第8話 龍玄の秘密

「嘘だろ……!?」


 驚きのあまりに出た声が腰に響く。

 目の端に痛みによる涙を浮かべた月藍ユェランに、秀鶯シゥインと名乗った男はからから笑い声を上げた。


「驚きすぎだぞ」

「も、申し訳ない。だが、私の先例なんて、あり得ないだろう!?」

「信じられないか?」


 失礼だとは思ったが、正直に頷く。

 月藍ユェランの先例となる男の花嫁は確かにいた。しかし彼が嫁いだとされるのは、二百年前と聞く。人間の寿命はせいぜい六十年がいいところだ。二百年もの長い時を生きてはいられない。

 三十路そこそこにしか見えない秀鶯シゥインが花嫁本人だなんて、到底信じられるわけがなかった。

 月藍ユェランの眼差しは疑いに満ちているが、秀鶯シゥインの笑みは崩れない。むしろますます面白そうな顔になっていく。


「不思議に思う気持ちはわかる。でも、事実だ」

「事実って、本当に秀鶯シゥイン殿は二百年も生きているとおっしゃるのか?」

「そうだ。証拠になるかはわからんが、一つ、俺の身の上話を聞かせてやろう」


 そう言って秀鶯シゥインが手を叩く。

 開いたままだった戸口から、茶器と果物の乗った盆や着替えを携えた使用人が、数人入ってきた。彼らはそれらを寝台の月藍ユェランたちの側へ置くと、一礼をして退室していく。

 閉まる戸を見もせず、秀鶯シゥインは盆から小ぶりな鉄瓶を取った。中身を茶器へ注ぐと月藍ユェランに差し出す。

 そろそろと月藍ユェランは身体を起こし、枕を背にして座って受け取った。

 茶器を覗き込むと、澄んだ琥珀色の飲み物が入っている。


「まあ、この茶を飲みながら聞いてくれ」


 身体の痛みが和らぐと言われ、恐る恐る月藍ユェランは茶器に鼻先を近づけた。嗅いでみると、爽やかな芳香がする。危ないものではないようだ。

 肩の力を抜いて茶器を傾ける。月藍ユェランの白い喉が茶を飲み下すのを見届けて、ようやく秀鶯シゥインは身の上話を口にし始めた。

 秀鶯シゥイン龍玄ロンシェンに嫁いだのは、今から二百年前のこと。白麓パイルーに伝わる記録の通り、重い病に罹った姉妹の身代わりとして立った。

 嫁ぎ先は当時の龍玄ロンシェンの長の子息、今の長だった。男の花嫁は前代未聞だったため、当時はたいそう揉めたらしい。

 とりあえず婚姻を保留して龍玄ロンシェンに留まり、長とともに暮らすうちに情が芽生えた。すると婚姻にかかる問題が解決して、正式な妻となることができて今に至る……のだそうだ。

 簡単にまとめるとそのような話だった。

 あまりにも荒唐無稽で、信じられたものではない。男同士の婚姻の問題とは、子を成せるかどうかだ。それが情を通じて解決した、というあたりが特に怪しい。


「まあ信じられん話だろうな」


 訝しげな月藍ユェランに、秀鶯シゥインは悪戯っぽい表情を見せた。


「だがこの龍玄ロンシェンの一族というのは、その不可能を可能にできてしまう一族だ」

「どういうことですか?」

龍玄ロンシェンの一族はな、人間ではない」

「人間ではない!?」


 まさか、と思う。龍暁ロンシャオを始め、龍玄ロンシェンの者には何人も会ったが、皆人の形をしていた。顔立ちに違いはあるが、これは山の下の世界でもよくある程度のものだ。羽が生えたり、牙が生えたりといった、人ならざる特徴は一つもない。


「人の形はしているが、彼らは龍の末裔なんだ」

「龍……?」

「神話や御伽噺に出てくる、あの龍さ」


 龍とは神なる獣だ。白麓パイルーの一族だけでなく、山の下に広がる平原や中原までの広い範囲に伝わる数々の伝承に登場する。

 玄山シェンシャンは龍を統べる王の宮殿だという伝説を持っているが、あくまでそれは伝説だ。

 理由は単純。実際に龍を目にした者は、一人としていないためである。よって龍は神聖な存在ではあるが、想像上の獣だ、というのが月藍ユェランの知る常識だ。

 そんな架空の神獣の子孫が龍玄ロンシェンの一族なんて、ますます信じられない。


「今はもう、龍に転変する力がある者は少ないがな。それでも皆成長が遅くて一定の年齢以上老いないし、呆れるほどに長寿で、男を孕ませるくらいはできてしまうんだ」


 言いながら、秀鶯シゥインは懐から小さな袋を取り出した。

 手のひらの上で、袋を開いて逆さにする。五色の珠が一粒、ころりと秀鶯シゥインの手のひらに転がった。


「こ、これ」

「見覚えがあるな?」


 月藍ユェランは震えて頷く。見覚えは、ある。嫌というほどに。

 秀鶯シゥインの手のひらの、小指の先ほどの珠。それは今シーツの上に散らばっている、月藍ユェランの秘所から溢れ落ちた珠によく似ている。

 顔が熱くなり、落ち着きを失ってしまう。ぱくぱくと口を開けたり閉めたりする月藍ユェランの手を取り、秀鶯シゥインは珠を持たせた。


「この珠は、龍珠りゅうじゅ、という」


 知っているな、と聞かれて頷く。

 玄山シェンシャンから採取される宝石の名前だ。龍玄山ロンシェンザンとの交易品でも特に希少なものだと名高いが、月藍ユェランは実物を目にしたことはない。


「こいつは龍の精気の結晶でな。異種族の、それも同性の番いとまぐわった際に生じるんだ」

「どうして、ですか?」

「番いを自らと同質の存在にして、子を孕める身体に作り変えるためさ」

「子ッ!?」

「産めないと困るだろう?」


 秀鶯シゥインはさらりと言う。

 しかし、言っていることがわかるようでわからない。


「どういう仕組みかはわからんが、俺も珠を産んだ。この珠がそれだよ。産み続けるうちに連れ合いと同じ身体になって、子を孕んだからそういうものなんだろう」


 あっはっは、と笑う秀鶯シゥインを、月藍ユェランは呆然と見つめた。ほとんど話を理解ができなかった。

 でも唯一わかったのは、これから自分が秀鶯シゥインと同じようになるということ。人間でない何かに変えられてしまうということだけだ。


月藍ユェラン


 秀鶯シゥインの手が、震え出した月藍ユェランの手に触れる。


「怖いか?」

「……はい」


 自分の将来、常識が及ばない場所、人々。すべてが月藍ユェランには恐ろしい。

 隣に寄り添ってくれる秀鶯シゥインを見る。おっとりと微笑む彼は、月藍ユェランを抱きしめてくれた。

 人らしい温もりに、震えが少し収まった。ぽんぽんと赤子にするように月藍ユェランの背中を叩きながら、秀鶯シゥインがまた唇を開く。


「案ずるな。俺も最初は怖かった」

秀鶯シゥイン殿も?」

「そうだとも。でも、今はなんともない」


 優しく言って、秀鶯シゥイン月藍ユェランを寝台へ横たえた。


「じきにお前も怖くなくなるよ」

「嘘だ……」

「案じるな、龍暁ロンシャオは良い子だからな」


 控えめに戸の開かれる音がした。首をもたげると、戸の隙間から龍暁ロンシャオが覗いている。

 相変わらずの大人びた表情だが、昨夜とは打って変わって不安そうな色が漂っている。それはどこか親とはぐれた子供のようで、月藍ユェランをいたたまれなくさせた。


龍暁ロンシャオ、こちらへ」


 秀鶯シゥインが手招きすると、龍暁ロンシャオは弾かれたように寝台へ近づいてきた。

 寝台に乗り上げ、横たわる月藍ユェランの顔を覗き込む。月藍ユェランより少し細い手が、遠慮がちに月藍ユェランの髪に触れた。


月藍ユェラン


 呼ぶ声は囁くようで、線の鋭い少年の眉はくしゃりと寄せられる。


「無理をさせて、すまなかった」

龍暁ロンシャオ……」

「初めてなのにちゃんと気を配ってやれなかった。反省している」


 龍暁ロンシャオが口にする謝罪は真摯だった。心から反省していることがひしひしと伝わってくる。


「心配させて、悪かったな」


 罪悪感に駆られてつい、月藍ユェランも謝った。秀鶯シゥインの語った通りであれば、龍暁ロンシャオの実齢は月藍ユェランより上だ。

 だが、容姿は月藍ユェランより幼い。そんな龍暁ロンシャオに、悲しい顔をさせたくないと思ってしまった。

 重たい手を持ち上げて、浅黒い頬に触れる。まだ男になりきっていない線に指を這わせると、龍暁ロンシャオはくすぐったそうに首を竦めた。猫のようで可愛らしい仕草に、笑みを誘われた。


「仲良くなれそうか?」


 秀鶯シゥインが耳元に唇を寄せて囁いた。頷いていいものか迷って、ちらりと彼を目を向ける。自分と同じ、淡く輝く銀灰色の瞳と視線が重なった。


「まだわからないか。まあ、それでもいい。ゆっくりふたりで過ごせ」


 寝台から腰を上げて、秀鶯シゥインが笑う。

 それから月藍ユェラン龍暁ロンシャオの頭を一つずつ撫でると、空になった鉄瓶を抱えて部屋を出ていった。

 寝室に静けさが戻ってくる。月藍ユェラン龍暁ロンシャオは、どちらともなく顔を見合わせた。


龍暁ロンシャオ、あの」

月藍ユェラン


 声が重なって、お互い口を噤む。気まずさと恥ずかしさがないまぜになった空気が漂って、ついついふたりは顔を背けてしまった。

 五つ数えるほどの沈黙の後、そろそろと月藍ユェランから口を開いた。


秀鶯シゥイン殿は、良い方だが……その、だいぶ……だいぶおおらかな方だな?」


 声を出してから後悔する。格好悪くも、軽くうわずってしまった。

 頬を熱くしながら龍暁ロンシャオを見上げる。彼は目を泳がせながら、こくりとぎこちなく頷いた。


「俺も、そう思う。あいつは昔から掴みどころがない」

「そうか」

「ああ」


 それきり、また会話が途切れてしまう。ややあって、龍暁ロンシャオの指がおずおずと月藍ユェランの指に絡んできた。


「握っていてもいいか」

「……構わないが、お前はいいのか?」

「いい、とは?」

「予定が決まってるんじゃないか。龍暁ロンシャオ継嗣よつぎなんだろう」


 龍暁ロンシャオは見た目が幼なくとも、月藍ユェランより歳上だ。

 すでに長の補佐などの仕事を任されていても不思議ではない。伴侶に付き添って潰していい暇など、あるのだろうか。


「ない」


 握って指先に頬を押し付けて、龍暁ロンシャオは言い切った。


「初夜から数日は、花嫁と過ごすのがしきたりだ」

白麓パイルーと同じなんだな」

「そうだ。昼も、夜もずっとだ」

「夜も……」


 また今夜もなのか。昨夜の閨を思い出して、月藍ユェランは青ざめた。

 ひと夜で身体がガタガタになったのだ。連夜続けば身体がどうなるかなんて想像したくない。


「あんたの調子が良くないなら、無理強いはしない」


 龍暁ロンシャオはまとう空気を心持ちやわらかくして、大丈夫だ、と言った。

 信じていいものか考えあぐねていると、手を握ったまま龍暁ロンシャオ月藍ユェランの隣に横になった。ぴったりと向かい合う形で身体を寄り添わせてくる。

 月藍ユェランがびくりと震えると、なだめるような手付きで背中をさすられた。


「何もしない。だから側にいたい」


 たっぷり間を置いて、ぎこちなく月藍ユェランは頷いた。

 月藍ユェランの了承に、龍暁ロンシャオがまた微笑む。唇の端をほんのりと上げるだけの、あの淡い笑みだ。

 それを見た途端、不思議と緊張が解けた。

 じわじわと微睡みが身体を浸し始める。高めな体温がちょうど良くて、握っていない方の手を龍暁ロンシャオの身体に回した。

 なんとか、なる気がしてきた。少なくとも龍暁ロンシャオの隣は嫌ではない。

 深い息を吐いて、月藍ユェランは瞼を下ろした。

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