第23話 危機

 目を醒ますと、月藍ユェランは暗くて狭い場所に閉じ込められていた。

 手と足に枷を嵌められた身体を、なんとか起こして辺りを見回す。天井はやたらと低く、座っただけで頭を擦る。四方の壁もやたらと狭く、手足もろくに伸ばせない。

 どうやらここは、箱の中らしい。

 ずっとごとごとと揺れているので、どこかへ運ばれているようだ。胃がひっくり返りそうな酷い揺れに、気分があっという間に悪くなる。


(どうしよう)


 目を閉じて吐き気をやり過ごしながら、頭を抱えようとして失敗する。

 現状が何も判断できない。手足がしっかりと拘束されているから、とりあえず逃げることすら無理だ。


(母さんや姉さん、義兄さんはどうなったかな)


 特に義兄は酷い怪我を負わされていた。族長たちは無理でも、近所の人が誰かは助けてくれただろうか。あの怪我は手当てが遅れると命に関わりそうだった。

 義兄があのまま死んだりしていたら、と思うと恐ろしい。じわじわと押し寄せてくる不安を堪えるように、月藍ユェランはぎゅっと膝を抱く。


シャオは、どうしているかな)


 引き離された龍暁ロンシャオのことも気になってしかたがない。

 白麓パイルーの街には味方が少ない。常人より強い龍暁ロンシャオだとしても、数で攻めてられたらどうなるかわからない。無事でいてほしいが、それすら確かめようがないのがもどかしい。

 そういえば、と思い出す。龍暁ロンシャオと離れ離れになるのは、嫁いで以来初めてのことだ。

 五年の結婚生活において、龍暁ロンシャオ月藍ユェランを片時も側から離そうとしなかった。

 大切に部屋に仕舞い込み、出かける時も必ず付き添う。いつでも、どこでもだ。

 そうすることが龍玄ロンシェンの習いだそうだが、頼もしく思う気持ちには変わりなく、いつも側にあることが当たり前になっていた。

 だから、月藍ユェランは今、とても心細い。嫁ぐ前の自分からしたらありえないほど、月藍ユェランは孤独に弱くなっていた。


シャオ……」


 細く名を呼ぶ声に、返事は当然返ってこない。

 がたがたと揺れる箱と、粗末な馬車の車輪の音。隙間から染み込んでくる夜の薄寒さが、月藍ユェランの心を蝕んでいく。

 泣いている暇はない。逃げる機会を窺わなくては。そう思うのに、目が熱く潤んでしまう。 そうして涙が収まるまで、月藍ユェランは箱の中で膝を抱え、龍暁ロンシャオの名を呼び続けた。


 箱の揺れが止まった。

 月藍ユェランを押し込めた箱を運ぶ馬車が、目的地に着いたようだ。

 息を潜めて気配を探る。馬の嘶き、人の声、火を起こす音に水の音。どうやら一行は夜営をするつもりらしい。

 逃げる隙はないかと考えるが、箱の周りには人が多いようだ。少なくとも、寝静まるまでは何もできない。

 しかたなく、できるかぎり楽な姿勢を探す。揺れがなくなって、気分の悪さが少しおさまってきた。

 今なら眠って体力の回復に努められそうだ。しばらくもぞもぞとしてからおさまりのいい姿勢を見つけて目を閉じた。


「おい、出てこい」


 がたん、と大きな音と衝撃が走る。

 箱が突然横倒しになり、月藍ユェランは身体をしたたかに打ち付けた。

 ようやく訪れていた眠気が一気に吹き飛ぶ。何が起きたか把握的ないまま倒された箱の中から、物のように引きずり出された。

 顔を上げると、実家にいたあの兵たちが月藍ユェランを取り囲んできた。

 息を飲んで身を固くするが、松明を片手に持った兵の一人に手枷の鎖を掴んで引き摺られた。地面が月藍ユェランの肌を傷つけてもお構いなしの乱暴さに、必死で耐えながら運ばれる。

 しばらくして、ようやく腕の鎖を引く力が消えた。

 瞑っていた目をそっと開く。大きな馬車が目の前にあった。荒れた街道の外れに似つかわしくない豪奢な装飾を、唖然として見上げる。

 月藍ユェランを連れてきた兵が車の側に控えた上官の前に跪いた。中原の言葉での会話を彼らが交わしてから、ややあって車の御簾がするすると上がる。

 姿を現したのは、でっぷりと肥えた中年の男だった。絹の着物に深く埋もれ、脇息にもたれつつ月藍ユェランの顔を覗き込む。

 おそらく、これが件の中原の高官だ。ゴクリと唾を飲む。


「これが例の珠を産む男か?」

「左様にございます」


 高官と側に控えた者のやりとりに、月藍ユェランはどきりとした。

 月藍ユェランが珠を産む身であると、なぜ彼らは知っているのだろうか。秀鶯シゥインにあまり公にしないほうがいいと言われ、それに従ってほとんど誰にも話したことはなかったのに。

 たっぷり月藍ユェランを眺めてから、高官は億劫そうに車を降りてきた。

 緩慢な動きで、月藍ユェランの側にやってくる。心臓を跳ねさせて見上げると、左右の兵に無理矢理叩頭させられた。


「男が龍珠を産む、のう。あの異民族の族長はそう言っておったが、疑わしいものだな」


 固い靴の爪先が、月藍ユェランの顎をさらう。靴先が喉に食い込んで痛い。

 月藍ユェランが顰めるのが面白かったのか、高官はさらにぐりぐりと靴先を押し付けてきた。


「まあそこそこ見目は良い。珠を産んでも産まなくても、姫様の玩具にはなるだろうて」

「ひ、め?」


 反芻する月藍ユェランに、高官がにんまりと笑う。


「貴様をな、これより我らが御本家様の姫君に献上するのじゃ。姫様は近々太子妃に冊立されるゆえな。美しき品、珍しき品はあればあるほど良い」


 高官が巨体を器用に折って、しゃがみ込む。

 地に伏す月藍ユェランの顎を掴み、松明の明かりでその顔を照らした。


「儂は御当主様のお指図でそういった物を探しておったのだがな。白麓パイルーでこの美しい珠を見つけた」


 目の前に鈴蘭を模した簪が一本転がされる。

 花の部分には龍珠が幾つも嵌め込まれ、珠を載せた土台の彫金も繊細で美しい逸品だ。

 そしてこれに、月藍ユェランは嫌というほど見覚えのあった。


「貴様が親族の娘に与えた品だそうだな?」


 嫌な汗が背中を伝う。

 高官が言う通り、この簪は従姉妹の嫁入り道具にと作らせた品だ。

 黙っていると肯定で判断したようで、男はにやにやと笑って続けた。


「この珠を一粒、当主様にお送りしたところ、いたくお気に召されてなあ。これで姫様のために鳳冠を作って差し上げたいと熱望されておるのだ」

「それが、私となんの関わりが?」


 嫌な予感がして、知らぬふりをする。龍珠の採取方法は秘事だ。知られれば、何が起きるかわからない。


「族長が言うことには、この珠、貴様が産んでいるらしいではないか」

「ご冗談を。人が珠を産めるはずありませんよ」


 心臓がひやりとするが、必死で平静を装う。高官は探るように月藍ユェランの目を覗き込む。


「龍の恩寵、龍の精気……だったかな、族長が言っていたその珠の別名は」

「……」

「その昔、族長の先祖の一人である男が龍玄ロンシェンへ嫁いだそうだ。男が嫁いでしばらくのち、街に残した家族に珠を贈った。世にまたとない美しい珠を、自分が龍の末裔から授かって産んだ龍の精気だといって、形見の品にしてほしいと言ったそうな」


 ぎくりと高官を見返してしまう。

 その話は、知っていた。秀鶯シゥインの語った昔話だ。まだ彼がごくごく若く、肉親も生きていたころに、自ら産んだ珠を白麓パイルーの街に贈ったことがあったそうだ。

 高官が語った話のごとく、形見の品として。


「貴様も、龍玄ロンシェンの男の妻だったな?」


 肉の分厚い手が、月藍ユェランの頬から首を辿り、着物の合わせに滑り込む。

 ひ、と息を飲むと高官はうっそりと笑みを深くする。嗜虐心を隠そうともしていない、気味の悪い表情だ。


「や、やめろ!」

「ならば珠はどこから生じるか教えてもらおうか」


 言いながらも高官の手は、月藍ユェランを這いまわることをやめない。


「口か、目か、それとも違う場所からか? そら、珠を産んでみろ」


 産めたらやめてやると嘯く高官の手によって、着衣がどんどん乱されていく。

 上着も、筒袖も、筒袴さえも。ほとんど裸にされて全身を弄られ、月藍ユェランは涙を零した。

 龍暁ロンシャオ以外の者に触れられた。

 死んでしまいたい。舌を噛んでしまいたいが、できなかった。

 龍暁ロンシャオを一人残して逝くことも、したくはない。


「やだ! やめてくれ!」

「偽りを申してもよいことはないぞ?」

「私に珠なんて産めないっ! 何も知らない! 放してくれ!」


 龍暁ロンシャオが、愛してくれる人がいなければ月藍ユェランに珠を産むことはできない。

 そう訴えて涙を流しながら、自由にならない手足を使って抵抗する。


「往生際が悪いのう……さて、どうしたものか」


 暴れる月藍ユェランを兵に抑えさせ、高官は思案する。

 ややあって、にやりと唇をゆがめた。


「ああ、南海の白珠は確か、人魚の涙が変じたものだったな。ならば……」

「んぐっ、あぁっ!?」


 ずぶりと、太い指が月藍ユェランの叫ぶ口に挿し込まれる。


「龍の珠も泣かせればできるのかのう?」


 舌を掴まれ、痛みと羞恥が月藍ユェランの呼吸を止める。

 情事の前戯のような指遣いで縮こまらせた舌をいじられ、反射的にえづくが太い指はぐちぐちと無遠慮に奥を探ってくる。

 苦しい。息が詰まる。気持ち悪い。死んでしまう。

 苦痛にのたうつ月藍ユェランを映して、油のようにねっとりとした高官の目がドロリと醜い愉悦に歪む。

 汚された。汚される。怖気とともに、悲しみが月藍ユェランを包む。


シャオ……っ」


 ごめんなさい。龍暁ロンシャオを思い浮かべ、心の中で謝る。

 ぼろりと銀灰の瞳から、大粒の涙が溢れた。

 その時だった。


ランッッ!」


 愛しい龍の咆哮が、夜に轟いた。

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