Spin-off  2 (……の雲の下)

見返お吉

第1話  振り払っても

         振り払っても、振り払っても 


アパートで紅一点の粕谷さんが、東京を離れ実家に戻ることになった。アパートのみんなで送別会を開くことにした。

 相変わらずおれたちの店は、目白の居酒屋ヤングだ。 ホワイトのボトルを取り出して、神林君と山本さんとヒロは、粕谷さんを囲んで「東京を離れて、静岡に行っても近いから時々は上京して下さい。 その時は、是非声をかけてください」って別れを惜しんだ。水割りが二杯、三杯と進んでくると、粕谷さんがしみじみと言いだした。

「この年になって、実家に引き戻されるなんて辛いわよ・・」

「実家のお母さんの、体調が思わしくないから仕方ないですよ・・」

 神林君が気を遣って言うと、みんなで粕谷さんの顔を見た。彼女の顔が微妙に揺れた。 その表情を横目で見て山本さんが。

「本当は違うんですか?」

「母の体調が悪いなんてのは、私を引き戻すための方便よ・・」

 そういうと、唐揚げをつまんでほおばった。 口の中をもぐもぐさせながら。

「本当の意味は、私を結婚させたいのよ・・そして跡を継がせたいわけよ」

「お茶作りですか」

「そう・・前から婿をとって家業を継げってうるさいのよ」

 山本さんが、顔を突き出して。

「だってこのご時世、お茶の畑やるなんて奇特な人なかなかいないでしょう」

「だけど・・いたのよ・・その奇特な人が・・父はその人をえらい気に入って・・何とかしようとしている訳よ」

「先祖伝来のお茶畑をとるか、粕谷さんの未来をとるかですか。人生の決断だなぁー」

 ヒロにとっては、まだまだ遠くの出来事のようで、全く実感がわかない。すると、グラスを持ち上げながら神林君が。

「自分の未来を、家業とか伝統とかで好き勝手に線を引かれるのって、辛いですよねー」

 すごく真剣な顔して神林君が言うもんだから、粕谷さんが。

「神林君にも何かあったの?」

 はじめ言いにくそうだったけど、彼は水割りをひとくち口に含むと、ごくりと飲み込んで。

「ええ・・最近、姉貴が僕の所を尋ねてきたんですが・・その時が衝撃的だんたんですよ」

 みんな真剣な顔でグラスを置くと耳を傾けた。

「姉貴が言うには『好きな人ができて、結婚したい』ということなんですが、家族の反対で、できないということなんですよ」

 まだ事情も聞いていないのに、浅はかにもヒロが。

「相思相愛ならどんな反対があっても結婚すべきじゃないの・・」

「・・多少の問題があっても、時が解決するんじゃないの・・ほら、よくテレビで反対をおしきって結婚して・・はじめは疎遠だった親戚や親も・・孫が産まれて過去のことは水に流して元のように改善したって事があるじゃん」

 全く、世間で一般に話題になっているようなことを軽率にも言ってしまった。 ヒロの発言など意に介さずに、神林君がさらに深刻な顔をして

「そんなことで解決するような簡単な問題じゃないんだよ」

 疑問はさらに深まって、三人の顔がもっと難しいものに変わっていった。

「実は、昔からおれの街にある差別の問題なんですよ・・かつてのようなあからさまな村社会ではないんですが、今は表だって差別的なことを言う人もいないし、表面上は普通の社会生活をおくっています」

「しかし、目に見えないところに嫌な因習が未だに残っているんです・・その因習が目に見えないところで・・しがらみのようにへばりついてくるんです・・」

「姉貴の彼氏は、その歴史的に差別されてきた人たちの地域の出身です。 もし姉貴が彼と結婚したら、おれの家族や親戚が、地域から見られる目が変わってしまうんです。 そして、おれ自身のことで言うと地元での就職も、ものすごく困難になるって言うんです。 だから親戚一同ものすごく反対なんです」

 ヒロは、今まで生きてきて、こんな社会の様子や暮らしがあることすら考えたことも無く、身近に聞いたことも無かった。 そして「村社会」や「村八分」、こんな不条理な人間関係のどろどろした関わりを経験したことがなかった。 ヒロは、頭の中に新たな空間にどす黒い差別という泥のようなかたまりが無理矢理割り込んできたようで、不快感が体中にはしり、拳が汗ばみ、感情が攻撃的になってきた。

 山本さんも粕谷さんも、ものすごく怒りに満ちて酒を一気に飲み干した。

「姉は、親戚一同家族全員のことを考えて、いたたまれない状況に追い込まれて・・彼と絶望的なことまで考えたようです」

「でも、絶望的な結果になったとしても、二人が愛し合ったという事実は、変わらないから親戚や家族に与える影響も残るわけで・・」

 行くも地獄、戻るも地獄のどうにもできないこの重い話は、ものすごく暗い気持ちさせられた。

 巷で咲く、華やかな文化に一喜一憂している日本の若者達のすぐ側で、こんな事件が起こっていることを思うと、とても同じ世界に住んでいることが信じられないような気がしてきた。

 ヒロたちは、神林君がとても辛そうで、その後のそれ以上、お姉さんの事は聞かないようにして・・沈黙が続いた。

 山本さんがグラスに新しい水割りを作って。

「僕の住んでいた大阪にも、どこかそんなようなことが残っていて、小さい頃から肌で感じていたところがあるんだけど、人が多かったことと出入りが激しかったから、あんまり深く考えたことがなかったよ・・でもこの社会にはあることは事実だね」

 粕谷さんが。

「私の住む静岡でも、つい十年くらい前に差別に関する事件があって、裁判になったからけっこう身近に考えてきたことだけど、神林君の話はものすごい切実だよね、私がお姉さんだったら、彼氏と心中するかもね・・だってそうでもしないと、自分が生きてきて正しいことをした証を残せないじゃない」

「でも死んだら、いくら証を残せても何もなかったことと同じじゃないですか」

 ヒロは死ぬことは負けなんじゃないかと、何がどうなったって言えないけどそう思った。

「証とか葬り去られることとかは、死後に起こることで、生きている最後の時に自分がどう思って死ねるかが大事なような気がするなぁー」

「でも、死んでこの問題が解決するわけじゃないから、せめて自分の死の直前までは、自分の意志で生きていたんだって、と思いたいのよ」

 みんなすごく納得したようになったが、目の前の因習は一ミリたりとも動かない。

「だから、このことをいくら考えても、歴史が変わり、地域のみんなが変わらなきゃできないことだ。 そしてそれを考えると、その都度、自分はどうするかを突きつけらていて・・逃げてはだめだけど、少しも動かぬ岩を目の前に、身も心も疲れたっていうか、この辛さは時間ととともに、もっと厳しくなるのかもしれない。」

 ヒロは先の見えない状況にものすごく辛くなって、そして、落ち着きが無くなってやたらおなかが空いてきた。目の合った店員さんに思わずほっけ焼きを注文すると・・せわしげにみんなのグラスに水割りを満たした。 そして戻せない、場の雰囲気を少しでも明るくしようとした・・。

 そして、粕谷さんの東京への未練についての話題に切り変えた・・すると顔を上げた粕谷さんが。

「私は、スタイリストとして、やりたいことがまだあるのよ・・ただ、このまま自分のやりたいこと続けて・・その先に何があるのかって考えたとき・・ふっと自分自身に疑問がわいてきたの」

 粕谷さんは水割りをごくりと飲むと。

「人は、自分勝手に生きられたら、それはそれで幸せよ・・。 でも、自分勝手に生きられない人生って、だから不幸せとは限らない・・とも思えるようになったのよ・・」

 山本さんがなぜかうなずいていた。

「私の場合、そこに一生をかけられるものが開けているのよ・・おいしい日本一のお茶を作るのだって、人生をかける価値があるんじゃないかって思えてきてね」

 何だか、とても納得して、胸にしみて、曇っていたものがさっと消えたような気がした。

 いつも見えないところで因習や伝統のしがらみはある。 人がそれに気づいたとき常にすごい圧力で苦しみを与えてくる。 そして因習に囲まれてしまうと、人は悪いと分かっていてもやってしまう弱い生き物だ。 怒りの拳だけではどうにもならない。 でもヒロは、拳を下ろしたら、世界一だめな人間になってしまうような気がしてさらに強く拳を握った。

神林君がグラスを音をたてて置くと、

「粕谷さん、自分の納得したとおりのお茶作りを頑張ってください・・自分が賭けられるものを見つけられたことがすごいと思います・・姉は、泣きながら全てをあきらめてしまいました・・そして今、抜け殻のようになっています」

「・・僕は自分で決めたことだから・・そりゃものすごく、みんなのことを考えて、身体がちぎれるような痛みのあった決断だったと思います・・。 だけど自分が選択したことだから、はやく、また新しい自分を見つけて、そしてもっと姉らしく生きてほしいと思っているんです」

ヒロと山本さんは、神林君の一言に、水割りを一気に飲んでしまった。粕谷さんは目を伏せて聞いていた。目尻がかすかに光っていた。

 山本さんが空になったボトルを持ち上げてぞんざいに。

「もう一本・・」

 大きな声で注文した。荒々しい声は(神林君のお姉さんも彼も、歴史のしがらみに翻弄された被害者なのだ。どうしてしがらみが人の人生や、家族の将来を左右できるのか。)という山本さんの心の響きとなってみんなに聞こえてきた。

 そんな中で神林君の描く微かな希望のだけが、光となっていく。

 何かを思い出した粕谷さんが。

「わたしね、アフリカに行ったとき思ったの・・あの人達を神が、産まれる前に日本やヨーロッパやアフリカなんかに振り分けてしまっただけ。 もし別の所で産まれいたら、今とは全く違う環境で育ったわけでしょう。 ・・たまたまわたしは日本、彼らはアフリカだったのよ。 神の手にあったときは、同じだったはずだけど・・でも地上に降り立ったときに違いができちゃったの。 ・・その違いは人間が作ったものだけどね。」

「アフリカで生まれ育ってきた彼らは、いつも自分達が不幸だなんて思っていなかった・・だから、わたしが感じている不幸は贅沢。 いや奢りかもって思っているところもあるんだ」

 粕谷さんの言葉は、ヒロの心からかけ離れていて、うまく飲み込めなかったけど、でもその言葉がもつ厚みと重さが感じられ、なんだかちょっとすっきりしたような気がした。

「わたし、あの時・・アフリカの子ども達と一緒にいたとき、自分が不幸だと一度も思わなかったし、日本の人たちが幸せだとも思わなかったわ」

 山本さんがスルメの足をかじりながら

「そうだよな・・そんなこと考えて仕事している日本人っていないよな・・給与が高いとか安いとかは言うけど、仕事が幸せかどうかは考えていないよな・・」

 給与が高い仕事が幸せな仕事か。 ・・幸せな仕事をすると給与が高いのか。どっちも違う。幸せはお金と違う。 お金が全ての価値観じゃ無い。 でも人間は生きていかなくてはならない。

 ヒロはどこまでも続く不毛の大地に立っているようで、風に吹かれ、どこへ向かったら街の明かりが見えるところに行き着けるのか、混沌とした夜空を見上げていた。

 三日後、粕谷さんは日焼けしたお父さんの車に荷物を積み込んで、また明日帰ってくるからみたいな雰囲気で引っ越して行った。

 口数の少ないお父さんは、頑固一徹のように映って、作るお茶はこだわりの強いお茶なんだろうと想像できた。

 それから数日後、池原君というW大の学生が越してきた。 彼は沖縄出身で、すごく素朴で独特のイントネーションで話す、とてもゆったりした優しい人だった。

 本土復帰してそれほど時間が経過してない彼にはとても興味があった。 そして、彼がW大に入学したことは池原家にとっても、沖縄にとっても、ものすごく意義あることなんだと思った。 でも当の本人はそんなことおくびにも出さず黙々と大学での勉強に励んでいるようだった。 去る人あれば来る人ある。 東京のめまぐるしさが今の日本なのかもしれないと思った。



         💘 人混みの中で 晩秋   


 十一月も下旬、巷の気の早い店ではクリスマスのイルミネーションが点灯し、北海道や東北の山沿いでは、初雪のたよりがテレビを占領していた。

 ヒロとかおるちゃんは、新宿南口にある喫茶店で、待ち合わせをした。 珈琲は魔法の壺のような銅の器に入っていて、熱いので小さな手布団がついている。 小さなデミタスカップでいただく、ちょっとおしゃれな気持ちになれる。

 ヒロが二杯目を飲もうと魔法の壺を持ち上げたら、入り口のスリガラスのドアが開いた。

 細めの白のデニムに、えんじのトレーナー、その上をPコートで包んだかおるちゃんが、いち早くヒロを見つけて片手を挙げた。 彼女は右の頬にえくぼをつけて、にこにこしながら席に腰掛けた。

 ヒロは、このえくぼがきげんがいいときにあらわれること知っている。

「ピアノのテストどうだった?」

 彼女は口に手を当てて、ちょっと言いずらそうにしながら

 「練習不足で緊張しっぱなしよー・・でも途中からね・えーい・どうにでもなれーって思ったら、けっこううまくいったわよ」

「かおるちゃんでも、緊張するんだ」

「そりゃ、するわよ・・」

「でも、ほら得意の合気道の呼吸法でなんとかして、無の境地なんかに入って」

「あれとこれとはべ・つ・も・の」

「そんなもんかなぁ・・まあ、うまくいったんなら、そりゃ良かった、まずはご苦労さん」

 笑顔の二人は、とりあえずお冷やで乾杯した。

 彼女はミルクティーをたのんで、ヒロは、デミタスの珈琲をちびちび飲みながら、これから観る映画のことを話し出した。

 「何たって『卒業』よ。あの時バックで流れていた『Mrs.Robinson』が感動的だよね・・」

「そーよね、あの曲って、はやく、はやくって叫びたくなるわよね・・」

「『ベーン』って叫んだキャサリン・ロスの表情がとても好きよ・・迷って・・すべての音が聞こえなくなって、心を無にして叫んだあのシーンには感動したわ」

「これから観る映画でも、やはりダスティン・フォフマンは味のある演技をするわよね・・興味あるわ」

「今日は、男と女じゃなくて、男同士の友情だけど、かおるちゃん・・つまんなくないかなぁ」

「ジョン・ボイドとホフマンがどんな掛け合いをするのか、とても楽しみよ・・興味あるわ・・」

 上映の時間が迫ってきた。喫茶店を出ると、足早に新宿コマの方へ向かった。

 靖国通りに出て、信号待ちをしていると、ライトグリーンのコートを着た五・六歳の小さな女の子が一生懸命に歩いてきた。 女の子は靴の中で足が遊んでいる、足に合わない靴を引きずるようにしながら、二人の前を通り過ぎて、道の段差につまづいて転んだ。 もぞもぞしてすぐに起き上がれない子に、声をかけて起こした。

「大丈夫・・痛いとこない・・」

膝と手をすりむいて赤くなっている。 かおるちゃんがハンカチで血のにじんだ膝と手を押さえながら、顔にも怪我ないか見た・・。 唇のわきにチョコがついている。 まわりを確かめるも関係する人間は皆無だ。

「お母さんは・・? お父さんは・・?」

 訪ねても、その子は何も話さない・・よく見ると、斜視の目の片方でこちらを見ている、どこか障害がある子のように見える。 この子をこのままにできないことは確かだ。

 二人は顔を見合わせて、ここにいればこの子の両親か誰かが追いかけて来るはずだ、そしてその子と一緒に道の端っこで待つことにした。

「お名前は?」

「うーうー・・んー」

 口を、もにょもにょしているだけで・・でもかおるちゃんは、しゃがんで合わせずらい目線をそれでも一所懸命に合わせると、答えをじーっと待っている。

「んー、んー・・まみぃゃけゃさんです・・」

「まみさんですか?」反応がない。 「みきさんですか?」また反応がない。 「まきさんですか?」また反応がない。

「みかさんですか?」

「んー・・まみぃゃきゃさんです。・・」

「そうか・・みかさんですね・・」

 少し笑い顔を作って、首が微かに振られた。 ヒロはそのやりとりの様子をじっと見ていた。 女の子の言葉を理解するのはかなり難しくて、ヒロにはよく分からなかった。

「みかさん、お母さんはどこ?」

「いる」

 女の子は、手をぶらぶらさせながら上半身を左右にひねりながら落ち着きがない。

「どこにいるの?」

「いる」

 今度は女の子は、手を口に入れると、よだれで手がぬれた。

「おかいもの?」

「・・・・ん・・ん・・」

「ケーキ食べたの?」

 女の子は、手を口から抜くと、よだれが尾を引いた。

「たべぇた」

 かおるちゃんがヒロを振り向くと、

「近くのケーキ屋さんだー」

 ヒロは、それまでみかちゃんとかおるちゃんのやり取りをじっとみていたが、かおるちゃんの声で急にはじかれたように、周りをきょろきょろすると、どちらに向かったらいいのか迷ったあげく、とりあえず周りのケーキ屋さんを探しに、みかちゃんの歩いてきた方に向かって思いっきり走った。

 喫茶店やそれとおぼしき店の前を見た。 その近くの人混みの中に、誰かを探しているような人がいないか見回した。 何だか体がすごく熱くなって、大声で二度・三度と叫んだ。

「みかさんのお母さんはいますかー、みかさんのお母さんはいますかー」

 また別の店の前に走った。 また大声で叫んだ、叫ぶ度に人混みの中に、ヒロを中心とした渦ができて、周りの人がはじかれたように遠ざかった。 ヒロはできた都会の隙間を見回して体がさらに熱くなった。 次の角を曲がった所にある店の前で、さらに大きな声を出した。

「みかさんのお母さんはいますかー、みかさんの・・みかさんのお母さんはいますかー」

 また大声で渦ができ都会に小さな隙間ができた。 そして、できた空間にいつかの地下道で出会った、ごろごろしていた路上生活者の歯の抜けた老人が取り残されていた。 ぼろぼろの老人は持っていた杖で次の角を指示した。

 そして、ヒロは何の疑いもなく、操られるようにその方向に走り出した。 四件目のしゃれた喫茶店の前で呆然として通りのあっちこっちに、焦点の合わない目をはわせている女性を発見した。 そして彼女が大声を出しているヒロに駈け寄ってきた。

「みかさんのお母さんですか?」

 声にならない声を吐いて首を何度も縦に振りながら、すがりつくように。

「みかは?・・みかは?・・みかはどこですか?」

 掴みかからんばかりに、腕を押さえられた。

「みかさんのお母さんですね・・こっちにいます・・こっちです」

 お母さんを連れて、さっきの交差点までもどると、かおるちゃんとみかちゃんは手をつないで立っていた。 みかちゃんは何だか安心したような顔で、かおるちゃんを見上げていた。

 おかあさんは、みかちゃんを見つけると、名前を呼びながら小走りに近づいて抱きしめた。みかちゃんもお母さんの腕の中で「うーうー・・」って言ってにこにこしていた。

 みかちゃんは、お母さんの涙も、そしてこのことが自分を襲ったレベル四の危機だったことなども、全く何も無かったかのように・・たぶんいつものみかちゃんにもどって、お母さんと手をつないでぶらぶらしてアスファルトの隙間に生えた草を踏みながら遊んでいた。

「あ、あ、ありがとうございました、お会計している間に、見えなくなって・・」

 お母さんの目から光るものが溢れ出ていた。かおるちゃんも泣いていた・・ヒロも何だか溢れ出てくる涙を止められなくて、何度も手のひらで頬を押さえた。

 みかちゃんが、

「ぶーした、くさい、くさい」

 ヒロが

「くさいよー」

「ふひふひふひゃー・・」

 みかちゃんが笑った。 お母さんはみかちゃんに顔を向けると優しく笑った。 お母さんは、おこることも無く、手を引いていつものように見える姿で、ヒロたちを何度も振り返って、何度も頭を下げて、駅の方へ向かって行った。

 その場に取り残されたヒロとかおるちゃんは、ちょっとの間の出来事で胸が熱くなって、すごく晴れ晴れとした幸せな気持ちになった。 ヒロは心の中で(ありがとう路上生活者諸君)と礼を言った。 映画のことなんか忘れていた・・急に自分たちは何でここにいたのか思い起こさなければならなかった、信号を渡る人混みに飲まれて大きな通りを渡った。

寒々としたニューヨークの街で、カウボーイハットをかぶり壁にもたれた都会に疲れたジョン・ボイドと短くなった煙草をくわえた都会に生きるネズミのような顔をしたダスティン・フォフマンが描かれた『真夜中のカーボーイ』の大きなポスターが目の前にあった。

 上映が始まったばかりだ。 暗い館内は八割ほど席は埋まっていたが、端っこに二つの空席を見つけて腰を下ろした。 軽快なリズムに乗ってジョン・ボイドがバスから見る都会の風景が流れている・・・・。

※ 『真夜中のカーボーイ』のストーリー

 男性的魅力で富と名声を手に入れようと、テキサスからニューヨークに出てきた青年ジョー(ジョン・ボイド)が娼婦に騙されてしまう。 そして。スラム街に住むびっこの小男、ラッツォ(ダスティン・フォフマン)に出会う。 彼は売春の斡旋をして、ジョーはまた騙される。 ジョーは、ラッツォを探し出して問い詰める。 すでに金のないラッツォとジョーは不思議な共同生活をして、やがて友情が芽生えてくる。 暖房もないニューヨークの生活。 ラッツォは温暖なフロリダを夢見る。 ジョーは客を騙して金を手に入れ、二人で長距離バスに乗りフロリダをめざす。

 今日はいつもより涙腺がゆるい。目尻からこぼれる涙をしょっちゅう手のひらで拭いた。上映が終わって、明るくなるのが怖かった。何人かの人が、エンディングのスクリーンの前を足早に横切っていく。

 涙目のヒロは直ぐに席をたてず、エンディングロールが終わるぎりぎりまで、涙のお色直しをした。 かおるちゃんの横顔をみると涙をこらえているようだった。

 映画館を出ると、街には薄暗がりと肌寒さが広がっていた。 まだ涙目のヒロは余韻をかみしめて口数が少なくなった。 なぜか口を開くとその開いた口から、白い息と一緒に感動のかけらが空中に放出され、消えていきそうだからだ。

 かおるちゃんが両手を挙げて、大きく身体を反らして背伸びをした。

「お腹空いた・・」

 横顔をみると、ちょっと目が光っていて、うるうるしていた。

 二人は吸い込まれるように小さなカレー屋さんに入った。

「わたし・・ダスティン・フォフマンがバスの中で息をしなくなったとき・・たまらなっかた」

 かおるちゃんは、話しながらまた目がうるんできた。 ヒロもあのシーンが目に浮かんで涙のダムがいっぱいになっていった。

 二人でカレーを夢中で食べた。 途中、二人はお互いよく出る涙に笑った。

 店を出ると、新宿の喧噪は宵の口を前にさらに増して、味わった心がどこか削られるようで、はやくこの場から立ち去りたかった。

 地下道にはいると駅に向かった。

「どうする、送っていく・・」

 彼女は一瞬立ち止まって向き直った、そしてゆっくりと。

「今日は・・このまま帰りたくなーい・・、だってあの嫌だったテストも終わったし、映画も観たし、すごい出来事に出会ったしさ、なんか呑みたいなー・・どこか連れっててよー・・」

 ヒロは、そんなかおるちゃんの言葉を見つめながら、反芻すると目白の居酒屋ヤングを目指すことにした。

「よし・・『じゃ行きつけの』なんて言えないけど、僕の知っている店に行こう・・」

 二人は、山手線に揺られて七分、目白のヤングに着いた。半地下の店のドアを開けて、中にはいると結構混んでいた。中二階の奥まった席に収まった。

「ここはね・・アパートの人たちとよく来る店なんだ」

 かおるちゃんは、壁にくっきりと残したコテのなぜた跡を見回しながら。

「へー・・アパートの人達と仲良いんだ」

「そうー結構、飲むことも多いんだ・・今夜は特別だから・・この店で呑みたいと思ってさ」

 ボトルを出してもらおうとすると。

「乾杯はビールでしたいなぁー」とリクエストがでた。

「ピアノのテスト終了ご苦労様」

 するとかおるちゃんが返し言葉のように。

「映画の男の友情に・・乾杯」

 二人のグラスの白い泡が唇についた。手のひらで拭うと・・。

「みかちゃんが無事だったことに」

「乾杯・・」

 また、グラスを持ち上げる二人、話題は、なんでも良かった。

「ニューヨークの街っていいよねー、田舎者のカウボーイにはさびしかったかもね」

「あの街ってビルだらけだけど、朽ち葉色の煉瓦の冷たい街って気がしないよね・・」

「お金持ちも貧乏人もどんな人種の人も、溶けてこんで景色の一つよね」

「日常の中では、それぞれが様々な生き方をしているんだろうけど、やはり自分が一番大切って感じだね」

 かおるちゃんが、口になすの漬け物を放り込む。 ヒロは、心地よい氷の音をさせながらグラスを傾けた。

「そんな街だから、田舎者で、ある意味純粋なの騙されジョーと、貧しい嘘つきでびっこのラッツォの出会いが、ものすごく際立っていたわよね」

 かおるちゃんがグラスを持ち上げると、グラスに顔を近づけて空かすように琥珀色のウィスキーを眺めた。

「二人のした事って犯罪に近いけどさ・・結果的にはその上を行く現実があったのよね」

「あの現実って、時代が産んだものだよね」

「あんな街だからこそ、信じることのできる誰かが居ることが生きる支えになるんだよな」

「だから、破壊と貧しさが忍び寄る中で、灯火のようなラッツォとジョーの友情がすさんだ社会の中で輝きを増すんだよね・・」

 二人は次から次とくり出す言葉を味わいながら、ちょっとしんみりした。 そして気分を変えるようにヒロが言い出した。

「かおるちゃん、どうしてみかちゃんの母さんが、ケーキ屋さんにいるって分かったの?」

「だって、みかちゃんの口にチョコレートがついていたんだもの・・」

「なるほど・・おれは何も分からずに、かおるちゃんが『ケーキ屋』っていったから」

「訳分からずに・・どうして?・・と思いながら走ったよ」

「しかし、ヒロポン、よく見つけたわね・・」

「人混みで叫んだよ・・・・大きな声で」

「よく大きな声だしたわよね・・」

「なんだか、今恥ずかしくなったよ・・忘れてたのに・・」

「ごめん、ごめん・・じゃ君の勇気に乾杯」

「ちょっと待って・・実はね、お母さんを探している時」

 ヒロは、路上生活者とのかつての出会いと、あの時現れて神の杖で指示してくれた歯抜けの老人の話をした・・。 かおるちゃんは珍しいものでも見るように、ヒロを見つめ直して聞いていた。 そして、座り直すと。

「君の日頃の行いが、君を助けたのよ・・でも、彼はどうしてわたしたちの事情を分かったんだろうね・・・・それに、ヒロポンもヒロポンでよくその指示棒を信じたね」

「でも、あの時はそれに従うことが最善のようで全く疑わなかったよ、そして、結果的に見つけることができたんだから・・良かったよ・・信じる者は救われるってね」

「まっ、いいっか・・神様って言うか偶然って言うか・・不思議だよね。 まあーいいっか神の棒に乾杯」

 今度は静かにグラスを会わせた。 そして、かおるちゃんは乾杯したグラスにおでこをあてて、ちょっと考えてから・・。

「わたし、みかちゃんのお母さんの気持ち分かるような気がするな。」

「お母さんには、傷害のある子を産んだ辛さと、さらにその子を迷子にさせてしまった責任の二つが、大きく重くのしかかっていたんだと思うの」

 ヒロには分からなかった、女性の苦しみや性(さが)というものに、触れたような気がした。 そして言葉を噛みしめて、しみじみ話すかおるちゃんがとても大人に見えた。

「それにお母さん、みかちゃんが見つかっても、一度も叱らなかったよね、みかちゃんの全てを受け止めてるのよねー・・」

 ヒロは、なぜだか胸が熱くなってきた・・。 女のもつ暖かさはとても深くて、広くて、柔らかくて、そして敏感で、とても男が全てを感じ取ることができるものでは無い。

 ヒロの脳裏には、なぜか田舎のお袋の顔が浮かんできた。



           透き通る夜空 


 遅くなって、ヤングを出ると、二人ともちょっとふらふらしていた。かおるちゃんの手がヒロの手を探した。つないだ彼女の手は冷たかった。

 遅くまでやっている店で、ちょとした物を買った。

 路地に入り街灯の少なくなった道では、夜空の星がすぐそこにあるかのように輝いていた。

「かおるちゃんって、思いっきりがいいよね・・」

「どうして?」

「だってさ、横浜の時も今日も・・何か急にスイッチが入るよね」

 二人は立ち止まって満天の夜空を見上げた、輝く星の間を光が点滅して行く。

「そうかなぁー、いつものわたしよー」

「ぼくはさー・・素直にそうできることがすごいと思うよー・・」

「じゃ・・これからもっと変なことするかもしれないぞー・・」

「うーん、大丈夫・・変じゃないって思えるからさ」

 かおるちゃんが星空を見上げたまま。

「ねぇーあれって、何だろう・・」

「ううん・・どれ・・どれ」

 瞬く宇宙を移動する光の輝きは美しかった。 そのきらめく光の間を縫う輝きも宇宙の奥へと続く透き通った夜空に個性的だった。

「そう、あいつは、いつか偉大な星のように輝きたいと願っているのさ・・だから落ちないように一生懸命飛び続けているんだよ」

「みかちゃんも、僕たちもいつか星のように美しく輝きたいと思っていのかもね」

「僕は今日、新しい言葉を覚えてしまったよー・・まず・・『いるー』と『たべぇたー』と『くさいー』をね」

「そうそう・・新しい言葉だね・・温かい響きだったわよねー」

「今日も僕は、飛び続けました」

 気持ちのいい風、静かに吹く中を、もたれ合って歩いた。道がさらに暗くなるとかおるちゃんがぴったり腕をからめてきた。踏み出すたんびにやわらい胸が当たって、髪のいいにおいがヒロを包んだ。

 庭木が伸びている狭い路地を曲がった。頼りない乳白色の街頭が足下にぼやけた影をつくる。淡い光が二人を映し出したとき、ヒロはかおるちゃんを抱きしめた。

 心臓がどきどきした、しっかり彼女を支えて、飛び出しそうな心臓を押さえて、唇を重ねた。 そして長い時間が過ぎたように思った。 ほんの数秒だったのかもしれない。

 かおるちゃんのうっとりとした目と出合った。 ヒロはもう一度強く抱きしめた。

 部屋に着くと、かおるちゃんはベッドに腰掛けて、グラスにコーラを注ぐと一気に飲み干した。 「うまい」ヒロも飲み干した、本当にうまかった。

「ねえー、Gパンでいるの辛いんだけど、ジャージない?」

 ヒロは、持っている中で比較的清潔で、立派なジャージとTシャツをベッドに端に置いた。

 かおるちゃんは、ジャージとTシャツを広げて見ていた、

 「ふーん、見た目より大きいんだ、やっぱり男ね」

 そして、ジャージを取り上げると、突然明かりが消えた。

 暗がりに中で、さっとその場でデニムのパンツを脱ぐとあっさりとジャージに着替えた、Tシャツもあっという間に着替えてしまった。

 ヒロは、その姿が真っ暗な中で、窓越しに忍び込んでくる淡い明かりのためか、本物かどうかが分からない。

 しかし、彼女のシルエットを反転させた、影はスローモーションで動く細身でぴんと伸びた爪先が、まるで映画で観るシルエットのようだ。 この部屋には似合わない違う空間がつくりだされた。 長い時間だったのか、短い時間だったのか。

「こらーっ・・何見とれてんのよー・・明かりつけて」

 長かったような暗がりが終わると、蛍光灯がチカチカチカっとステップを踏んで現実が現れた。彼女はベットに胡座をかいた。

「こら・・ヒロポン・・よだれが出てるぞー」

 慌てて口の周りに手をやる。

「だって、だってまさかって思うじゃん、びっくりしたよーもう」

「じゃ、今度は僕がパジャマになるよ・・はい、明かり消して」

 ヒロはジーパンを脱ぐと、パジャマを手に取った。

「はい、そこまで」

 そして、明かりがついた。なんでなんでと思っていたら。

「男は、男らしく・・」

 ニタニタしながらかおるちゃんがヒロのパンツ姿を見ている。

「ずるいじゃん・・」

「君は、かつてわたしのお尻ちゃんを見たんだぞ・・お相子よ」

「ここで復讐するー、まあ減るもんじゃないからなぁ」

「そう男は見られても減らないのー、でも女は減るんだぞー」

 ヒロは、なんだかみかちゃんのお母さんも含めて、女ってすごいって思えて・・男がなんか急に乾いた紙粘土のように軽いものになった。

 二人はビールをあけると、やけにのどが渇いて一気に飲んだ。そして息を「ぷーっ」とはいたときには、彼女はもうすでにヒロのベットに潜り込んで、シーツを口まであげていた。ヒロが押し入れから布団を出そうとすると、ふっと明かりが消えた。

 窓越しに差し込む月明かりの中で彼女が、シーツを持ち上げてヒロの入るスペースを空けて小さく手招きしていた。

「一緒に・・」

 この魔法の言葉で、また別世界の扉が開けた。 ヒロは大きく深呼吸すると、勢いよくベッドに飛び込んだ・・・・。 ヒロもフロリダを目ざした。『真夜中のカーボーイ』のジョーとラッツォのように・・・・。




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Spin-off  2 (……の雲の下) 見返お吉 @h-hiroaki

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