異端生物譚 生血曳 幻想逸話集

一夜一樹、イチヤカズキ

第1話 【溺愛】少女と父親 水底に棲む物

生血曳、と書いて、いきじびき、と読む。

その言葉は、ずっと昔からこの街に根付いていた。


伝承の類に過ぎない、と思いつつ、その息遣いは確かな質感を持っていた。

畏敬という言葉に倣って、人はそれに、敬意や恐怖を向ける。

彼らは待っているのだ。雑踏の隙間から生まれ落ちる時を。


夜の闇に幻想が浮かぶ。神社の境内。

ぼんやりとした灯りの中で、思い出を紐解く。



少女の頃の私は健在だった両親と縁日に来ていた。

綿菓子、焼きそば、たこ焼き、かき氷、人形焼き。

子煩悩な父親は私に何でも買い与え、溺愛した。


そんな時、母はこの子もいつかはお嫁さんにいくんだから、という口癖を言い、笑った。

その度に父が子どものように拗ねて、むくれていたのを覚えている。


もし、父親が今も生きていたら、この恋を認めてくれただろうか。

私は穏やかな笑顔の青年を思い浮かべた。


縁日といえば。私の思考は幻想の中の過去に戻る。

金魚すくいの金魚をゆずってもらって飼ったことがあった。

その時、母は金魚さんが可哀想だから返しなさい、と言った。

父は生き物の大切さを知る良い機会じゃないか、と言い。母を説得した。


金魚を水の入った透明の袋に入れて飼う。

今になって思えば、とても残酷な行為だ。


私は金魚を家族の一員にしたつもりだった。

しかし、金魚からしてみれば、一溜りもなかったことだろう。

自分の命が尽きるまで愛でられ、弄ばれる。

悪夢のような災難だ。


金魚が死んだ時。私は可哀想だからと金魚を土に埋めた。

当時の私としては金魚を思いやったつもりだった。

だが、いずれにせよ水の中で生まれた金魚は二度と水に戻ることはできなかったのだ。


そんな妙なことを考えつつ、ふと、幻想から醒める。

神社の境内で待ち合わせをしたのに、彼が現れない。

少しずつ、不安が募っていく。何かあったのだろうか。

祭囃子の中、雑踏の中に彼の姿を探す。

そんな中、頭の片隅では過去の出来事がよぎっていた。


海難事故で両親を失った。

当時、親戚に預けられた私には、両親は旅行をしていると伝えられた。

幼かった私には実感がなかった。

ただ、心の奥底では気配を感じ取っていて、静かにじっとしていた。

心の内に、その時と同じ温度を感じている。


視界の端に消えたのは彼ではなかった。それは異変だった。

亡くなった父親がいた。それも、当時の姿のままだ。

他人の空似だろうと思ったが、拭いきれなかった。

蓋をしていたいくつかのことが脳裏によぎる。


父が他の女性と不倫をしている。ということを聞いた。

時期的には両親の死後にあたる。

海難事故ゆえに死体は発見されていない。

それが指し示す意味は何か。考えたくない。


なぜ若い姿なのだろう。おそらく彼は死後の霊魂であり……

そんなことがありえるのか。いや、前に挙げた事柄と矛盾しないか。


様々な考えが駆け巡り、結論は出なかった。

少し落ち着こうと思い、深呼吸をすると意識がなだらかになる。

きっと気のせいに違いない。彼も待っていればいずれ現れるのではないか。


何気なく、一歩を踏み出した。

ところがその歩みは断ち切られてしまう。


体が動かない。糸で縛られたように身動きができない。

見えない腕に首を圧迫されている。

苦しい。苦しい。息ができない。


腕を伸ばすが透明な膜に遮られるように動きが止まる。

地を這うような姿勢でのたうち回る。

まるで地に上がった魚のよう。

泳ぐことを忘れた魚のようだ。


あの時の金魚はそんな気持ちだったのだろうか。

そんなことを考えた。


子に物を買い与えることが幸せなのだろうか。

あの時の父の寵愛は愛、なのだろうか。

当時の父の顔を浮かべ、その冷たい瞳を思い出した。


……本物の父はどこにいるのだろう。

ふいに沸いた疑念に答えは出せなかった。


あの日、両親は本当に亡くなったのか。

死後に現れた父親らしき存在は何なのか。

そして、いつから存在していたのだろう。

父が本物でなかったとして、それがいつから父に成り代わったのだろう。


思考は巡るが、意識は水の底に沈んでいく。

私もいずれ、幻想の中に消えていくのだ。

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