# 006 ネガティブ・スペース
体が暑い。心臓はバクバクいってる。息も切れ切れ。
まぁ、それは大した問題じゃないんだ。
問題は二日連続で鬼塚をキレさせてしまったことだよ。
それで、今は無言の鬼塚に首根っこを掴まれて職員室へ連行されてるんだ。
もう、こうなったらどうしようもない。ここは一つ、今朝の出来事を振り返って現実逃避をしようか。
◇
粗いカーテンの目から漏れた光で目が覚めた。ベッドから体を起こしてぐっと伸びをした、爽やかな朝だよ。
俺は毎晩必ず、変な時間に目が覚めるんだよ。一日だって例外は無いんだ。
けれど、今日はそれが無かった。そんなわけで、まるで生まれ変わったみたいに気分が良かった。こんなに目覚めが良かったのは何か月ぶりだろう。
それにね、変な話だけど角丸さんの出てくる夢を見たんだ。焼き尽くすような夕焼けを背景に、あの気難しい角丸さんが俺を見て楽しそうに笑うってだけなんだけど、なかなかいい夢だったよ。
そんなに頭に角丸さんが居座る理由っていうのも、掃除の一件が原因だろうね。というのも、掃除の一件が昨日のことのように鮮明に思い出せるんだ。誰かに何かいい事をするの自体、今年は初なんじゃないかな。
寝起きのおぼつかない、けれどハッピーな足取りで一階に降りた。
それで朝食の食パンとコップ一杯の水を用意してテレビを付けた。いつものチャンネルを回したはずが、どうも見慣れない番組が流れていた。落ち目の芸人二人が町をブラブラ、グルメを食べ歩くって内容だった。おっさん二人、狭い歩道で肩をくっつけてイチャイチャしながら歩いてるんだ。
正直、こういう番組ってあんまり好きじゃないんだ。どっかの県の美味しそうな料理を紹介されても、大体は場所が遠すぎて実際に食べに行くことなんてないからね。それに、実写のおっさん二人がイチャイチャするのを見るくらいなら両目を潰したほうがマシだよ。
番組を鼻で笑いながら朝食を平らげた後は、洗面所に行って歯を磨いていたんだ。
それで奥歯を磨いているときに何か違和感を感じたんだ。というのもさ、さっきの食べ歩き番組って俺は見たことが無かったんだよ。
変な話じゃない? 休日の昼時の番組は大概見てる自信がある俺が知らないんだからね。
そんなわけで歯ブラシを咥えながら居間に戻って、スマホの日付を確認したんだ。
体の疲れが『今日は土曜日』だと言っていたけど、今日は水曜日。時刻は十二時丁度だったんだ。
まぁ、何が言いたいかっていうとさ――昼まで寝てたんだよ。『昨日のことのように』じゃなく、本当に昨日のことだったんだね。
どうりで知らないわけだよ。平日の番組なんだからね。
◇
「お前な、次はないって昨日言ったよな?」
そんなこんなで、凄い遅刻をしたんだ。まぁ、叱られるよね。
死ぬ気で走って、教室に着いたのは丁度四限が終わった直後だった。時間が時間だけに、クラスメイトからは『昼飯だけ食べに来たヤツ』みたいな目で見られたよ。まぁ、それでも良いんだけどさ。
うだうだ考えるのも面倒だったし、何事もなかったかのように席に座ることにしたんだ。それから色々考えて、俺はゲームをすることにした。というのも、昼ご飯をコンビニで買うのは忘れたし、定期入れだけ持って学校に来たわけで肝心の財布を忘れたから学食にも行けないしね。
それで、スマホを取り出した直後に鬼塚が笑顔でやってきた。スマホはバレなかったけど、大遅刻がバレて今は職員室でお説教って訳だよ。
「いや、先生。 これには訳があってですね……」
「ほう、言ってみろ」
どっしりと椅子に腰を下ろしている鬼塚は威圧的に足と腕を組んでいる。それだけでも自然と背筋が伸びるくらいには十分恐ろしいけど、鬼塚が恐れられている理由はそれだけじゃないんだよ。
鬼塚は数学教師という肩書には似合わない、筋肉質な体つきと度を越したビールっ腹の持ち主だ。体格の差っていうのは関係ないって頭では分かっていても、どうにも本能が警戒するんだよ。
ただ、今はビビッている暇はない。話さないと死あるのみだからね。
「実は昨日、角丸さんの掃除がやってた掃除を手伝ってですね?」
俺は話せる限りを話したよ。事実に忠実に――
「そういう訳で、帰りが大体十一時過ぎになったんですよ」
――『できる限り』事実に忠実にね。本当は九時半なんだけど、まぁいいじゃない?
俺の弁明を聞いている鬼塚はまさに疑い半分って感じだ。 まぁ、そりゃそうか。そんな遅くまで学校に残るのも変な話だもんね。
「そういう訳で、当番として一緒に掃除するはずだったあのクソッt……奴らをとっちめてくださいよ」
「友達になるんだろ? 頼んだぞ」
「は?」
鬼塚は『当然』とでも言いたげな態度で言った。いや、冗談じゃないよ。
あのクソッタレどもを俺一人でとっちめても角丸さんの置かれる待遇がマシになるはずなんて無いことくらい、足りない頭でも考えれば分かるだろ。
「いいですか? 角丸さんはクラスで不当な扱いを受けています、夜遅くまで学校に残されたら成績に影響が出ますね? 生徒の学習の環境を整えるのは教師の仕事ですよ」
「つまり、何が言いたい?」
「つまり、とっちめるのは鬼塚先生の仕事であって、これから友達になる俺とは関係がないってことですよ」
俺が言ったことが気に食わなかったのか、鬼塚の眉間に皺が寄った。
「いいか? 友達を助けるのは友達の役目だろ。教師は忙しいんだ」
「これは先生の問題ですよ、クラスで悪質な嫌がらせとかがあったら――」
『いじめ』という言葉を聞いた瞬間の鬼塚は、まさに鬼の形相だった。
「いいか? 俺のクラスでは、断じて! 断じて、いじめなどない! 仲間はずれのいない、和気あいあいとしたクラスだ! 分かったな、いつまでも子供じゃないんだからな?」
呆れた。 生徒に手を差し伸べて導くのが役目の教師が、今は保身のために生徒を見捨てようとしているんだからね。
「……そういうことかよ」
「何か言ったか、佐上?」
このクズは角丸さんのことなんか気にしちゃいない。『楽しい学校生活』なんていうのは建前で、コイツはただ、クラスでトラブルがあったら面倒ってだけなんだ。
人を人として見ちゃいない。 コイツもサボった奴らと同じカスだ。
「お前は今日、家の用事があって遅れた。 だから遅刻とは数えない、それでいいな?」
怒りの隠しきれない様子で鬼塚が口にしたのは隠ぺいでもするみたいに、取って付けたような噓くさい文句だった。
まるで人として扱われていないみたいな気分だよ。使い捨ての道具かなんかだ。
「……どうにでもすればいいですよ」
本当は山ほど言いたいことがあった。俺はなんとか言葉を絞り出そうとしたんだけどね。でも、コイツは聞きもしないだろうと思うと、頭の中が色んな気持ちで掻き回されてもう声も出なかったんだよ。
それで、何とか絞りカスを吐き捨てて職員室を出た。それから教室までは歩いた、早歩きで。一秒だって居たくなかったんだ。本当は走りたかったんだよ、でも校則違反じゃない? それになにより、走る元気さえ無いんだよ。
職員室から教室までなんて、歩けば一、二分の道のりなんだよ。でも、こんな状態だから一、二分って時間も永遠のように思えるんだよ。つまりさ――永遠に、惨めだった。
そうじゃない? 角丸さんは邪魔者扱い、俺はもはや人間とさえ見られていなかった。
やっぱりさ、教師も生徒も、どいつもこいつも嘘と建前だけなんだよ。時々思うんだけどさ、人間っていうのは、本当にどいつもこいつもこんなものなのかな。
足蹴にするのが仲間か。手を差し伸べないのが大人か。
それで俺達はコイツに教わって、コイツの後を追っていくのか。冗談じゃない。まったく、嘘ばかりのカスだよ。
……いや、俺もさほど変わらないじゃないか。いつもの遅刻の言い訳とか、昨日の掃除を引き受けたときとかさ。
何だか泣きたくなってきたよ。 誰かを忌み嫌う原因になったものが、自分にもあるってさ……正直耐えられないんだよ。
本当に、違う人間でありたかったよ。でも、そう嘆いても仕方がないってことも分かってるんだ。
俺はどうすればいいんだ?
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