《未来》有栖川優真Ⅱ

 彼は有栖川優馬というらしい。


 由姫の実兄で歳は二歳上。

 アメリカに住んでおり、日本には殆ど帰ってこないそうだ。

 兄がいたのか。兄弟については一切話さなかったから、一人っ子だと思っていた。


「…………………………」


 由姫は不機嫌そうな表情で、優馬を睨んでいた。あれ? 兄妹仲が悪いのか?

 少なくとも、兄の方は全然そんな風ではなさそうだが。


「それで、何しに来たの?」


「日本に用事があったんだ。そのついでに、お前が結婚したって聞いてな」


 優馬は俺をじろじろと見ると、にやりと笑い


「若いやつで良かったな。もっと脂ぎった親父かと思ったぜ」


 と由姫の肩をぽんと叩いた。


「お前も苦労してんな。不本意な結婚なんかさせられて」


「不本意なんかじゃないわよ」


 由姫は優馬の手を振り払った。


「私が決めたの。この人と結婚しようって」


「そうなのか? 昔は結婚とかする気ないって、言ってなかったか?」


「昔って、何年も前の話でしょ! 気が変わったのよ」


「まじか。コイツのことが好きなのか?」


「…………好きよ」


 由姫は俯いて、口をもごもごさせながら言うと


「大好き。私を助けてくれた人……」


 そして、優馬を睨みつけながら大声で叫んだ。


「私は今、幸せなの! 今日のデートもすごく楽しかったんだから! だから、二度とそんな憐れみを込めた目で見ないで!」


 優馬はしばらく呆然としていた。

 そして


「大好きか。お前が、そんな堂々と言うの、初めて見たぜ」


 目を押さえながら、くくくと笑った。


「あー。今のを見られただけで、日本に来たかいがあったわ」


 優馬は俺の肩をポンと叩くと、胸ポケットに何かを突っ込んできた。


「由姫をよろしくな。義弟くん」


 それだけ言い残して、彼は手を振りながら帰っていった。


「なんなんだ一体……」


 自由奔放な人だな。真面目な由姫とは正反対の性格だ。


 俺の胸ポケットに入れられていたのは名刺だった。


 そこに書かれていた社名を見て、俺は驚いた。


「げ。お前の兄さん、凄い会社で働いているんだな」


 クロスストリーマーズ。


 動画配信をメインとしたアメリカの企業だ。いち早く動画配信ブームを察知し、様々なコンテンツを取り扱った無料動画サイトを公開。

 サービス開始からわずか一年で、世界屈指の登録者数を誇る有名サイトに成りあがった。


「働いてるんじゃない。作ったの……」


「へ?」


 由姫に言われ、俺はもう一度名刺をよく見る。

 たしかに、名前の上に小さくPresidentと書かれている。

 由姫の兄貴が、代表取締役で、クロスストリーマーズの創設者!?


「だったら、アリスコアの融資もアイツに頼めば良かったんじゃ」


「兄さんは父さんと絶縁してるの。父さんは兄さんにアリスコアを継がせるつもりだったのに、兄さんはそれを拒否して、アメリカに行っちゃったからね」


 なるほど。それで、俺のところへ融資のお願いに来たのか。


「由姫は兄貴のこと、どう思ってるんだ?」


「だいっっきらい!」


 即答した彼女に、俺は面食らった。


 由姫がこんなに子供っぽい怒り方をするのを見るのは初めてだったからだ。


「あの人、性格が終わってるの。女好きで、ヘラヘラしてて、他人を見下してて、私のこと、不器用だとか世間知らずだとか馬鹿にしてくるし。誰よりも努力しないのに、なんでも器用にこなせて」


 由姫は今までたまった鬱憤を吐き出すように、喋り続ける。


「中学生の頃、父さんに言われたの。『何か一つでも優馬に勝ってみろ』って。もし勝ったら、色々と強制される私の人生が何か変わるんじゃないかって。そんな淡い期待をしながら、学生時代ずっと頑張ってきたのに……結局、一度たりとも勝てなくて……」


 じわりと彼女の目に涙が溜まっていくのが分かった。


「だから、二度と会いたくなかった……それに、こんな姿、貴方に見せたくなかった……」


「…………………………」


 今にも泣きそうな彼女。


 そんな彼女の手を引き、マンションの部屋の中に連れ込む。


 そして、その細く小さな体を俺は抱きしめた。


「ど、どうしたのいきなり」


「さっきの言葉、凄く嬉しかった」


 俺は彼女の耳元で囁いた。


「俺のことが好きって本心?」


「う、うん……。この一か月で凄く好きになった」


「そうか」


 俺はだんだん熱くなっていく彼女の体温を感じながら囁いた。


「過去のことなんか、どうでもいいよ。俺はここ一か月のお前しか知らないんだから」


 彼女の兄へのコンプレックス。嫌な気持ち。それを全部塗りつぶしたかった。


「俺もお前が好きだ」


「そ、そう……。嬉しい」


 緊張していた由姫の体の力が抜けていくのが分かった。


 俺は彼女を離さないよう、抱きしめた腕の力を強める。そして、彼女の目を見て言った。


「抱いていいか?」


「? もう抱いてるじゃない」


 由姫はきょとんと首を傾げる。

 そして、黙ったまま彼女の目を見続ける俺に、少し経ってその意味を理解したのか、「あっ……そ、そっち……?」とかすれるような声で言った。


 抱きしめた彼女が、カイロのように熱くなっていく。

 由姫は赤らめた顔を背けながら、震える声で


「お風呂入ってからでいい?」


「駄目だ。我慢できない」


「い、いじわる……」


「ごめん。でも、可愛すぎる由姫が悪い」


 一か月ぶりのキスは、ワインの香りと口紅のほのかに苦い味がした。


 その日、俺は初めて彼女を抱いた。

 ベッドで恥じらう彼女は世界一可愛かった。

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