Decision of Paradise - 8

 戦いが泥沼化したのは、ジャフ側の一個小隊がダイスに寝返った瞬間からだった。

 正確には、彼らは寝返った訳ではなく、ダイスの侵攻を利用してモルディハイに謀反したのだ。

 以来、圧倒的だと思われた数の差が縮まり、戦闘はますます血生臭さを増していった──が、それも長くは持たない。


 ジェレスマイアを将とした精鋭騎馬隊から一歩遅れて到着したダイス歩兵の大軍は、しかし、後ろから攻めてきた別のジャフの一軍に苦戦を強いられていた。


 多くを殺し、殺され。

 ジャフ王宮前の広場には、生きた兵の数より、地に横たわる身体の数の方が多くなってゆく。

 そしてついに、その戦闘の中──


 二国の王がまみえる瞬間が訪れた。


 大軍の中、自ら剣を振るい戦っていた両雄は、全てが入り乱れた戦乱のただ中に、互いの存在を認めると向き合った。

 それは唐突で、まるで雷が落ちたような、衝撃的な一瞬。


「うおおおお!」


 ジェレスマイアとの正面からの一騎打ちに、モルディハイは甲高い雄叫びを上げ突進していった。

 モルディハイの馬は茶色で、ジェレスマイアの黒馬に比べ速度は落ちたが、頑強さでは上だ。


 二人の王は、風のような速さで交差した。

 剣が馬上で打ち鳴らされる──最初の一撃は引き分けだった。


 ジェレスマイアはすぐに体勢を立て直し、モルディハイの元へ引き返した。モルディハイが立ち直るのも早かったが、それでも、ジェレスマイアに僅かな遅れを取る。二人はまた互いに向け突進していった。


 次に二人の剣が交わされた時、初めて──『差』が出た。

 ジェレスマイアの剣がモルディハイの剣を制したのだ。


 モルディハイは馬上で均衡を崩し、地に落ちた。

 訓練された馬は、落馬した主人を傷つけることなく、その場をわずかに引くと嘶いなないた。

「く……っ」

 大地に投げ出された剣に手を伸ばすと、モルディハイは素早く立ち上がる。


 ジェレスマイアはいまだ騎乗だ。これは明らかな不利になる。モルディハイは腕に渾身の力を込め、体勢を立て直すと来るべき攻撃に構えた。

 視界の先には、鮮やかに黒馬をひるがえさせるジェレスマイアがいる。


「来るがいい、ジェレスマイア! 汚れた小国の王が!」


 高らかなモルディハイの叫びも、今はただ騒音の一部でしかない。

 喧騒の中に消えていく声を聞き届けると、ジェレスマイアは何も言わず、静かに馬を降りた。騎手を失ったジェレスマイアの馬が足踏みする。

 ジェレスマイアはその黒馬に、何かを短く語りかけているようだった。


「何の真似だ……っ、今更、騎士道をかたるかつもりか!」


 モルディハイは地を蹴り、駆けた。

 ジェレスマイアは構える。

 大きく振り落とされたモルディハイの剣を、ジェレスマイアの剣が受けた。


 五分五分──その一発で勝負がつくことはなく、二人の剣は何度も組み合った。気合の声を上げ踏み込んでくるモルディハイに対し、ジェレスマイアは何も言わずにその攻撃を受け、切り返す。


 どちらの手にあるのも、王の為に打たれた最高の剣だ。

 血に濡れた今でさえ、その美しさを損なうことはない。剣と剣の交わる鋭い金属音が響き渡る。激しい剣の舞は続いた。


 二人の戦いは時が経つにつれ、ジェレスマイアの優勢に見えてきた。

 しかし戦状は逆で、ダイス軍は強大なジャフ軍を前に戦力をすり減らし続けている。このままいけば後は時間の問題だった。しかもジャフ軍は自国内で戦っている分、補給が容易だ。武器、兵力、水分、食料──その、全てが。


 キィン! と悲鳴のような音を立てて、二本の剣が十字に交差した。

 ──ジェレスマイアとモルディハイは剣を間にはさみ、至近距離に対峙する。


「……ここまで来たことは褒めてやろう……しかし、女は渡さぬ」

 モルディハイは歯軋りをしながら、低くうなった。


「彼女は何処にいる──」

 ジェレスマイアが応じる。冷たい声で。

 モルディハイは剣を支える力を出すため眉間に皺を寄せながらも、口元だけ笑いを浮かべ、答えた。


「あの女はこの戦闘の只中だ……お前の兵士が、間違って斬りかからなければいいがな……!」


 その時初めて、ただ冷徹で冷酷なばかりだったジェレスマイアの瞳に、動揺のようなものが揺らめいた。

 モルディハイはそれを見逃さない。

 気合の声を上げると、モルディハイはジェレスマイアの剣を押し返した。

 二人の距離が離れる。


「お前の望みは何だ、ジェレスマイア! 私を殺すことか、国を救うことか、それともあの女を手にすることか!」


 モルディハイは、対戦相手をあおり立てる種類の戦士でもあるらしい。

 地を蹴ると、モルディハイはもう一度ジェレスマイアと激しく剣を交えた。ジェレスマイアの有利に思えた太刀が、またも五分五分になる。否、モルディハイの優勢に逆転したようにさえ見えてきた。


 正面、両脇、下と、素早く展開されるモルディハイの剣を、ジェレスマイアは守備一方で受けていく。

 双方の王は髪を振り乱し、汗を流し、血に濡れながらの死闘を続けていた。


「愚か者めが! お前のその正義感が、結局全てを潰したのだ!」

 モルディハイが叫んだ。ジェレスマイアは、


「貴様に何が分かる!」

 そう答えた。

 戦いは終わらない。


 永遠に続くかに思えたそれを止めたのは、他でもない……。


「……ジェレスマイアさん!」


 突然、死の世界に現れた天使……白い衣服は、赤と黒に濡れた大地に、神聖に浮かびあがり否応なしに瞳を釘付けにした。

 細い金髪が揺れて光を放つ。

 青い瞳は、乾ききった戦場に湧いた恵みの泉をさえ思わせる──


「エマニュエル! ここに来るな!」

 ジェレスマイアが叫んだ。モルディハイの強力な剣を受け止めながら。


 しかしエマニュエルは、戦場の合間をくぐりぬけ、ジェレスマイアの元へと駆けてくる。ジェレスマイアの瞳は、その姿をとらえて離さなかった。

 そこを──

「お前は私と戦っているのだ、忘れるな!」

 モルディハイが怒鳴りつけ、ジェレスマイアへ不意打ちの一撃を突いた。


 避けることは……かなわなかった。

 モルディハイの剣が、ジェレスマイアの鉄甲を破り、そのまま肩を貫いた。衝撃によりジェレスマイアの身体は均衡をうしない、地面に倒れる。モルディハイはここぞとばかりに剣を持つ腕に力を入れ、さらに深く刃をめり込ませた。


「嫌ぁ! ジェレスマイアさんっ……!」

 エマニュエルはすでに至近距離まで来ていた。しかし、ジェレスマイアの名を叫んだ瞬間、追っ手の騎士に後ろから捕らえられてしまう。


「や、放して、放してっ! ジェレスマイアさん!」

「エマ!」


 後ろから追っ手に腕を羽交い絞めにされ、エマニュエルは暴れた。しかし当然、力で敵うことはない。


「ぐ……っ」

 ジェレスマイアの端正な顔がゆがむ。


 モルディハイはジェレスマイアの肩に剣を突き刺した格好のまま、ちらりとエマニュエルへ振り返った。

 そして、痛みに耐えて眉をよせる敵の王に対し、残酷な笑みを見せると言った。


「時が来たようだな……ジェレスマイア……私の復讐を見るがいい!」


 叫びと共に、ジェレスマイアの肩に食い込んでいた剣を引き抜くと、モルディハイは立ち上がった。

 ジェレスマイアの血に濡れた剣を高く掲げる。

 すると──


「今こそ出るがいい、近衛団! 構えろ!」


 モルディハイの怒号を合図として、城壁の上から、一瞬にして数百の兵士達が姿を現した。

 そろいの煉瓦色の服に、隙間なく並んだ彼らの姿は、突然城壁が背を伸ばしたような錯覚さえ与えた。全員の手に、弓が構えられている。


 その標的は──


「……鍛えられた射手たちだ。的を外すことはない。私の一声で、お前達の運命は決まるだろう」


 モルディハイの声はいままでになく冷酷だった。もしくは、エマニュエルにそう聞こえてしまっただけかもしれない。

 二人の兵士に両脇を押さえられたまま、エマニュエルは周囲を見回した。


 壮絶としていた戦場は、今や、波を打ったような静けさに包まれた。


 息を呑むという、静かな動作さえも、周囲に聞こえそうな沈黙だった。

 ただ、乾いた大地にほこりが舞い、その黄土色が、視界を厳しくしている。しかしそれも、自分に向けられている幾つもの矢を見上げる、妨げにはならなかった。


「あ……あ……」


 エマニュエルは震えた。

 矢の標的となっているのは、自分だけではない。ジェレスマイア。そして戦場の中でも目立つ、今となっては数少なくなっていた、ダイスの兵達が標的となっている。


 どの弓身ゆみも長く強健で、鏃やじりは鋭く、ほこりの中でさえ鈍い光を放っていた。

 弦は引かれている。きっとモルディハイの合図と共に、容赦なく標的を射殺す。


「やめて……」


 そんな空しい懇願だけが、やっとエマニュエルの口から漏れた。が──それが誰に届くというのだろう。

 モルディハイは剣を高く掲げたまま叫んだ。


「勝利はすでに我が手にある! ダイス王はもう戦えない……しかし私の温情を聞くがいい!」


 沈黙に落ちた広場に、赤い王の声が高く響く。

 ジェレスマイアは立ち上がろうとした。しかしモルディハイの宣言どおり、ジェレスマイアの肩から流れる血は多く、戦いを続けるには傷が深すぎた。


「聞け! このダイス王は、国を守る為ではなく、一人の女の為に侵略を犯したのだ! それがここに居る女だ!」


 モルディハイは剣を振り、その鋭利な先端で捕らえられているエマニュエルの方を指した。


 ──視線が集まる。

 血に濡れた戦場の中に佇んだ、金糸の髪と白い服の少女。


 ある者は驚きの目で、ある者は呆然とした目で、そしてまたある者は怒りの目で。敵、味方も関係なく、その場にいた全ての者達がエマニュエルの姿を見すえた。そして、モルディハイの言葉の続きを待った。


「しかし私には、全てを無かったことにしてやる用意がある!」


 モルディハイは怒鳴った。その姿は、まるで勝利の雄叫びを上げる獅子のようだ。

 振り乱された赤い髪。

 大きく胸を反らし、荒れ果てた戦場で、声の限りに叫ぶ王者──しかし、次の瞬間、モルディハイは少し声を落とした。


「条件は唯一つだ……」

 ゆっくりそう言うと、モルディハイはエマニュエルを見た。


 視線が合う。烈火のごとく燃える赤の瞳と、涙に凍える青の瞳。


「モルディハイ、さん……」


 エマニュエルは小さく言った。あるいは、モルディハイには聞こえなかっただろう。精々わずかな口の動きが読み取れた程度のはずだ。

 しかし、

 しかし……?


(え……)

 幻かも、しれなかった。全てを現実としてすえるには、今、エマニュエルが置かれている状況は、余りにも劇的だった。


 しかし、エマニュエルはモルディハイの瑪瑙色の瞳に、一筋の涙が流れたのを、見た。


(どう、して……)


 熱い。

 怒りに歯を食いしばった顔。その間をすり抜け、溢れてきてしまったような、熱い涙。


「私を裏切った罰だ……私の、初めての愛を、受けながら」

「────」


 続いて抑えられた声で、モルディハイはエマニュエルに言った。エマニュエルだけに向かって。



 ──もし、時が止められたなら。

 このまま全てを無かったことにして、昔、幸せだったばかりのあの頃。何も知らないただの少女だった頃に、戻れたなら……。

 恋すること。愛し愛されることをただ夢見ていた、あの頃。

 天国、楽園。

 その名を何と呼ぼうとも。

 誰かを愛することが、苦しみや憎しみに変わってしまうだなんて、知らなかったあの頃に……。


 今、戻ることが出来たのなら



 モルディハイは己のマントを素早くひるがえし、ジェレスマイアの方へ素早く向き直った。

 涙はすでに消えている。

 変わりに溢れているのは、冷く残酷な光だけだ。

 静まり返った戦場の中を、モルディハイは真っ直ぐ、ジェレスマイアに向かって歩いた。


 ジェレスマイアは傷を手で覆いながら身体を起こし、剣を支えに立ち上がろうとしていたところだった。

 痛々しい姿であるのに、威厳は失われていない。しかし出血は深刻だ。


 王と王がもう一度向き合った瞬間、その場にいた戦士達は皆、息を呑んだ。


「貴様の予言とやらを、成就させてやろう──」

 モルディハイは言った。


「──お前は実際に、ここまでの数の己の兵士達を次々と死なせたことはなかっただろう。お前はいつもそうだった……今日まで。しかし、女に狂った今も、この有様を見れば少しは良心が痛んだはずだ。……『思慮深く、賢明なダイスの王』」


 ジェレスマイアは答えなかった。

 出血でわずかにかすむ視界をはっきりと保つため、眉間に深く皺を寄せる。


 傍に。

 走ればすぐに捕まえられる距離に、エマニュエルがいる。

 ──破滅してもかまわない。もう一度。この腕に抱いて、存在を感じることができたのなら。

 それだけだ。

 ただそれだけが、この生で心から望んだ、唯一の願いであったというのに──



『この娘はその命をもって、王の願いを叶えるだろう』

 モルディハイはジェレスマイアの剣を指し、続いてエマニュエルを振り返ると、叫んだ。



「さあ、お前のその剣で、この女の心臓を貫くがいい! その手でこの女を殺せ、ジェレスマイア! そうすればお前も、ダイスも、この戦場にいるお前の兵士達も、全てを救ってやろう──これが!」


 その時のモルディハイの声は、すでに、モルディハイ自身が発しているようには聞こえなかった。

 どこか天上から操られているような、超人的な声。

「これが私の復讐であり、温情だ!」



 今こそ──全ての希望が消えてしまった今こそ、思い出して欲しい。

 幸せと夢。希望と、願い。


 何が欲しかったの──

 その為に、何をすればいいの──



 楽園に今、決断の時が訪れる。

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