?」
「一回だけバスがフェリーに乗ったときはビビったかな。目的地が北海道だったみたいでさ。財布の中に一万円ぐらいしか入ってなかったから、無賃乗車で警察呼ばれたらさすがに困るじゃん」
義兄がかすかに苦笑いを浮かべて、肩を揺らす。
「それは、なかなかハラハラしそうですね」
「うん。それに、姉ちゃんには、ふらふらあちこち行くなバカッ、もうすこしちゃんと考えろ、ってよく怒られたし」
姉の口調を真似して言ってみると、義兄はわずかに目元を和らげた。思い出をたどるように、視線を壁へと向けたまま義兄が呟く。
「奈津子は、まっすぐな人でしたからね」
「ああいうの猪突猛進って言うんだよ。私はここに向かうんだ、何が何でもたどり着くんだ、って決めてさ、ブルドーザーみたいに突き進むの」
春樹が顔をしかめて呟くと、義兄は思いがけず大きな笑い声をあげた。その高らかな笑い声に、春樹はひどく驚いた。義兄がこんな風に声をあげて笑うところなんて、初めて見た気がする。
義兄はしばらく背中を丸めて笑った後、静かに口を開いた。
「初めて会った時も、奈津子はそうでした」
「ブルドーザー?」
問い掛けると、また義兄は肩を揺らして笑った。
「こちらに転勤してきたばかりの頃、駅の中で迷子になってしまったんです。困って周りに道を聞こうにも、みんな早足で歩いてて声もかけづらいし、しかも運が悪いことに、段差に引っ掛かって革靴の底が剥がれてしまって。どうしようかって呆然としてたら、人混みの中から女の人が、迷ったんですかっ、って声をかけてくれたんです」
「それが姉ちゃん?」
訊ねると、義兄は噛みしめるみたいにゆっくりと頷いた。
「奈津子は、どこに行きたいんですかっ、私もあんまり時間がないんで途中までしか案内できないかもしれませんけど、できるとこまでは一緒に行きますんでっ、って言ってくれて。でも、あんまりにも早口だし、目もキリキリ吊り上がってるから、最初は怒られてるような気がして、正直怖かったです」
その時の光景が想像できるようだった。緊張のせいか、姉は初対面の相手に対しては怒ったような口調で喋るクセがあった。剛胆なくせに、意外と人見知りなところもあったのだ。
「でも、奈津子はきちんと乗り換えのホームまで案内してくれて、駅から一番近い靴屋さんまで地図に書いて教えてくれたんです。良い靴を買ってくださいね、って。自分はすごく高いヒールを履いてるのに、ぐらつきもせずにピンと背筋を伸ばして歩いてる姿を見て……それで、すごく素敵な人だなと思ったんです」
義兄の結論に、思わずずっこけそうになった。実際、掴んでいた味噌まんじゅうがぽろりと手からこぼれ落ちた。
絨毯の上に転がった味噌まんじゅうを慌てて拾い上げて、ふーふーと息を吹きかけつつ、上目で義兄を見やる。
「秋生さんは、それで姉ちゃんに恋しちゃったわけ?」
自分で言っておきながら、恋しちゃった、という言葉にぞぞっと鳥肌が立ちそうになった。甘ったるい少女漫画のような台詞だ。
義兄は苦笑いを浮かべつつも、小さく頷いた。
「そうですね。うん、そうです」
「秋生さんって、ちょっと変わってるよね」
春樹の失礼な言葉にも、義兄は笑顔を崩さなかった。むしろどこか嬉しげな様子ですらある。
「奈津子にも、そう言われたことがあります」
「姉ちゃんにも?」
春樹が首を傾げると、義兄はゆっくりと頷いた。
「はい。数日後に同じホームに立っている奈津子を見つけたんです。気が付いたら、電車に乗ろうとしてた彼女の手を掴んで引き留めていました。そのあとものすごく怒られましたけど」
「姉ちゃんなら怒るだろうね」
「女性の手をいきなり掴むとは何事かと言われました」
「まさしく正論だ」
「でも、何度も謝ったら、名前を教えてくれました」
「意外と律儀だもんなぁ」
合間に挟まれる春樹のコメントに、義兄はくすぐったがるように目を細めた。
「それから、あなたは変な人だって笑われました。靴のセンスもないって」
「靴のセンスまで言われたの?」
わが姉ながらずいぶんと辛辣だ。だが、義兄は胸いっぱいに宝物を抱きしめた子供みたいに、目元を柔らかく綻ばせた。
「はい。たぶん、僕は物を選ぶのが下手なんですよね。二つのものでどっちを買おうか悩んだ挙句に、全然ちがう三つ目のものを選んじゃうみたいな」
「あー、それ分かるな」
「奈津子は一目見て、もうこれって決めちゃうと絶対に選択を変えない」
義兄の口調はどこか誇らしげに聞こえた。身内が恥ずかしくなるくらい、自分の妻に対する敬意を隠そうともしていない。だが、朗らかだった表情が不意に思い出したように陰りを帯びた。
「交際が始まったあとも、奈津子は一度も迷ったりしませんでした。どこに行くのか。何をするのか。自分がどうしたいのか」
義兄が呟く。手癖の悪い子供のように、その指先が毛足の長い絨毯を、下から上へと向かって繰り返し撫でている。
「僕は何も決められなかった」
こぼされた声は、自嘲の声には聞こえなかった。ただ事実を告げるような、かすかな冷淡さを感じる。頬にこわばった笑みを浮かべたまま、義兄が続ける。
「心底情けない話ですけど、僕の人生はいつもほかの誰かが決めてくれていたように思えます。成人するまでは両親が、社会人になってからは上司が、結婚してからは奈津子が、大切なことはすべて僕の代わりに決めてくれた。だから、ですかね」
そこで言葉が途切れた。ぼんやりと宙を見つめたまま動かなくなった義兄の顔を覗きこんで、春樹はおそるおそる声をかけた。
「秋生さん、大丈夫?」
義兄は鈍く首を動かすと、一瞬知らない誰かでも見るかのように春樹の顔をまじまじと見つめた。それから、泣き出しそうな顔のまま笑う。
「だから、奈津子の靴が見つからない」
それとこれとは関係ないんじゃないだろうか、なんて言える雰囲気ではなかった。困ったように首を傾げる春樹を見て、義兄はゆっくりとうつむいた。
「靴が片方だけじゃ、奈津子がどこにも行けない」
そのひとりごとには、義兄の妄執が滲んでいるように聞こえた。いつの間にか乾いていた喉を潤そうと、春樹はゆっくりと唾を飲み込んだ。
「ねぇ、秋生さん」
「はい」
「姉ちゃんは死んじゃったから、もうどこにも行かないよ」
こんな言葉はきっと何の慰めにも説得にもならないんだろう。
義兄はちらと春樹を見やってから、縦とも横ともつかぬ動きで首を緩慢に振った。手に摘んだままだった饅頭を一口かじって、義兄が上の空で呟く。
「お饅頭、おいしいですね」
相槌を打つこともできず、春樹も黙りこんだまま饅頭をかじった。先ほどまでは美味かった饅頭は、ざらりと妙に嫌な舌ざわりを残した。
***
翌日、ノックもせずに姉の部屋をそっと覗いた。そこには義兄の姿はなかった。どうやら外出しているらしい。
会社も辞めてしまったのに、一体いつもどこに出掛けているのだろうか、と思いながらも、昨日から感じ続けているモヤモヤに身をまかせて、しばらく意味もなく六畳程度の部屋をうろうろと歩き回る。
結婚を期に実家を出ていった姉の部屋には、最低限のものしか残っていない。
壁に貼られたままの色褪せたポスターは、姉が高校生のときにハマっていたアイドルグループのものだ。競争率の高いコンサートチケットに当選した姉に、しぶる春樹まで荷物持ちとして会場に連れて行かれたのを覚えている。コンサート会場で手に入れたポスターを抱き締めて、「一生の宝物にする!」と姉は叫んでいたのに、結局実家の壁に置き去りになっている。
ポスターだけでなく、姉はもうすべてを置き去りにしてしまったんだなと、ふと思った。家族のことも、義兄のことも、何もかもを置いて遠くへいってしまった。
事故の当日、母親が泣きながら「奈津子が車にひかれたの」と言ってきたときのことを思い出す。あのとき頭の中にぼんやりと浮かんだのは、高校生の頃、初めてできた彼女にフラれて落ち込む春樹に対して姉が言った言葉だった。
「いつまでもクヨクヨすんじゃないわよ。どうしようもないものは、どうしようもないじゃない」
そのときは身も蓋もない台詞だと思ったが、姉の言うことはあながち間違いでもなかったのだろう。
「どうしようもないもんなぁ」
自分自身に確かめるみたいに、ぽつりと呟く。その言葉は、予想外に春樹の胸の中にすとんと落ちてきた。そして、昨日義兄に伝えたときよりも、まざまざと姉の死を感じた。
今更、涙は浮かんでこない。純白の棺に収まった姉を見たときに、ずいぶんと泣いた。だから、もういい。泣いたって、どうしようもない。姉は二度と戻ってこない。
うつむいて、すこしだけ目をつむる。階下から母が夕食を用意している音が聞こえる。トン、トンとまな板に規則的に打ち付けられる包丁の音を聞いていると、ゆっくりと平常が戻ってくるのを感じた。
ゆっくりと目を開くと、姉が中学生のころから使い続けている勉強机の上に、黄色いハイヒールが乗せられているのが見えた。姉が遺した、片足だけのハイヒール。真っ白なハンカチの上に乗せられたハイヒールを見て、ふと気付いた。
そういえば、姉が死んでから、義兄が泣いているのを一度も見ていない。
***
数日後、大学からの帰りしなに義兄を見つけた。
人気のない川原に、折り畳み椅子を開いて座り込んでいる。両手には釣り竿を掴んでおり、夕暮れ時だというのに大きな麦わら帽子をかぶっていた。だが、やはり靴は履いていない。
「秋生さーん」
橋の上から手を振って呼びかけると、義兄は眩しいものでも見るように目を細めてこちらを見上げた。小さく手を振り返される。
春樹が土手の階段を下りて近づくと、義兄はにこやかに話しかけてきた。
「学校の帰りですか?」
「そうそう。てか、秋生さんって釣りするんだね」
「はい。最近、少々ばかし」
その言い方が妙に面白くて、春樹は小さく声を上げて笑った。
だが、バケツの中をのぞき込んで、春樹は数度目を瞬かせた。バケツの中には魚がいるどころか、底に大きな穴があいている。
「秋生さん」
「はい」
「このバケツ穴あいてるよ」
唖然とした声で指摘すると、義兄はどこか曖昧な仕草で頷いた。
「はい。さっき落ちてるのを拾ったんです」
「これじゃ魚釣ってもどうしようもないじゃん」
「いえ、魚を釣りたいわけじゃないですから」
すこし困ったような顔で義兄は呟いた。
その顔を見て、ふと思い出した。姉がトラックにひかれたのは、この橋よりも上流の川沿いの道路だった。そう思い出した瞬間、胸の奥から何ともいえない嫌な気持ちがわき上がった。
「姉ちゃんの靴を探してんの?」
自分でも嫌になるくらい尖った声だった。春樹の顔を見て、義兄が戸惑ったように視線を揺らす。
「もしかしたら、川に流されてるかもしれないですから……」
言い訳するみたいな義兄のか細い声に、腹の底からじわじわと嫌悪感が込み上げてくる。
こいつは一体何をしているんだろう。うじうじと情けない。惨めったらしい。死んだ人間の靴を見つけたところで何になるって言うんだ。
死んだ姉に囚われた義兄が可哀想だった。可哀想だからこそ、たまらなく腹が立った。哀れみと怒りが混ざり合って、自分でも説明のつかない衝動が突き上げる。
気が付いたら、義兄の手から釣り竿を奪い取っていた。あ、と義兄の間の抜けた声が聞こえるよりも早く、釣り竿を川へと向かって投げ捨てる。釣り竿はぱちゃんと軽い水音を立てて川に落ち、そのまま下流へと緩やかに流されていった。
「もうやめてくれよ」
一瞬、それが自分の声だと気付かなかった。首を絞められたみたいな、苦しい声が自分の口から漏れ出る。義兄がどこか呆然とした表情で、春樹を見上げている。その眼差しに、また息が詰まった。
「靴なんかどうでもいいじゃんか。いつまでもうじうじすんなよ。うっとうしい。面倒くさい。なんだよ、あんたなんなんだよ……」
最後は、ほとんど形のない恨み言のようになった。ぐるぐると感情が渦巻いて、うまく言葉にならない。
「いい加減、靴ぐらい履けよ……」
怒鳴りつけてやるつもりだったのに、吐き出した声はひどく弱々しかった。かすれた語尾が空気に溶けていく。
俯いた視界に、すこし汚れた靴下が映っている。靴を履かなくなった義兄のつま先。それを見た瞬間、不意に声をあげて泣きたくなった。眼底が湿って、目の前の光景がぐにゃりと歪んでいく。
その時、義兄の声が聞こえた。
「あの日は、僕の靴を買いに行く途中だったんです」
抑揚のない淡々とした声だった。
「すてきな靴を買おうね、って奈津子ははしゃいでいました。奈津子は僕の手を引っ張って、僕の前を歩いていたんです」
春樹は黙ってその言葉を聞いた。先ほどまで激情に波打っていた感情が凪いだように静かになっていくのを感じる。
顔を上げると、義兄はぼんやりとした表情で春樹を見つめていた。
「それがどうしたって言うんだよ」
吐き出した言葉は、自分でもひやりと鳥肌が立つぐらい冷たく聞こえた。
「自分が前を歩いてたら、ひかれてたのは自分だったって言いたいのかよ。関係ないよ、そんなの。あの時ああしてたら、こうしてたらなんて、いくら考えたってもう無駄じゃん。意味がないよ」
はぁ、と短く息を吐き出す。それから何度も繰り返した言葉を、改めて口に出した。
「姉ちゃんは死んだんだよ」
どんな懺悔も祈りも届かない場所にいってしまった。どれだけ悔やんだって生き返ることは絶対にない。そんなこと、きっと子供だって分かることなのに。
虚ろな義兄の顔をこれ以上見ていたくなくて、春樹は踵を返した。大股で土手をのぼっていく。
だが、土手を登り切ると同時に、背後からバチャンという大きな水音が聞こえてきた。振り返ると見えたのは、川の中へとわけ入っていく義兄の姿だった。視界に入った瞬間、ザァッと音をたてて血の気が下がっていくのを感じた。
「秋生さん!」
転がるような勢いで土手を駆け下りて、無我夢中で川へと入っていく。
ぬるい水がつま先から腰まで一気に呑み込むのを感じた。派手に水音をたてながら、川の中程まで進んでいく義兄を追いかける。義兄は、すでに胸元近くまで水に浸かっていた。
ようやく肩を掴むと、義兄は驚いたように目を丸くして春樹を振り返った。
「何してんだよ!」
怒鳴りつけると、数度目をぱちぱちと瞬かせる。
「すいません、あそこに黄色いものが見えて」
息を切らす春樹とは対照的に、義兄の声はひどく静かだった。
指さす方向へと視線を向けると、橋の支柱の影に何か黄色いものが引っかかっているのが見えた。義兄が手を伸ばして、黄色いものを掴もうとする。だが、義兄の指先がかすめた瞬間、それは川流に呑まれてしまった。
「あ!」
それが義兄の声だったのか、自分の声だったのか思い出せない。黄色いものを追おうとして、義兄が川底で足を滑らせる。また大きな水音があがって、義兄の身体が頭まで水の中に沈んだ。
慌てて、流されていく義兄の腕を掴む。もう片方の手で肩口の服を掴んで、無理矢理顔を水面まで引っ張り上げた。そのまま、川原まで引きずっていく。
砂利だらけの川原に義兄を放り出した途端、猛烈な怒りが込みあげてきた。握りしめた掌に爪がキツく食い込む。
口を大きく開いた瞬間、尻餅をついたままの義兄がぽかんとした表情で春樹に何かを差し出してきた。
「全然ちがいました」
義兄が差し出していたのは、幼児用の小さな長靴だった。長いあいだ水にさらされていたのか、黄色いカラーもずいぶんと色褪せている。
それを見た瞬間、また怒りがぷしゅぷしゅと音をたてて萎えていくのを感じた。
肩をガックリと落とした春樹を見て、義兄がバツが悪そうに呟く。
「あの、すいません……」
「何に対して謝ってるのさ」
つっけんどんな春樹の口調に、義兄は申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「色々と、申し訳なくて……」
「色々って何だよ。ちゃんと、はっきり言えよ」
噛みつくように言い放つと、義兄は目を伏せた。
「奈津子を忘れられなくて」
また、どうしようもない怒りと、きゅうっと心臓を締め付けるような悲しみを覚える。唇をきつく引き結んだまま、春樹は義兄を睨み付けた。
「分かってるんです。靴なんか探したって意味はない。どれだけ後悔しても奈津子はもう戻らないんだって分かってるのに」
言葉が途切れる。義兄は一度唇を引き結んだあと、かすかに震えた声で漏らした。
「彼女が恋しい」
本当にばかな人だと思った。だけど、どうしてだか胸の奥から羨望じみた思いもにじみ出した。一瞬、息もできないくらい、姉や義兄が羨ましくてたまらなくなった。
「本当に、どうしようもない人だね」
呆れた声を漏らしながらも、奇妙な愛おしさも込みあげてきた。何だか駄々をこねる小さな子供を前にしているような気分だ。
義兄が顔をあげて、春樹を見る。義兄の目は、薄らと潤んでいるように見えた。
「どうしようもないですか」
泣き笑いみたいな表情のまま、義兄は呟いた。春樹は深く頷いて、繰り返した。
「どうしようもないね」
「すいません」
「でも、どうしようもなくていいよ」
矛盾した春樹の言葉に、義兄は不思議そうに瞬いた。瞬くと、義兄の目尻に小さな涙の粒が浮き上がった。
「どうしようもなくても、今は、それでいいんだ」
呟いて、小さく息を吐き出す。
諦めたように穏やかな表情を浮かべる春樹を見て、義兄がパチリと瞬く。その目尻から、透明な涙が一滴だけ頬を伝っていくのが見えた。
「秋生さん、もう帰ろうよ」
なだめるように声をかけると、義兄は手の甲で目元を拭いながら、はい、と応えた。よろよろと立ち上がると、穴のあいたバケツの中に黄色い長靴を入れる。
「帰りましょう」
そう言って、義兄は弱々しく笑った。
日もすっかり暮れた帰り道の途中で、義兄の靴下がなくなっていることに気付いた。
「秋生さん、靴下どこいったのさ」
「はぁ、たぶん川に流されちゃったのかと」
他人事のように呟くものだから、腹が立って義兄の背中を平手で叩いた。むせる義兄を放って、店じまい途中の靴屋へと近づく。
店の軒先に出された五百円ワゴンセールのカゴから、わざと一番趣味の悪いビーチサンダルを一足選んだ。キラキラのラメで描かれた虹色のビーチサンダルだ。
「すいませーん、ここでお金払ってもいいですかー」
呼びかけると、店の奥から太ったおばさんがドスドスと重たい足音をたてながら出てきた。まだ身体から水を滴らせている春樹を見て、あからさまに怪訝そうな表情を浮かべている。
あれこれ聞かれる前に、おばさんに五百円玉を渡して足早に立ち去る。義兄はすこし離れたところから、途方に暮れたような表情で春樹を見つめていた。
「ほら、履きなよ」
足下にビーチサンダルを落としても義兄は動こうとしない。
「あの、履いていいんですか?」
「いいに決まってるじゃん」
なんて間抜けな質問をするんだ、という気持ちを隠しもせず、呆れた声で春樹は答えた。
義兄はためらうように視線を揺らした後、ぎゅっと目をつむった。それから、まるでウサギみたいにぴょんっとビーチサンダルの上に跳び乗った。
義兄が薄目をあけて、足下を見やる。
「あぁ」
義兄は、ため息みたいな声を漏らした。
「なんだ、大丈夫だったんですね」
「なにが大丈夫なの?」
「僕が靴を履いた瞬間、何かひどいことが起きるような気がしてたんです」
「ひどいことって?」
「地球がまっぷたつに割れるとか、火山が噴火するとか」
その馬鹿馬鹿しさに笑いが噴き出した。しばらくげらげらと声をあげて笑う。
「何にも起きなくてよかったね」
笑い声混じりに春樹がそう言うと、義兄はちょっとだけ嬉しそうに笑った。
歩く度にぺたぺたとビーチサンダルが音を立てる。義兄はしばらくビーチサンダルの感触を確かめるように、わざとゆっくり歩いたり、早足で歩いたりしていた。
家まで近くなったとき、不意に義兄が呟いた。
「バスだ」
バス乗り場に停まったバスを、義兄はじっと見つめていた。近付くと、バスには運転手以外誰も乗っていなかった。
「誰も乗ってないね」
「はい」
じろじろと眺めていると、バスが出発するというアナウンスが聞こえてきた。邪魔にならないように春樹は一歩後ろに下がったが、義兄は動こうとしない。
「秋生さん」
下がった方がいいよ、と声をかけようとした瞬間、義兄がぴょんっとタラップへと飛び上がった。先ほどサンダルを履いたときと同じ、ウサギみたいな跳び方で。
驚きに声をあげる間もなく、ぷしゅうと気の抜けた音を立ててバスの扉が閉められてしまう。
バスの中から、義兄が春樹を見ている。義兄は自分自身の行動に驚いたように目を丸くしていた。なぜだかその表情を見ていると、驚きと一緒に笑いがこみあげた。
春樹が手を振ると、義兄はすこし困ったように笑いながら手を振りかえしてきた。もう片方の手は、黄色い長靴が入ったバケツを持っている。
バスが出発する。遠ざかるバスが見えなくなるまで、春樹と義兄は手を振りつづけた。
秋生さんの靴 野原 耳子 @mimiko_nohara
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