第二章 悪感情のスプレット

「ちょっ! 佳奈!!? どしたの!?」


 満足気な顔が心配と驚きが入り交じった顔になる。ポケットから取り出したハンカチで私の目尻辺りを撫でる。


 ああ、そうか――泣いているんだ。私。


「……ごめんね、ありがとう。沙織ちゃん」


 ハンカチを持つ手を掴み、頬に添える。

 温かい。彼女の体温を感じ、安心する。同時に本当に戻ってきたのだと、実感した。


 一年前の九月一日。私が梔子沙織親友を失う前の、楽しかった思い出。

 そこに私が居る。未来の私が。


 ならどうするか。


 変えるしかないだろう。過去を。

 彼女を失わない、そんな未来に。


 それに、二度も彼女を失ってしまったら、私は――


「か〜な〜? どう? 落ち着いた?」


 添えていた手はいつの間にか無くなり、気付けば隣に彼女が座っていた。


「う、うん。落ち着いたよ」

「もぉ〜びっくりしたよ! 突然泣いちゃうんだもん」


 優しく頭を撫でられる。何かあると直ぐに私の頭を撫でる。そんな癖が彼女にはあったなと、一人懐かしく思った。


 人懐っこく、誰からでも愛されそうな彼女。

 そんな彼女に影が差し始めたのは、もう少し後だっただろうか。


 この日は彼女との再会を内心で喜びながらも、平静を装おり、解散した。


 家に帰る。一年後には逃げるように一人暮らしを始め、実家を離れてしまった。

 玄関を開けると懐かしい空気が鼻に抜ける。両親は共働きで、二人とも夕方過ぎに帰ってくる。


 軽くシャワーを浴び、自室のベッドに寝転がると、疲れからかそのまま眠ってしまった。


 私はどうすればいいのだろうか。

 彼女を救うには、どうしたら。


 分かってる。簡単だ、そんなの。


 ‪”‬私が変わればいい‪”‬


 一歩踏み出せば変わる事なんて山ほどある。

 日和るな、負けるな。


 彼女梔子沙織を恐れるな。


 日は進んで九月十七日。三連休が明け火曜日からの登校。

 文化祭が近付く中、教室に入ると覚えのある嫌な空気を感じた。


 クラスメイトの悪意が纏まったあの空気。

 あの日に比べればマシな方だが、私には分かる。


 悪意の矢印は――沙織ちゃんに向いている。


 そうか。この日からだったのか。

 陰口がクラスに蔓延り始めたのは。


 何故気付かなかった。

 こんなにも分かり易いのに。


「あ、おはよー柊さん」

「……おはようございます」


 ヘラヘラとした三人組の女子の一人が挨拶をしてきた。私は最低限で返し、沙織ちゃんの元に向かう。


「沙織ちゃん、おはよう」

「佳奈……おはよう」

「……ね、私さっき今塚先生に頼み事されちゃって。一緒に来て欲しいの」


 そんな頼み事はされていない。だけど私は今直ぐにでもこの教室から彼女を離したかった。

 半ば無理矢理引っ張るように彼女を連れ出した。


「佳奈?」

「……」


 どうする。どうすればいい。彼女との関係を訴えてもクラスメイトには意味が無い。それは過去に証明済みだ。


 言葉じゃ彼等には届かない。そしてどんな行動も良い様に解釈される。どうすれば――


「佳奈!」

「っ! 何?」

「痛いよ……」


 彼女の腕を掴む私の手は、無意識のうちに強く握ってしまっていた。

 咄嗟に離すも、赤く跡になってしまっている。


「ご、ごめんっ! 沙織ちゃん……!」

「大丈夫……だよ。私は今の佳奈の方が心配……かな」


 心配している相手に心配される始末。

 焦っているのだろうか、私は。

 それよりも今は――


「沙織ちゃん。もし、もしもだよ? 何か、悩みがあるのなら……相談して欲しい」


 直接言うのではなく遠回しに聞く。下手に聞いて関係が悪化するのは避けなければならない。絶対に。


「……大丈夫! それよりさ! 今塚センセーの頼み事、やらなくていいの?」

「っ! ……そう、だね」


 私には、話してくれない。分かってる。分かってるよ。私の為を思って隠していることくらい。


 でも、でもさ。


 私達、親友なんだよ。


 沙織ちゃんが私を大切にしてくれるように、私も沙織ちゃんの力になりたんだよ。

 そんな思いを悶々と抱え、そしてどうすればクラスメイトに分かってもらえるかを考えて過ごした。


 九月二十三日、祝日。三週連続の三連休、二週目。

 今日は日に日に顔を暗くする彼女を家に招いた。


「久しぶりだな〜佳奈の部屋」

「一ヶ月振り、だったかな」


 ジュースの入ったコップを二つ、小さなテーブルに置く。

 少しでも彼女に空元気ではなく、元気になって欲しくて呼んだ……だけではない。


 本当は彼女の、沙織ちゃんの本心を聞きたくて、この場を用意した。


 彼女の隣にそっと座る。

 横目で見た彼女の顔はどこか窶れていた。目元には隈が出来ていて、少し涙跡が残っている。どれだけ空元気で偽ろうと隠せない疲労が見て取れた。


「……沙織ちゃん、最近――寝れてる?」

「えっ……? あ、あはは〜……もうぐっすりだよ!毎日八時間睡眠!」


 嘘だ。


「嘘だ」

「……え?」

「嘘だよ。隈は酷いし、涙跡だってほら」


 指で彼女の目元を撫でる。赤くなっているそこに触れると、「んぅ」っと痒そうな声を上げた。


 理由なんて分かり切っている。

 日々加速する陰口の遍満。それは最早陰口の域を出ていた。


「なんでもな――」

「なくないよっ!!」

「……なくないんだよ……沙織ちゃん」


 誤魔化し、偽物の笑顔で取り繕う。そんなのを見過ごせる親友じゃない。

 過去の私はこんな彼女を気付いてあげられなかったことを心底後悔し、そして繰り返さないと誓う。


 そうだ、一歩でもいい。踏み出してみせろ、柊佳奈。


「ねぇ、沙織ちゃん。お願い、私を頼って……? 分かってるよ、親友だもん。私達」

「……でも」

「沙織ちゃん!」


 ギュッと抱きしめる。心做しか彼女が、痩せたように感じる。理由は察せるが。


「いいんだよ、ここには私と沙織ちゃんだけ。沙織ちゃんを傷付ける人なんてどこにも……いないから」


 突然の事でだらんと下げていた彼女の両腕は、私に体重を掛けるように上半身に添えられていた。


「ぅ……うぅ……か……なぁ……」


 私の胸元に顔を埋め、私の名前を呟きながら咽び泣く。そんな彼女の頭を、いつも彼女がしてくれているように撫でる。


「くらすの……みんなのめがだんだんこわくなって……かげぐちがきこえてきて……!」

「うん、うん」

「わたしはかなとぉ! ……いっしょにいたいだけなのに……」


「私も、沙織ちゃんと一緒にいたい」


 大丈夫だよと宥め、離すまいと強く抱きしめる。

 護らなくてはならない。彼女を。梔子沙織という一人の女の子を。


 どんなに快活に笑おうと、どんなに私を照らしてくれた光だろうと。


 一人の女の子なのだ。心無き言葉を吐かれれば傷付き、親友から引き離されれば落ち込みもする。


 そんな彼女を、誰が見捨てられようか。


 過去の私は自分可愛さに、醜くも突き放してしまった。

 今度こそ、もう失敗はしない。


 九月二十八日。私と彼女の関係をクラスに、学校に知らしめてやる。


「……すぅ……すぅ」

「沙織ちゃん……? 寝ちゃった?」


 寝不足か、泣き疲れか、彼女は私の胸で寝入ってしまった。

 そんな彼女をベッドに寝かせ、その隣で私も静かに眠るのだった。

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