第4話 「人間お断り!」
フラッシュ・バンに焼かれた視界が、徐々に戻ってくる。温かい―優しい体温を感じながら、渡里は上下に揺られていた。
「大丈夫?怪我していないかな」
それは、まるで小説の一ページ。風に揺れる前髪から、優しい瞳が覗いている。彼女は今、見目麗しい青年に抱かれていた。
「良かった、少し乱暴な方法を取ったからね。心配したんだ」
歳の頃は、大学生ほど。涼し気な目元が特徴的で、すらりと伸びた手足が美しい。顔立ちの端正に整った、アジア人の男性。その美貌は、アニメオタクの渡里が思わず見蕩れてしまうほどであった。
見られていることに気がついたのか、彼は少し恥ずかしそうに、くすりと笑う。
「そんなに見つめられると、恥ずかしいな。僕はリウ。君は?」
「えっ、あ、あう、わた、渡里、です」
「渡里さん、ね。可愛い名前だ」
動揺した渡里を、揶揄うことなく。真っ直ぐ―真摯な瞳で、リウ・スンホンは渡里に微笑みかけた。柔和で穏やかな人だ、と彼女は思った。
彼は渡里に歩けるか問いかけると、静かにそして努めて丁寧に、彼女を地面に下ろした。彼は渡里の半歩前を、守るようにして歩いていく。
「海咲は?」
閃光が破裂したその瞬間。背後から鈍い音が聞こえたことを、覚えている。あまり、暴力的な手段が取られていなければいいけれど。
「撒いてきた。優しい人なんだね、君を逮捕しようとした相手を気遣うなんて」
逮捕、という単語に、渡里は臓腑が冷える思いだった。手錠をかけられかけたのは、生まれて初めての経験だ。
「気をつけた方がいい。ここいらはああいう連中が監視してる。彼女は『収容所』と言っていただろう?」
ああいう連中、とは。海咲のことを指しているのだろう。確かに、彼女は収容所という表現を用いて、何処かに連絡をしているようだった。
「文字通りの意味さ。この世界では、俗に言う『人権』なんてロクに認められていない。『入国管理局<マンハンター>』に捕まったら、一生を塀の中で過ごすことになる」
そう言って、リウはスマホで渡里に写真を見せる。画面には、劣悪な環境で強制労働に従事する、人間たちの姿が映し出されていた。
「これが、収容所。人間を捕らえて、隔離して、働かせる」
途端に、渡里は恐ろしくなった。『貴女の為だから』。海咲は確かに、そう言っていた。大衆の面前で捕らえて、連行することが―私の為になる。そんな話、到底信じることはできない。そうやって私を唆して―納得したような気持ちにさせて、収容所に収監するつもりだったのか。
「私、何もしていない」
震える手で、渡里は拳を握り締めた。理解の及ばない現実は、彼女の足を止めさせるには十分な重荷であった。もう、何を信じればいいか分からない。どうして、まるで第二次大戦下のユダヤ人のように―強制収監されなければならないのかも。
「この世界では、人間であることがそもそもの罪なんだ。それに、不法入国者だからね。だから、ここでは人間に懸賞金が掛けられてる。…花崎海咲<バケモノ>のような、例外を除けば」
人間であることが、罪。日本に生まれ、謂れのない差別を受ける経験の乏しい彼女には、理解できない概念だった。
だからこそ、恐ろしい。少なくとも、この世界は『人間の串焼き』が罷り通る倫理観だ。集団による暴力で済めば、まだ幸運な方なのかもしれない。
「あ…」
彼女を包んだのは、恐怖であった。
決壊するように。渡里の頬を、涙が伝う。 家族の元に帰りたい、友達の元に帰りたい、そういう考えが堰を切ったように強くなる。遊び半分で異世界転移などしなければよかった―という後悔が、渡里の心を絡めとる。
「…どうかな、逃がしてあげようか?」
混乱のあまり沸騰しかけた彼女の心に、リウはそっと差し水をする。風のように涼やかな彼の声に乗せられて、渡里は顔を上げた。
「…逃がす?」
震える少女の頭を、青年はそっと撫でた。彼の言葉を反芻した渡里に、リウは優しく微笑みかけた。
「僕らのNPOを紹介してあげる。君たち人間を、元いた世界に返す団体さ」
「…元のエレベーターでは、ダメなの?」
手順を逆にすれば、帰ることができるはずだ。掲示板に記されていた情報には、そう書かれていた。
しかし渡里の問いに、リウは首を横に振った。
「もし出来るなら、異世界帰りもいるはずさ。いないということは、必ずしも『元の』世界に戻ることはできないってことだよね」
明滅するエレベーター内で見た、様々な内装。森に住む部族の檻に似たものもあった。確かにあれでは、自分の元いた世界に戻るのは、難しそうだ。
「この先で仲間と合流する。公安に捕まらないように逃げるから、そのつもりで」
「公安?」
追ってくるのは、入国管理局だけではないらしい。渡里は既に、本人の預かり知らないところで、指名手配されていた。
「軍隊も兼ねてる。きっと、ほぼ無警告で手荒な方法を取ってくるから、気をつけるんだよ」
ひどい。これではまるで、犯罪者だ。こんなに、真っ当に生きてきたつもりなのに。私の人生で、警察に追われることがあるなんて、思わなかった。
リウに手を引かれ、渡里は異世界を駆けていく。時折見かけるのは、手足の付いた円盤状の機械。我が物顔で空を飛び回っているあれは恐らく、監視ドローンなのだろう。一つ目を思わせるカメラから、青年たちは丁寧に逃れていた。路地裏に身を隠しながら、異国情緒溢れる街並みを突き進む。次第に、風景は東南アジアのものから、古い日本の街並みに近づいていく。京都のような、単に田舎のような―落ち着いた意匠の建物が、立ち並んでいる。
「しまった」
ふと、リウが足を止める。往来を闊歩する河童や鬼たちに紛れて、白色のコスチュームが目に入る。『彼ら』の白い甲冑は、太陽光を無機質に反射していた。それは、まるでSF映画に現れるような出で立ちで、どこか態とらしさを感じる。
恐らくは、あれが『警官』―。渡里は、一歩後退りした。
その時。がしゃん、と音が鳴った。それは、丁度警官と渡里たちの直線上。
「失礼、つい癖で」
ヤカンに顔を描いたような生き物が、剽軽に笑った。
その刹那―周囲の視線が、ヤカンの姿をした妖怪『釣瓶落とし』に集まる。その過程、警官の一人と目が合った。
「堂々と」
緊張で立ち竦んだ少女の耳元で、リウはそう囁いた。警官たちが、こちらに向かってくる。彼らは渡里たちに会釈すると、後ろのヤカンに声をかける。
「御タライさん。何度も伝えているはずですが、往来で落ちるのは控えてくださいね。今月、七人も負傷者出してますよね?」
「へえ、すんません」
「次に怪我人出したら、今度こそ切符切らせていただきますからね?」
頭―に相当する部分―を下げながら、ヤカンは警官たちに平謝りしていた。その奇怪な様子を尻目に、リウは人混みに紛れようとする。
「お怪我はございませんか?」
そんな彼らを制するように、警官の一人が進み出る。その背後、他と装飾の異なる―明確に指揮官のような格好をした男が、渡里たちに一礼した。
「申し訳ない。怪我人を出さないようにと、再三注意はしているのですが…」
「ええ、大丈夫です。お陰様で」
青年は彼らに微笑みかけた。可能な限りの柔和さで、一切不自然さを出さないように。しかし、彼の背後にいた別の部下が、何かに気がついた素振りをする。
「―それはアカデミアの制服ではないよな。…待てよ、指名手配犯されていた人間の服装は―」
一言、彼がそう呟くと、周囲の目が渡里に集中する。
「…走るよ!」
警官たちは渡里を捕らえようと腕を伸ばした。彼らの手が『お姫様』に届く前に、リウが渡里の手を取る。竦んだ足が縺れたが、無我夢中で前に進む。
「逃げた!撃て!」
重い発射音が、渡里の耳朶を打つ。この地区の警察の標準装備は、ゴム弾を撃ち込む暴徒鎮圧用のライオットガン。ただし、現世で用いられているものとは異なり、本当にただゴム製の弾頭を打ち出しているだけの代物である。当然、弾速を減衰させるなどの『温情』はなく、当たれば命に関わる。
恐怖のあまり、渡里は足を止めてしまった。パニックに陥った彼女は、右足と左足を同時に出し―走り方さえ、忘れてしまった。混乱の最中、その刹那。渡里の左肩を弾丸が掠める。感じたことの無い痛みに、渡里は蹲った。
「ちっ、手加減なしかよ…!」
彼女を路地裏に引き摺ると、リウが銃を抜いて応戦する。数発撃ったあとに、彼は物陰に隠れた。警官たちの応援が到着したのだ。立ち塞がるように躍り出た支援機の陰に、警官たちが身を滑り込ませた。彼らはライオットガン<おもちゃ>から、実銃へと得物を持ち替える。
ぱぁん、と軽い音が鳴った。リウの隠れている遮蔽物、その角が粉々に砕け散る。
「撃て。殺して構わん」
隊長の一言で、彼らは散開する。それは、映画でしか見たことのない、軍隊の動き。あまりの恐怖に―立ち上がりかけた少女は、再びへたりと座り込んでしまった。
「…なさい…」
何がそんなに、彼らの気に触ったのだろう。私が、何をしてしまったのだろう。
「ごめん、なさい…」
リウの手の中の銃が弾き飛ばされる。あっという間に包囲され、彼は地面に押さえつけられた。次―とばかりに、警察が振り向いた。彼らはアサルトライフルを構えると、渡里に照準を合わせる。無様に両手で顔を隠した彼女の体に、無数のレーザー・ポインタが突き立っていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
兎のように震える渡里。そんな彼女に、白い鎧たちが詰め寄って―何かに、吹き飛ばされた。
「待たせたね、乗りな!」
彼らの前に止まったのは、六輪の車。例えるなら、非常にマッシブなワンボックス。現実に頭が追いつかず、ただ座り込むばかりの渡里の前に現れたのは、二つの影。
「立てるかい?」
爬虫類。その女性は、どうしようもなく爬虫類であった。困惑する少女に笑いかけたのは、蛇の頭を持つ人型。四つの指を広げて、彼女は渡里に手を貸してやる。そして彼女は青白くスパークの散る警棒で、手近な警官を吹き飛ばした。恐るべき膂力である。感電した警官はどこかの機械が壊れたらしく、ヘルメットを脱ぎ捨てた。その顔面に、黒人男性の拳が入る。機械で強化された拳で殴打され、警官は倒れた。彼はそのまま、近くにいた数人を殴り倒す。警官たちは誤射を恐れて、肉弾戦を強いられているようであった。
「乗って」
日本人だろうか。扉を開けて現れた女性には、どこか親近感を抱いた。優しい目をした女性に腕を引かれ、渡里は車に乗り込んだ。
「怪我はない?…可哀想に、少し肩を痛めたみたいね。私はラン、貴女の名前は?」
そう言って彼女は座席下からスプレーを取り出した。手際よく渡里の制服を脱がすと、左肩に吹きかけてくれる。湿布のような匂いと共に、痛みは少し楽になった。
「あ、ありがとうございます。夢沢渡里です」
「渡里さん、しっかり捕まってね」
ぱちり、と座席のシートベルトが止められる。
「出るよ!」
潮時、と判断するや否や、彼女たちは踵を返して車に飛び乗った。ここまで、まだ一分と経っていない。正に、電光石火。
「出せ!」
後部座席に乗った黒人男性の怒声と共に、発車する。六輪車は変形してタイヤを格納すると、ホバー移動になる。そして大きく浮き上がると、群衆の頭上を飛行する。多脚で動くゴキブリに似たパトカーでは、到底追いつかない。
「助かったよ、次はもう少し早く来てくれ」
「貸しができたね。ロイドがちんたらしなきゃ、もう少し早くトンズラできたんだが」
「いや、まだだ」
リウと爬虫人間―レベッカの視線が、バックミラー越しにロイドの視線と交差する。
「ちっ…!」
バックミラーに映っていたのは、黒い三輪バイク。現世でも流通している前二輪タイプのスクーターを改造した、『入管のエージェント』専用機である。黒のジェットヘルメットを被ったライダーの後ろに翻るのは、ビビットピンクのインナーカラー。
その髪色には、見覚えがあった。
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