第35話 どうか、ご無事で
ン=グィ近郊。花崎海咲は下着を履くと、大きく伸びをした。岩と太陽風だけの月面は幻想的で素敵だが、思い切りシャワーを浴びられないのが残念だ。
この数十分で、彼女は新しい学びを得ていた。『ネコ』と『タチ』は二つで一つ、どちらか一つだけでは解けないパズルのようなものだ。仮に『攻め』だけで同衾してしまうと、野蛮な鍔迫り合いの果て―どちらかが折れるまで戦う羽目になってしまう。そう思っていたのだが。
引っ掻き傷と噛み跡と、口紅の後がついた体を魔術的に偽装するなどして、彼女はシーツを捲り上げた。
「じゃ、善子さん。私ウォンさんと話してくるから」
返事はない。しかし、シーツの隙間から伸ばされた手は、ゆらゆらと揺れた。供給された霊力の代わりに、体力と気力を喪失した善子にシーツをかけてやる。マットレスに上半身を埋め、深い吐息を繰り返していた善子は、隠れるようにシーツを手繰り寄せた。そんな彼女の額に、海咲はもう一度だけキスをした。
彼女は艦橋に向かうと、艦長用の椅子で寛いでいたウォンに声をかける。
「ウォンさん、すらまっぱぎ」
「お、用事は済んだのか?…首のそれ、どうしたんだ?」
ウォンに『噛み跡』を指摘され、海咲は肩を竦めた。あの似非吸血鬼め、隠しきれないほど噛み跡を付けてくれたな。
「ん、噛まれた。ドラキュラミミズ、略してドラミに」
海咲は近くにあった椅子を引き寄せると、背もたれに顎を乗せて呟いた。
「…ねえ、また教えてよ。レン人のこと」
そして彼女は、くすりと笑った。
「よく知らない人達の為に、ヘイローに焼かれには行けないから、さ」
それから彼女は艦橋にいたレンの人々と、他愛のない話をした。好きな食べ物の話。家族の話。結婚の時の持参品の話と、面白い小話を少々。特に彼女は、レン人たちの卓越したスパイス調合の話に興味があった。
「ええ、ガラムマサラって家庭によって違うんだ」
「何なら、入れないパターンすらあるわ。レン人は地球でいうカレー?にはうるさいのよ。何せ、ご馳走だからね。インド人よりも余程」
海咲にその話を聞かせてくれたのは、オペレーターを勤めていた女性だった。彼女は『少し前まで』夫がいたらしく、一般家庭の生活にも詳しかった。
「月面では、スパイスってどうやって手に入れるの?」
「行商よ。ガレオン船に乗ったムーン・ビーストが、地球の都市―幻夢境のね―まで行商に行くの。月で取れるルビーを、貨物室に詰め込んでね。そして代わりに仕入れたスパイスを、こっちで売る。法外な値段でね」
当然のように、値段は釣り上げられているようだ。酷い話もあったものである。カレーにうるさいはずの民族が、好きな物さえ食べられずにいる。好きな時に好きなものを食べられる―それが『豊かさ』だと思うのに。そのような悲しいことが、あって良いものか。
「密輸するにも、船はヘイローに睨まれている。僕らもされたろ?狙撃」
「うーん、された」
ウォンにそう言われて、海咲は唸った。密輸も簡単では無いなら、正規の方法で手に入れるしかない。しかしそれでは、スパイスは月のナメクジに寡占され続けてしまう。そうやって支配され続けて来た結果が、あの飢えた子供だ。彼らは、立ち上がるべきなのだ。そして、戦わねばならない。『平和』『堕落』『革命』。この三拍子が延々と繰り返され続けてきたのが地球だ。堕落の時は終わった。今こそ、彼らは革命に身を投じるべきだ。
しかし、同盟の戦士以外のレン人は、いつまでも仮初の安寧にしがみつくばかりで。立ち上がる民衆は、極わずかだ。その原因は、夜空を見上げれば明らかである。
ムーン・ビーストの圧倒的な武力。特に、爛々と空を支配する『ヘイロー』は、その象徴だ。頭上に武器をチラつかされて、『戦え』と命令された所で―余程の物好きでない限り、誰も従いたくなどないだろう。
彼らには、二つの切っ掛けが必要だ。一つは、ヘイロー―武力の象徴の失墜。そしてもう一つは、分かりやすい『ヒーロー』の登場だ。前者は私が請け負うとして、後者の担当を誰にして貰えばよいだろうか。条件は三つ。分かりやすくヒロイックで、自由を嘱望していて。そして何より『レン人』であること。
「いつだったか、『ヒーローになってくれ』なんて、頼まれてたよね?」
「ああ、行きの宇宙船だ。それがどうかした?」
「お断りします。正式に」
ウォンは怪訝な顔をした。海咲の言いたいことが、理解できなかったからだ。
「皆は皆の中に導きを得るべきだよ。宇宙人の私じゃあ、結局ナメクジと同じだから」
「理屈は分かった。しかし―」
「ウォンさん。貴方がヒーローになってよ」
「…は?」
海咲は、返事を聞かずに退出した。彼女の中でこの話は、ここで終わりだからだ。
私はヒーローに相応しくない。どちらかと言えば地雷系で小悪魔系だ。私は確かに自由を愛する人種だが、私はワガママなだけなのだ。それにこの戦争の大義は、外部からもたらされるものであってはならないはずだ。首級は、譲ってあげるとしよう。
あの傲慢な光の輪を撃ち落としたという、手柄は。
それから暫く。旗艦ガーイェグはン=グィに到着した。一行はガーイェグをドームの近くに停泊させると、スパイの手引きでドーム内に侵入した。
「三十分で出ます。早急に!」
気力を取り戻した善子の指揮の元、解放同盟<ズィアーリ>のメンバーは補給作業を開始した。ン=グィに残存していた部隊と合流すると、善子たちは状況を説明した。ヒライたちと別れた後、彼らも攻撃を受けていたようだ。それ故に残存部隊は小隊に分かれドーム内に逃走したようで、通信も途絶してしまった。
ゲリラ特有の手際の良さで、彼らはあっという間に準備を終わらせた。その疾風迅雷さと言えば、完了の報を受けた善子が狼狽してしまったほどである。
そうして準備を済ませると、彼女はすぐさま出航の準備を始めさせた。残りの指揮を副艦長に委任し、彼女は海咲の元に現れた。消しきれなかったのだろう、善子の浅黒い首元には、目立たないような位置にキスマークがついていた。
「…こほん。海咲さん、私が何を言いたいか分かりますね〜?」
泥田坊は、少々ご機嫌斜めのようであった。どうやら、プライドに傷を付けてしまったようだ。魔術やらなんやらが飛び交う、それも愛のカタチだと思ったのだけれど、どうやらお気に召さなかったらしい。それを察したので、私は素直に謝罪の言葉を口にすることにした。
「ごめん、諸々の狼藉については謝るよ。同居人には内緒にして。特に魔女っ子。バレたら殺される」
悪びれた少女の様子に、善子はきょとんとした。しかしすぐに普段の悪い顔をすると、彼女は苦笑した。
「狼藉?…あー。いえ、言いたいことは、そうではなくて」
違う、とは。どういうことだろうか。『貴女は私の運命の人です』ということだろうか。違うな、それなら不機嫌にはならないはずだ。私には女心も人の心も分からない。まして妖怪と女神の心なんて、分かるはずもない。分からないので、分からない素振りをしてみる。カワイイ・クエスチョニングだ。カワイイは既に尋問へと変わっているんだぜ。
余計な思考を巡らせる海咲を見て、善子は目を伏せた。
「…ご武運を。海咲さん」
普段の強気な彼女からは想像もできないほどしおらしく。泥田善子はそう告げた。彼女は大きく溜息を吐くと、普段の調子で笑った。
「せめてどうにか、刺し違えて下さいね〜?」
犬死にはやめてくださいな、と彼女は付け足した。そして、逃げるように去っていってしまう。
それが、貴女の言いたいことなのか。このメスガキめ。などと文面通りに受け取れるほど、私の性格は素直では無い。
彼女が不機嫌なのは、私が粗相をしたからではない。善子は友達を死地に送り出してしまった、彼女自身が憎たらしいのだ。ヘイローの前に、友達を差し出さざるを得なかった、自分の力不足が。犬死にはやめろ、などと。余計な言葉を付けてしまうのが、モラハラメスガキの悪いところである。彼女は単に、こう言いたいのだ。
「ありがとう。善子も、死なないで」
海咲の言葉が聞こえたのか、地中から伸びた手が、静かに揺れた。白いレースに包まれたそれは、月面に咲く、可憐な花のようだった。
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