契約解除 -吉村のその後‐
吉江 和樹
第1話
いつも通りの朝だった。目を覚ました僕は少し疲れていた。
僕は吉村正人40歳。
離婚歴2度の独身おやじだった。
僕はいつも通りの時間にベッドを出ると、いつも通り、出勤の準備を始めた。
時間は5時30分。晩秋のこの季節、夜が明けるにはまだかなりの時間があった。
会社の同僚から比べると出勤準備を始めるにはかなり早い時間だった。
まるで案山子のようにゆらりと立ち上がった僕はだらしなく衣服の散らばった煙草臭い部屋の電気をつけると、何時も通り顔を洗おうと、面倒くさそうに洗面所に向かった。
部屋は去年に引っ越してきた2K、家賃は僕の給料ではぎりぎりのものだった。
おかげで僕はいまだ母親に借金をすることがあった。
が、そのかなりたまっている母への借金を僕は返すつもりはなかった。
とりあえず僕はこの部屋を気に入っていたのだった。
すばやく顔を洗った僕はまず朝食をとることにした。
朝食はバナナと牛乳で何時もすましている。
というか、それくらいしか食べられなかったのだった。
鬱陶しそうに冷蔵庫を開け、賞味期限ぎりぎりの牛乳を取り出して、バナナを探すと、その日のバナナが見当たらなかった。
僕は仕方なくその日のところは、バナナは諦めた。
そしてその冷蔵庫から取り出した、賞味期限ぎりぎりの牛乳を、汚れたガラスのコップにそそぎ、一気に飲み干した時だった。
僕は重要な事実に気付いたのだった。
昨日の課長のあの一言、「契約解除」。
そうだったのだ、僕は会社をクビになったのだった。
課長はクビとまで強くは言わなかったが。「契約解除」つまるところクビなのだ。「契約解除」は課長の最後の僕に対する思いやりの言葉だったのかもしれない。
とにかくもう会社に行く必要はないのだった。
正直なところ覚悟はしていたのだが、この解雇の事実は僕にとってやはりショックだった。
カラになったガラスのコップを手に僕は呆然としていた。
「何をしよう・・・」僕は思った。
暫く僕は考え込んでしまっていたが、取り敢えず部屋を出る準備を始めた。
何時も寝間着にしている紫の汗臭いパンツにトレーナーを脱ぎ捨て、ベッドの上に放り投げた。
晩秋の夜明けの部屋の空気は、いつもより冷たく重かった。
僕は通勤用に使っている1週間ははいている黒のチノパンと3日間着ているタバコ臭い緑のトレーナーに着替えた。
そして先月中古の家具屋から3000円で買った、座り心地のいい木製の椅子に座布団を敷いて、腰を掛け、TVのスイッチをつけた。
出勤、いや、出かける時間までにはまだ30分はあった。ニュースを見ながら30分経つのを待った。
交通事故に殺人事件、おまけに戦争ときたが、ニュースの中の出来事は、僕にとってはまるで、すべて、ただの他人ごとに思えた。
いや、事実それはただの他人ごとなのだ。
その日の30分はいつもよりゆっくりと、とても長い30分で、僕にはじれったくもあった。
ようやく30分経つと、僕は立ち上がり、黒のダウンを少しだらしなく引っ掛け、テーブルの上のタバコとライターをつかむとポケットに突っ込んだ。
部屋のドアを開け、外に出ると、いつも通りに階段を降りた。そして歩道に降りた僕は、まだ暗い道路をまるで犯罪者のように素早く左右を見渡し、道路を横切り、そしてやはりいつも通りに俯くと、ダウンのポケットに手を突っ込み、電車の駅へ向かってあしばやに歩き始めた。
この時間、風もなく、まっすぐな歩道には、人一人歩いていなかった。
所々で赤黒いカラスが捨てられたゴミを奪い合うようにつついていた。
道路は時々、空車のタクシーが走っているだけだった。
少しいくとコンビニが見えてきた。
その時、僕は今日、まだタバコを吸っていなかったことに気が付き、ダウンのポケットに無造作に手を突っ込むと、タバコを取り出し、口にくわえた。
タバコに火をつけ、僕は腕時計を見た。
今日はいつもの時間より少し早いかもしれない。
僕はポケットから携帯灰皿を取り出し、立ち止まった。
100円の安物の携帯灰皿だった。
以前この辺でタバコを吸いながら歩いていた時に、近所の住人ににらまれたことがあったのだったが、灰皿は常に持ち歩くようにしていた。
中には吸い殻が詰まって膨らんでいる。
立ち止まった僕はタバコを大きく吸い込むと空を見上げた。
真っ黒な空。何も見えなかった。
僕は突然大きな不安に包まれ、加えていたタバコを路上に捨てて踏みつけると足早に歩き出した。
歩きながら僕はふと思ってしまった「いるだろうか」
僕は少し足を速めた。その時、僕の前を突然、小太りの黒猫が横切り、立ち止まると僕を見つめた。
その僕を見つめた目は一瞬、薄汚れた街灯のすすけた光を受けて鈍く光った。
僕は思ってしまった。
「今日はよくない日だ」そしてもう一度思ってしまった。
「いないかもしれない」
僕は、今度は歩を緩め始めた。
電車の駅に行くのがなんだか怖くなり始めてきたのだった。
後ろから走ってきた学生が僕を追い越していった。
時計を見ると、まだ電車の時間には充分間に合いそうだった。
そして歩いていた道を大きく曲がり、電車通りに出ると駅が見えてきた。
駅には人影がないように僕は思った。
人の気配がない。
「やはりいないのだろうか」僕の不安はあきらめに変わろうとしていた。
部屋に戻ろうかと思い始めたその時、僕は背後に人の気配を感じた。
強烈に美しい気配だった。
僕は振り向けずにそのままようやく前に進むと、信号機が赤に変わり、仕方なく立ち止まったのだった。
道路には車は走っていなかった。
するとその美の気配は僕の背後から僕を追い越しそのまま駅に向かって、信号を無視して道路を渡ってしまった。
僕はほっとした。
彼女は来たのだった。
信号機が青に変わり、僕は歩道を渡り、駅に向かった。
駅に上がっていくと彼女の他に人はいなかった。
僕はその彼女の美の気配に圧倒されて、今日も2歩以上近づくことは出来なかった。
いつものように、少し離れて僕がちらりと彼女を見つめると、彼女はいつも通りに、薄いグレーのよれよれのイタリアンハットを目深にかぶり、ジーンズ地のジャンバーを着て、その細く長い脚にピッタリの黒のズボンをはき、リュックを背負って寂しげに俯いていた。
駅の弱くあわいオレンジのライトに照らし出された、彼女のその強烈な美しさは、男を近づけようとするようなものではなかった。
それは男を突き放す程のものだった。
僕は相変わらずに彼女の横に並ぶことができず離れたままで電車を待った。
その時間の駅には、他に人はいなかった。
少しすると、線路にガタゴトと懐かし気な音を吸いつかせながら、駅の横に電車が流れてきた。
電車が止まり、ドアが開くとひらりと彼女は電車に乗り込み、追いかけるように僕は電車に乗り込んだ。
電車は空いていた。
彼女は何時も通り電車に乗り込むと前方に向かい、座席に座りもせずに、吊革に捕まるとやはり俯いた。
僕は後方に向かい、吊革に捕まると走りだした電車の窓から、ゆっくりと遠ざかっていく駅をぼんやりと見つめた。
僕は前方で吊革に捕まり俯く彼女を見つめることさえ出来なかった。
しかし二人の間の空間から、彼女のその強烈な美の感覚は確実に僕に伝わり、その魅惑的な感覚に僕はうっとりと酔いしれていた。
すると次の駅だった、電車が止まると一人の老人が乗り込み、僕と彼女の間に立ち、僕からのその感覚を遮ってしまったのだった。
何時もは人の乗らないはずの駅なのだ、僕は驚きとともに深い失望感に包まれた。
その失望感はあの課長の一言より大きかったかもしれない。
そしてその老人はすべてを知っているように少しあざけるような微笑を僕にみせながら、僕を見つめたのだった。
彼女は駅に着くと、見向きもせずに降りて行った。
僕は走り出した電車の後方の窓から離れていく彼女の細く美しい後姿を見つめていた。
そして次の駅、僕は電車を降りると逆向きの電車の駅に向かい、やってきた電車に乗り込み部屋に帰った。
次の朝、やはり僕はいつものように朝早く出かけ、駅でちらりと彼女を見つめ、彼女の後姿を見つめ、逆向きの電車に乗った。
しかし僕は部屋には戻らずそのまま街の中心へ向かった。
早朝である、通勤者でいっぱいのカフェがあった。
僕はそこに向かい、通勤者に紛れてコーヒーを飲みながら本を読み、時間を潰すことにしたのだ。
その時の僕の頭の中にはこれからのことは何もなかった。
通帳に、ある程度の貯金はあった。
退職金が出たのである。
しかしそのことは母には黙っておいた。
通勤者がそのカフェを出ると、店には人の数が少なくなってきた。
2時間以上、僕は店で本を読んでいた。
ふと顔を上げた僕の目に「2時間以上の長居はご遠慮ください」と書かれた店の張り紙が目についた。
貼り付けたばかりの張り紙に見え、なんだか僕のために張り付けられた張り紙に思えた。
僕は仕方なく立ち上がった。
どこに行こうかあてもなく立ち上がった。
僕はとりあえずタバコの吸える川沿いの通りに行くことにした。
そしてそこで椅子に座り、何も考えずにタバコを吸っていた。
そしてふと川の向こうを見るとベンチに寝転がっている一人の男がいた。
しわしわの顔に埋まりそうな眼はあの時の猫の目と同じだった。
髪はぼうぼうで白い髭は伸び放題、衣服は真っ黒で同じように真っ黒なリュック。
近くによると何か異臭が漂ってきそうな、まるであのときのカラスのような男だった。
ホームレスだ。
僕は男を見つめながら思った。
「このままだと自分もああなるのだろうか」そう思った時、僕の心の中から何かが抜け落ちていきそうだった。
しかし、僕には上り詰める力も無ければ、そのまま落ち込んでいく勇気も無かったのだった。
僕は働こうと思った。
手にした携帯灰皿の中に詰まった吸殻を道の脇に捨てた。
その日、日曜日だった。
久しぶりに僕は夜明けまで寝ていた。
目覚ましを見ると7時を過ぎていた。
僕はベッドから身を起こすと考えた。
そしてとりあえず出かけることにした。
いつものカフェだった。
読みかけの本をリュックにつっこみ部屋を出た。
電車の駅までの道は明るかったが、晩秋の日差しはなぜか弱く寂しげで、冷たい風は頬を切りつけるようだった。
カフェに着いた僕はいつも自分の座っている席に目を向けると、その席にはすでに人が座っていた。
僕は仕方なく別な席に腰を掛け、いつもと同じブレンドのMサイズを注文すると、少しやせた女の定員は嫌な顔をしたように見えた。
僕は早速喫煙ボックスへ向かった。
喫煙ボックスは空いていた。僕以外に人はいなかったのだった。通勤時間帯の時はボックスはいつも満員だった。入口に5人までと書かれているが、6人7人平気で入ってくる。ボックスは4人でいっぱいになるくらいの狭い空間なのだ。
ボックスの中で何も考えずにタバコを吸っていると、突然ポケットの中のスマフォが鳴った。スマフォでの連絡は僕には母しかなかった。母からの連絡はいつも「今月いつ帰ってくるんだ」なのだった。僕は面倒くさそうにスマフォをポケットから取り出し出てみると、母だった。そして母は言った。
「今月いつ帰ってくるんだ」
「今月忙しいから帰れない」
「金はあるのか?」母は言った。
「ある」
「困ってる事はないのか?」母は言った。
「ない」。
僕はスマフォを切った。僕はすべてを隠しておいた。そして僕は明日ハローワークに行くことにした。
その日、朝早く部屋を出ると僕は電車に乗ってハローワークへ向かった。
ハローワークへは僕の部屋からだと電車で30分程度の時間で着くはずだった。
取り敢えず失業保険の手続きをしてしまおうと僕は思ったのだった。
恐らく1年間、月12万程度の金が手に入るはずだった。
そうすれば前の会社にもらった退職金が貯金としてある。
その貯金を考えれば半年くらいは遊んで仕事探しができる計算になる。
日本の社会福祉制度は意外としっかりしていると思った。(というか我々低所得者が、富裕層の生活を知らないだけなのだろうが)まあ僕は食べていければ、そしてタバコを吸えればそれでいいと僕は思っていた。
僕は腹から笑いがこみ上げてきそうだった。
そして30分近く電車に揺られてようやくハローワークに着くと、僕はこんど窓口で1時間近く待たされた。
それだけこの街は失業者であふれているということなのだろう。
ようやく窓口で書類に必要事項を記入して提出すると窓口の、若い女の子が冷たく言い放った。
「はい、結構です。給付は3か月後から開始になります」
「えっ・・・」下を向いていた僕は思わず女の子を見つめてしまったが、彼女はすでに立ち上がり振り向いてしまっていた。
僕はそれを聞いて驚いたのだ。
というか忘れていたのだった。
そうだった、前回、あれはいくつの時だったか忘れてしまったが、僕は3ヶ月収入がなく、それで金に苦労したことがあったのだった。
僕はまた呆然としてしまった。
救いを求めるように、もう一度女の子を見つめたが、窓口の若い女の子はすでに立ち上がって席を離れていた。
その時、僕は初めて会社の退職金の意味に気が付いた。
そうだったのだ、あれはこの3ヶ月を生き抜くための金なのだ、会社の思いやりの金だったのだ。
貯金などという甘ったるい金ではないのだった。
この3ヶ月でいずれ確実に消えていく間違いのない生活費だったのだ。
僕はうなだれた。
世の中うまくできている・・・そう思い、僕は窓口を立ち上がりハローワークを出た。
黒のダウンに身を包み、電車の駅に向かった僕はポケットからタバコを取り出しかけて止めた。
電車に乗ると僕は考えた。
いまさら母に金を貸してくれとも言えない。
会社を首になったこともまだ言えないでいるのだ。
僕はとりあえず朝飯のバナナと牛乳はなしにすることとしたが、朝のカフェでの一服はやめられなかった。
僕は朝、毎日、カフェに出かけ、勤務途中のサラリーマンに交じって意味もなく本を読んでいた。
そして電車代がかかるにもかかわらず、毎日5時30分に起きてあの彼女の後を追うことも止めなかった。
僕は自分のこの行為がストーカー一歩手前の行為であることは自覚していた。
しかしその行為を止めることができない自分が悲しかった。
金のない一日というのは非常に単純なものだった。
することが毎日決まってしまうのだ。
それ以上の事をすることもできないし、それ以下の事にする訳にもいかないので、毎日が非常に単調なものになってくるのだ。
僕は毎日、彼女の後を追って朝早くに部屋を出て、途中のコンビニでタバコ540円を買って電車代200円に乗り、帰りにコーヒー300円を飲みに出かけ、そして電車代200円で部屋に戻る。
帰りの途中に近所のスーパーで昼飯のカップ麺120円(税抜き)に晩飯の弁当500円(税抜き)、そしておかずのきんぴらごぼう110円(税抜き)を買って帰ってくるしかないのだった。
あと生活費としてガス代、電気代、水道代が重くのしかかってくる。
どれか一つが欠けても僕の一日は成り立たないし、それ以上の事をする訳にもいかないのだった。
そして僕は40歳だった。
当然、あちらのほうにも時々欲求を感じる。
それも生活費の一部に加えて考えていいだろうと考えていた僕は、ある日、パソコンで調べた番号に思い切ってTELしてみることにした。
金はATMで用意してきた。
TELしてから女が来るまでの間に僕は部屋をかたずけた。
流し台の皿とコップを洗い、ベッドの布団をそろえ、消臭剤をかけた。
散らかってる衣類を箪笥にしまい、部屋の中に掃除機をかけた。
すると1時間程たち、部屋に女がやってきた。
僕が思っていたより若くかわいい女だった。
長い黒髪がいやに美しく、厚化粧の白い顔に真っ赤な口紅がなまめかしく輝いていた。
美しくはなかったのだった。
その女をみた瞬間に僕の胸中の男としての欲求は、何故かろうそくの灯が消えていくように萎えてしまった。
女は部屋に上がり込むと何も言わずに寝室へ向かい、赤いウールのコートを脱ぐと、続けざまに着ていたピンクのワンピースと黒の下着を脱ぎ捨てた。
僕は部屋の中央にすえた炬燵の上に二つのコップをおいて、それに安物のインスタントコーヒーを入れると彼女に進めた。
「どうしたの」
彼女は少し不思議そうな顔で、僕を見つめながら言った。
「時間は40分よ」
「いいんだ」
「こっちに来て坐って」僕は少し微笑むように言った。
「それならいいけど」女はやっぱり不思議そうに僕を見つめた。
そして素っ裸のまま、炬燵に入ってきた。
「・・・・・・」しかし女とまともに向かい合ったことがここ最近、全くなかった僕は微笑みながらも言葉を失ってしまっていた。
「出身はどこだい?」僕は苦し紛れに女に何とか尋ねた。
「あなたに関係ないでしょ」女は怒った様に僕を睨みつけた。
正直、初めて女が自分の部屋に入ったということで僕の心は満足し、僕のその男の欲求は十分に満たされてしまっていたのだ。
ニコニコと微笑みながら僕は女を見つめてコーヒーを口にした。
「気持ちの悪い人ね」女が言った。
「どうせならビールでも無いの?」
「酒は飲まないんだ」僕が言った。
僕が酒を飲まないのは事実だった。
彼女はあきれたように表情を崩し、コーヒーに手を差し出しながら言った。
「料金は安くならないわよ」
「金はあるんでしょうね」
「大丈夫、お金は準備してるよ」僕は言った。
そして40分経つと素っ裸の女は立ち上がり僕に向かって右手を突き出した。
「時間よ」女が言うと僕はいつもの黒いリュックの中の財布を取り出し、中から新品の1万円札を一枚取り出し女に渡した。
すると女はポケットの中からしわくちゃの千円札を取り出し、3枚そろえると投げつけるように僕に差し出した。
僕は「おつりはいらない」、そう言いかけたがさすがに言葉にはならなかった。
そしてそのしわくちゃの千円札を3枚素直に受け取った。
女は部屋に投げ捨てていた真っ赤のウールのコートに身を包むと
「私はサチコ。またよろしくね」
「次があるから」そう言ってまるで真っ赤な猫のように素早く部屋を出て行った。
僕は満足していた。
今度の時はビールを用意しておこうと僕は思った。
炬燵の上のコーヒーカップをかたづけ、そのままベッドに入って僕は目をつむった。
いい一日だと僕は思った。
次の朝やはり5時30分の寒い朝に目を覚ました僕は、電車に乗って彼女を見送った僕は、何故かその日いつものカフェではなく、ちょっと古めの「喫茶店」に入っていった。
そこはテーブルに腰かけたままたばこの吸える喫煙可の喫茶店で、コーヒーは600円、いつもの倍だったが、たまにそれくらいは許される贅沢だった。
だが、僕にその300円のコーヒーと600円のコーヒーの味の違いは分からなかった。
そこには「2時間以上の長居はご遠慮ください」の張り紙がないのだった。
僕が読みかけの本を何気なくリュックから取り出した時だった。
「おい、吉村じゃないか」驚いて僕が振り向くと沢村だった。
大学時代の同期だった。僕はとりあえず大学を出ていた。
「あっ・・・」僕は、懐かしさと恥ずかしさで声が出なかった。
「おい、お前、どうしてたんだ?」僕は自分のコーヒーを手にすると、勝手に僕のテーブルにやってきた。
僕は「まずい」そう思ったがどうしようもなかった。逃げ出すわけにもいかない。
「あ、ああ、何とかやってるよ」確か彼は公務員のはずだ、超安定職業で、結婚して安定した生活を送っていたはずだ。
一番会いたくない相手の一人かもしれなかった。
「仕事の方はどうなんだ」僕は当たり前の様に彼に聞いた。
「ああ、何とかやってる」僕は当然の様に嘘をついた。
そして次に来る質問に備えた。
「奥さんは元気なのか?」
「ああ、元気だ」僕は女房との離婚をまだ母親以外には誰にも話していない。
「そうか、良かったな」彼は何故か俯くと少し肩を落としたように見えた、そして溜息を一つついた。
「おまえこそどうなんだ、そろそろ役職か?」沢村は顔を横に向けた。
「・・・・・」
「係長あたりなのか?」僕はもう一つ詰め寄った。
「仕事は辞めたよ」
「えっ・・・・・」
「おっ、奥さんは?」
「女房は死んだよ、癌だった・・・」
「お子さん、お子さんもいたんだろう?」
「ああ、子供はおれが面倒みてる。職場は子供の面倒見ながら働いていける程甘い職場じゃない。今は女房の死亡保険やなんやらでなんとかやってる」
そう言うと僕はもう一度僕を見つめて聞いてきた。
「それでお前、仕事の方は本当はどうなんだ」
僕は心臓が一つドキリと鳴った。
「・・・・・・」僕は顔を横に向けた。
「先週、1年務めてた職場を契約解除になった」僕は今度は本当のことを言った。
沢村は僕を見つめ薄く笑った。
「だろうな、こんな時間にこんな所でコーヒー飲んで本を読んでるんだもんな。奥さんとはそうすると離婚か?」彼はポケットから煙草を取り出し火をつけた。
「ああ・・・」僕は少し悔しかったが何となく緊張感が肩から落ちていくようだった。
「気の強い女だったからな」彼がしみじみとそう言った時、僕はもう一つドキリと心臓が鳴った。
そうだったのだ、僕の別れた女房は、僕が学生時代に沢村から奪い取った女だったのだ。
僕は再び肩に力が入ってしまった。
しかし沢村の発言には間違いがあった。
別れたのは仕事をクビになる前だった。
会社をクビになったから別れたのではなかった。
「ところでお前はこれから何かあてはあるのか?」僕は吸っていたタバコの火を消すと僕を蔑むように見つめた。
彼は女房のことをそれ以上口に出しはしなかったが、彼の胸中からその事実が消えている訳ではなかった。
そう思うと僕は彼と目を合わせることが出来なかった。
「特にまだ考えてない」
「そうか、失業保険をあてにしているんだろうけれど、1年なんてあっという間だぞ」彼は立ち上がりながらそう言って、店を出ていった。
その後姿を見つめながら僕は思ったのだった、向こうの席で話をしている二人の若いカップル、あちらで一人で憂鬱に新聞を読んでる老人、コーヒーを運んでるちょっとかわいげなウエイトレス、みんな自分のこと知っているのかもしれない。
自分が「契約解除」になったことを知っているのかもしれない、そう思った僕は立ち上がって店を出た。
僕が店を出ると街中にはまるで雪が降る様に雪虫が跳ねていた。
思わず空を見上げると、空には雲が満ちていた。
僕はポケットからスマホを取り出した。そして母にTELをした。
「生きてるか?」僕は言った。
「そう簡単にくたばりゃしないよ」母は言った。
「今週の日曜に帰る」僕は言った。
「どうした、金か?」
「コメか?」母は聞いてきた。
「帰ったら話す」そうして僕はTELを切った。
その週の日曜だった。
久しぶりに僕はバスに乗った。
僕がバスに乗り込むと、バスは空いていた。
僕は一番後ろの窓際の席に深々と腰を掛け、窓から外を見つめた。
家までは40分だった。
同じバス停で並んでいたハンチング帽をかぶり、茶色の皮の鞄を手に持った老人が一人、バスに乗り込むと、ちらりと僕を見つめ、前の席の二人席に座った。
老人は座るとすぐに持っていた茶色の皮の鞄から本を取り出し、その本を読み始めた。
僕は彼の読んでいる本が気になった。
「何を読んでいるのだろう」
しかし老人は5分ほどすると直ぐに本を閉じ、鞄にしまうと間もなく眠ってしまった。
ターミナルに着くと僕はそこで降りて昼食を取ることにした。
僕はここの唐揚げ定食が気に入っていた。
僕は母からの借金を当てにして、少し贅沢をすることにした。
家に帰っても食事は魚ばかりで肉は出てこないのだった。
母は帰ると必ず稲荷寿司を作り、僕の好きなホッケか鮭を焼いてくれたのだ。
しかし自分が食えないからと言って肉は焼かないのだった。
家に着くと母はもうすべて知っているように僕に行ったのだった。
「何があったんだい」
「会社をクビになった」
母は少しうつむき、その表情に陰りを見せたようだった。
そして僕に向って言った。
「金はもう貸さないよ。失業保険が出るんだろう」僕は驚いた。
「そんな、失業保険が出るまで3か月もあるんだ。その間収入がないんだよ、お袋の借金当てにしてたんだよ」
僕は懇願するように母に泣きついた、しかし母は一度行ったことは変えない人だった。
「頼むよ・・・」僕は苦し紛れに泣きついた。
「うるさいね、お前、私にいくら借金があるのか知ってるのかい」
おふくろは僕の借金を覚えていた・・・・・。
おわり
契約解除 -吉村のその後‐ 吉江 和樹 @YosieKazuki
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