身代わりの花婿は掌中の珠

笹倉のり

第0話 逃げた花嫁

 妹たちは、無事に逃げ切れただろうか。


 冷たい地面に縛られて転がされた月藍ユェランは、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 妹が月藍ユェランに手伝われて家を抜け出し、街の城壁を超えて駆け落ちをしたのは、今から一刻約2時間前のこと。

 外で待ち構えていた彼女の恋人は馬を連れていたから、少なく見積もっても今頃は街から五百里約20kmは離れているはずだ。

 先ほど事が露見してすぐに追っ手がかかったとて、たやすく追いつける距離ではない。

 それに、妹の恋人は馬の手練れの平原の民だ。妹を連れていても、生温い街暮らしになじんだ者を撒くくらい楽にこなすことだろう。


「おい、月藍ユェランッ! 聞いているのか!」


 そこまで月藍ユェランがつらつらと考えた時、雷鳴のような怒声があたりに轟いた。

 我に返って、月藍ユェランは顔を上げる。深い夜闇の中、松明に照らされた族長の姿が浮かんでいた。神経質なその顔には、満面の怒りがたたえられていて、脇を固める古老たちも似たり寄ったりの表情をしている。

 あまりに予想どおりの面々の様子に、思わず月藍ユェランは笑ってしまった。


「何がおかしい!?」

「いや、失礼しました。族長たちが予想したとおりに反応をしてくださるものですから、つい」

「お前というやつは・・・・・・っ、やはり妹と、月艶ユェヤンと示し合わせていたな!?」


 族長の問いかけに、月藍ユェランは涼しい顔で答えない。

 その態度に、族長の顔が赤を通り越してどす黒く染まる。


「このっ、大馬鹿者がッッ!!」


 族長の怒号が広場に響き渡る。


「十五年も街を挙げて月艶ユェヤンに金と手間を注いで育てた理由はなんだ!? 言ってみろ!」

「盟約の花嫁に選ばれたからでしたね」

「そうだ盟約だ! お前の妹は、あれに聳える玄山シェンシャンの────」


 族長が、振り抜く勢いで己の後方を指し示す。

 灯された松明の向こう。どろりとした夜闇の奥に、月藍ユェランたちを睥睨している。


龍玄ロンシェンの一族との盟約の証たる花嫁なのだぞ!」

「だから何だというのですか」


 口の端から泡を飛ばす族長に、月藍ユェランは冷めた声で返す。


玄山シェンシャンに嫁いだら、間違いなく月艶ユェヤンは幸せになれない。だったら、どうにかしてやりたいと思うのが兄妹の情ってもんでしょうが」


「そのために盟約を破っても良いと? ふざけるな!!」


 ごつごつとした族長の手が、月藍ユェランの襟首を掴み上げる。


「嫁入り直前に駆け落ちだと!? なんてことをしてくれたんだ! 嫁が出せず龍玄ロンシェンの奴らの機嫌を損ねたら、我ら白麓パイルーがどうなるか考えなかったのかっっ!」

「別の娘を用意すればいいじゃないですか」

「婚礼は来月だぞ、教育が間に合わんわ!」

「じゃあ龍玄ロンシェンに理由を説明して、婚礼を日延べにしてもらうとか」

「そんな間抜けた、相手を馬鹿にした真似ができるわけなかろうが────っ!!!」


 族長は力任せに月藍ユェランを揺さぶって、怒声を盛大にぶちまけてくる。

 思いっきり首を締め上げられる形になって、月藍ユェランは顔をしかめた。苦しいと腕を叩いても、族長は止まってくれない。

 昨年先代族長の死によって代替わりしたばかりのこの族長は、少々肝が小さいところがある人物だ。盟約の花嫁の駆け落ちという、想定外のさらに向こうのできごとに直面して我を失うのも無理はない。

 が、混乱で乱れに乱れた感情を、遠慮なしにぶつけてくるのはやめてほしいものだ。

 その想定外の事を起こした犯人である月藍ユェランが言うのもなんだが、一族の頂点に立つ者が簡単に取り乱すのはいかがなものか。

 こういう時こそ落ち着かなければならないのに、と月藍ユェランは揺さぶられながらため息を吐く。


「まあまあ、長殿。どうかそのくらいで」


 それを見咎めた族長の顔色が、殺気をまとっていっそう不穏な色になりつつあった時だった。

 古老の中の、最も年長な老人が、おっとりとした調子で族長を制止をした。


「落ち着きなされよ。そんなに絞めたら、月藍ユェランが死んでしまいます」


「だが、こいつが花嫁を逃がしたのだぞ!?」


「だからとここでこやつを絞め殺したとて、月艶ユェヤンは戻ってまいりませんよ?」


 ぐ、と族長の喉が鳴って、月藍ユェランの襟を掴む手が緩んだ。

 そうしてふたたび地面に月藍ユェランが倒れ込んだのを見てから、老人はゆっくりとした足取りで族長の前に進み出る。

 横を通り抜けざま、老人が月藍ユェランをちらりと見下ろしてきた。

 老人の目と、目が合う。老人の眼差しは柔らかく、どこまでもおだやかだ。

 こんな時にも変わらないそれに、月藍ユェランの背筋がぞくりと粟立つ。

 老人はふっと微笑みかけて通り過ぎると、そのまま族長の側に立った。


「不届きを働いた者には、きちんと責任を取らせなければなりませぬ」


「責任だと? 賠償として財産でも差し出させろというのか?」


「いいえ。これの家の持つ財産程度でどうこうなる話でもないのは、族長もおわかりでしょう」


 そう言って、老人はその手の杖で月藍ユェランを示す。


「目には目を、歯には歯を────古来より伝わる法に従うのです」


「……つまり?」


月藍ユェランに、妹の代わりの花嫁を差し出させましょう」


 老人の言葉を聞いた途端、族長が目を丸くしてぽかんとした。

 見守っていた他の者も、地面に転がる月藍ユェランも、族長にならって老人を見つめる。

 ややあって、族長が困惑したように老人に問いかけた。


「のう、それはちと無理ではないか? こいつの家に、もう未婚の娘はおらぬが……」


 なあ、と視線で族長に問われ、月藍ユェランはためらいつつ頷く。

 月藍ユェランの兄弟は、月藍ユェラン自身と妹を含めて五人ばかり。姉は三人いるが、皆すでに夫を持っており、甥や姪も幾人か産んでいる。

 代わりの花嫁として立てるには、三人とも不適格と言わざるをえない。

 しかし老人は気にした様子もなく、白い顎鬚あごひげをしごいて笑う。


「ええ、存じておりますとも。ですからねえ」


 老人は戸惑う族長から、月藍ユェランに目を移す。

 そうして、目尻の皺をさらに深くして、老人は言う。


「─────月藍ユェラン、お前が花嫁になりなさい」

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