エスポワール

月丘翠

第1話 人生右肩下がり

どうして、俺の人生はこうなったんだろう。

小林夏樹はベッドに寝転び、天井を見上げながら考えていた。

前職を辞めて、もう三か月になる。

そろそろ本気で転職活動をしなければいけないとわかってはいる。

なにより母親の目が、だんだん厳しいものに変わってきているのも感じている。

でも、なんだかやる気がでないのだ。

転職サイトを開いても元々やりたい仕事がないのだから、どう調べて決めたらいいのかもわからない。

ただただサイトを眺めるだけだ。


今日ももう夕暮れだ。

母親がパートから帰ってくる時間が迫っている。

何かしていないと間違いなく怒られる。

夏樹は2階の自室から出て、1階のキッチンへ向かった。

昼食の時使ったコップが置きっぱなしだ。

せめて洗い物くらいはやっておくかと腕まくりをした途端に母が帰ってきた。


「ただいま。・・・洗いものすらしてないの?」

机に置かれたコップを見て、母は静かに言った。

「今からしようかなって思って。ほら、腕まくりしてるだろ?」

つとめて明るく話すも母は無言のまま、キッチンから出ていった。

あれは相当怒っているなとは思ったが、時間が経てばおさまるだろうと、さほど気にせず夏樹は自室へ向かった。


それからしばらくして、父親から「降りてこい」と声がかかった。

父も仕事から帰ってきたらしい。

1階に降りて、リビングに入ると、父と母が並んで座っている。

張り詰めた空気が漂い、父が下を向いてひたすらお茶を啜っている。

母の顔を見ると、眉間に深くしわが刻まれている。

どうやら時間が経っても母の怒りは収まらなかったようだ。


「・・・座りなさい」

母の声に素直に従って、二人の前に座った。

「母さんが言いたいことはわかるわね?」

「あ・・えっとその」

父がさっと湯飲みを持ち上げた瞬間に、ドンっと机を母が叩いた。


「うちは、健康で元気な男を無職のまま養うような余裕はないのよ!」

母の目が怒りで満ちている。


正論過ぎて返す言葉もない。


「そうですよね・・・」

「わかってるなら、なぜ行動しない!?」

「それは・・・その・・」

夏樹が言葉につまっていると、父と目が合う。

父の目が「なんとかしろ」と言っている。

「まぁいいわ。今のご時世納得いく仕事を見つけるのは大変だものね」

母はお茶を啜った。


「なので、母さんが見つけておきました」


「え?何を?」

「あなたの仕事を見つけてきたのよ」

すっと一枚の紙を差し出した。

「これ・・・」

「いいから見なさい」

母の有無を言わせぬ口調に、夏樹は紙を見た。


「・・・芸能事務所?」

「あなたも知ってるでしょう?仁川のおじさん」

「あ、あのおじさん・・・?」


仁川のおじさんとは、夏樹の父親の弟である。

夏樹の父は、気弱で母に逆らったことなど見たことがない。

繊細で大人しいのが父だ。

それに対して仁川のおじさんは、気が強くて、体つきもよく、見た目はやくざのようだ。 ただ仁川のおじさんは親戚づきあいが苦手なのか、祖母の葬式で一度見かけたくらいでよくは知らない。

でも噂だけはよく聞いていて、チンピラに絡まれた同級生を助けるために素手で15人相手に勝ったとか、やくざにスカウトされたことあるとか、本当か嘘かわからないような噂だが、とにかく怖い人という印象だ。

父と仁川のおじさんを足して2で割ったらちょうどよいのにとよく親戚に言われていた。

その仁川のおじさんが関係しているとはきっとロクな話ではない、夏樹はおそるおそる母の次の言葉を待った。


「その会社はおじさんが経営している会社よ。そこでまずはアルバイトとして働かせてもらえるように頼んだのよ。ついでにその怠けきった精神も鍛えてもらえるように頼んだわ」

「そ、そんな、俺だってやりたい仕事が」

「何よ、やりたい仕事って?どこか書類の1枚でも出してるの?」

「そ、それは、まだだけど・・・」

「アルバイトとして最初は採用だけど、問題なければ契約社員、働きぶりによっては正社員してもかまわないそうよ」

「母さん、ちょっと待って」

「ただしダメだと思ったら即クビにするって言われたわ。会社をクビになったら、この家族からもクビになると思ってね」

「いや、だから母さん・・・」

父が湯飲みをひょいと持ち上げた瞬間、母が机をドンと叩いた。


「わかったわね?明日10:00に行くのよ」


父が、はいと言えという顔をしている。

逃げ場はないらしい。

「・・・はい」

そういうと母はにっこり笑って、「就職祝いよ~」とビールを取りに冷蔵庫に向かった。


翌日、会社が入ったビルの前まで夏樹は来た。

ビルのフロアガイドに「エスポワール」と載っている。

まるでフランス料理店のような名前だよな、と思いながら、重い足取りでビルに入った。

これから何が起こるのだろう、夏樹はため息をついた。

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