彼女の時間 改稿版
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彼女の時間
高橋は仕事を愛する男だった。
就職してから五年。肌に合ったのか、営業部で件数を積み重ね、若くして本社営業部へ異動となった。それからも順調に成績を伸ばし、いつしか「エース」と言われるようになる。あと、何年かすれば事業所長を任され、それから本社役員への道が開かれる。大過なければ。
高橋は本社で仕事をする傍ら、一人の女性と交際を始める。同じ課の営業事務だった彼女。名は
力強い営業部のエースと、それを支える美人で大人しい麻由子の組み合わせは、皆からお似合いと言われた。
ここまでは、よくある社内恋愛の話だが、高橋は大きな過ちを犯す。
二年も交際した二人に結婚の文字が見え始める。しかし、高橋の目は別の所に向き始めていた。海外事業部への栄転の話だった。
急増する仕事に追われて、彼女との二人の時間が少なくなり、いつしか、メッセージの返信も返さなくなった。
程なく、彼女と会う事も、彼女からメッセージが来ることもなくなった。そして、彼女は仕事を休みがちになり、そのまま休職した。高橋は気にはなっていたが、彼女に連絡をすることはしなかった。
周りの目線も気にせずに仕事に打ち込む高橋。役員達や大口の取引先との接待に勤しむ中、彼は取引先の社長の娘と知り合う。快活で体を動かす事が好きな彼女は、同じく前を見て突っ走る生命力に満ちた高橋に惹かれ、彼をテニスや釣り、トレッキングに誘い親交を深める。高橋は彼女の思惑ともいえる流れに身を任せるように交際を始めた。そんな、高橋を周りは冷ややかな目で見つめる。麻由美を捨てて、出世の為に違う女を選んだ男として。
そこで事件が起きる。佐々木麻由子の自殺未遂。それをきっかけ彼女は退職する。その話は彼女の同期から社内に広がり、やがては役員の知ることになる。しかし、高橋は「別れた女の事」とだと言って、気にかける素振りすらしなかった。
程なくして上司から呼び出され、辞令が渡された。小さな事業所の営業課長だった。事実上の左遷に、抗議する高橋。上司は彼に取引先を守るためだと言った。あの大口取引先の事だった。佐々木麻由子の事が彼女の父親の耳に入り、激怒したという。
高橋は呆然とした。別れたはずの彼女。退職したのは知っていたが、自殺未遂など自分の責任ではない。まして、それが大口の取引先と関係があるのか。そして、その社長の為に自分が左遷されるのか。高橋は抗議し、社長の娘に連絡を取るが無視をされる。そんな彼に上司は言った。
「自分のした事を思い返せ。」
転勤から一年。高橋は営業マンとしての才を失ったかの如く、成績を上げられなくなった。転勤の理由は事業所にも伝わっている。皆はどう接して良いのか分からず、親しくなることは無かった。言い知れぬ疎外感と孤独。そして、全てを失ったといいう絶望。高橋は今更ながらに、彼女の辛さを感じるようになる。
高橋の日常は変わった。資料作りで残業。休みの日には接待ゴルフに、商品展示会でのプレゼンなどの忙しさで、気を張る事は無くなった。休日は寝て過ごし、外回りと言って喫茶店で時間を潰して帰社する。嘘だらけの日報を提出すると定時に帰る。社宅のワンルームでぼんやりとテレビを見て時間を潰し、眠ることが出来ずに酒の力で寝る。
そんな日々が続いたある日、買置きが無くなった酒を買いに、深夜のコンビニに向かった。帰る道すがら、ふと、公園を抜けようと思った。抜けたから早く部屋に着くという訳ではなかったが、その日は、何となく公園に足を踏み入れた。
十月の晴れた夜。満月が落とす灯りは、外灯よりか明るい。寒さに身を地締めながら歩いていると、ベンチに誰かが腰かけている。通りすがらに見ると女性だと分かった。外灯に薄く照らし出された彼女は、ハイネック一枚という薄着で、ビールの缶を握っている。
黒く長い髪、寒さで血色を失ったのか、透き通るような白い肌。顔はよく見えなかったが、そこそこ若いのだろうと思えた。それは、高橋に投げかけられた言葉から、そう思ったのだ。
「こんばんは。」
艶やかで張りのある声。高橋が言葉を返さないでいると、彼女は、ビールを一口飲むと言った。
「寒くないですか?」
高橋は「そうですね」と言って、そのまま立ち去った。振り返ると、彼女はビール缶をそのままに、夜空を見上げていた。
そうした公園でのやり取りが、何回か続いたある日、高橋は彼の方から声をかけた。
「寒くないですか?」
彼女は「まあまあ」というと、ベンチの隣を空け、「どうぞ」というように指さした。高橋は座ろうか逡巡したが、こちらから声をかけた手前、断りづらく隣に座ってしまった。
初めて見る彼女の横顔。白い肌はアルコールのせいなのか、ほんのりと赤く上気していた。顔の線は細く整い、黒目がちの瞳が高橋の目に入り込む。
「眠れないんでしょ。そうでしょう。絶対にそう。」
「そんな顔をしてる。」
ビールの缶を地面に置くと、どこから取り出したのか、もう一つ缶ビールを開け一口飲んだ。高橋が「貴女もだろう」というと、彼女は首を横に振った。
「仕事上がりの一杯を楽しんでるの。」
彼女の仕事は日が落ちてから始まり、この時間に終わるそうだ。日が昇る頃に寝て、また日が落ちると働くのだという。彼女にとって、これからが自分の時間だそうだ。それほど田舎ではない土地で、遊ぶ場所は無い。独り身の彼女は、仕事終わりに月を愛でながら一杯やるのが日課なのだそうだ。だから、高橋とは違う人種だと言った。
「そうですか。それで、貴女は眠れているんですか。」
その高橋の言葉に彼女は頷く。働き者の自分には、心地よい眠りという対価を得る資格があると言うのだ。高橋はまるで、自分が堕落した働かない人間と罵られたようで腹が立ったが、今の自分を顧みると、言い返す自信が無くなった。
そんな高橋の表情を見て、彼女は「眠ることが出来ないのは呪い」とだけ言うと立ち上がり、「また今度」と言って、ふらふらと闇夜に消えていった。
それから、数か月の間、高橋と彼女は会い続けた。一人は眠れぬ夜の為に、もう一人は自分の時間を楽しむために。時として、深夜にドライブに出かける事もあった。
誰もいない海岸を散歩する。会話は無く、月の明りに照らし出される彼女の白い肌と、時折、かき上げる黒髪から覗く白く細い首筋に魅入られた高橋は、強引に彼女を抱き締めた。抱きしめると小柄で細身だと分かった。海風にさらされたせいか、体は冷たい。しかし、彼女の体は、高橋を取り込んでしまいそうに柔らかかった。彼女は高橋に距離を置いているようだったが、高橋がリードし距離を縮めるていった。高橋の部屋で過ごす事も増え、そして、お互いを求めあう仲になったが、高橋は口付けを拒む彼女に、埋めきれない距離があるのだと感じた。
そんな生活は、高橋に過去を忘れさせるのに十分だったが、睡眠が増々削られ、目に見えてやつれていった。距離をとっていた同僚達も、さすがに心配して声をかけたが、当の本人には、その自覚は無く、幸せであるとさえ感じていた。
ある夜、高橋と彼女は、いつもはベッドの中で、彼女が家路につく時間まで取り留めのない会話をするのが日課になっていた。ただ、その日の彼女は疲れていたのか、いつの間にかに寝てしまった。寄りかかる彼女。吐息は薄く、だらりと流されたような手足。まるで命のない人形の様だった。
時計は深夜を指している。
目が慣れた闇夜の中、彼女の寝顔を眺める。顔にかかった髪を、指でそっとかき分ける。静かに閉じられた目は緩やかに閉じられている。艶やかに湿り気を帯びた唇。求めようとしても手に入らなかった。高橋は唇に指を添えると、ゆっくりと、その柔らかさを堪能し、指先でかき分けるように、彼女の口のに忍び込ませた。異物を感じた彼女は少し体をよじらせると、吐息と共に指先を舌で押し返そうとした。指先は舌と絡み合い、滑らかな歯に押し付けられる。まだ口から出ない異物に仕置きをするかのように、彼女はゆっくりと甘く指を噛んだ。その瞬間、高橋は指に痛みを感じた。まるで、鋭い剃刀の刃が、肉を裂いたかのような痛み。
慌てて引き抜くと、薄く長い切り口から止めどなく血が溢れる。痛みは瞬時だけで、あとは脈打つような血の流れしか感じない。流れ出る血が腕を伝い、シーツに沁み込む頃、彼女はゆっくりと起き上がり、寝ぼけた目で高橋の目を見つめた。そして、高橋の手を掴むと丁寧に血を舐め取った。最後の一滴を舐め終わると脱ぎ捨てた服を着始めた。
乱れた髪を指でとかし終わると、ベッドに腰かけ、また高橋に寄りかかると、いたずらな笑みを浮かべた。彼女は高橋の手をとると、彼の指で自分の唇を空けさせた。そこに覗く、白く鋭利なモノを高橋は呆然と見つめる。
彼女は目を閉じると、高橋にゆっくり抱きつく。冷たく細い腕が背中を這い、彼女の舌が首筋を濡らす。高橋は彼女を抱き締める事無く、これから起こるであろう事に怯え身を固くした。首筋に流れる汗。それを舐めとると、彼女は彼女は立ち上がり、大きく伸びをした。
「二度寝になるな。」
そう言い残して、彼女は部屋を出て行った。
それから高橋は彼女と会っていない。会わないようにしている。あの公園も夜も昼も通らない。だが、眠れぬ夜は続いている。
定時が迫る。陽は傾き、ビルの間に早々と夜を敷き詰める。夜の帳が下りようとしている。
眠ることが出来ないのは呪い。
高橋は、その「呪い」が何なのかを考えようとするが、その度にあの夜の恐怖が蘇り、考える事を止めた。
日が落ち夜が始まる前。高橋は定時を待って慌ただしく会社を後にするようになる。一時は、うっすらと楽し気にしている高橋の姿を目にしていた周りは、その変化に不気味さを感じ、今度は彼の存在を無視し始めた。そして、孤独と絶望、加えて恐怖に追われる日々に、高橋は増々やつれていった。
夜の彼女の存在を、少しだけだが忘れかけていた頃、高橋は取引先の届け物を頼まれ、少し遠方に赴く事になった。数少ない彼の仕事だが、その日の届け物は午後の遅い時間に受け取った。届けはしたものの、帰社の時間は大幅に遅れ、帰りの渋滞の中で日暮れを迎えた。
忘れかけていた彼女の存在。ハンドルを握る手に汗が滲む。心臓の鼓動が早くなり、前の車が遅々として進まない事に苛立ち始める。思わすクラクションを鳴らす。何度も何度も。
前の車から運転手が下りてくる。周囲の目が高橋に注がれるなか、運転手が窓を何度も拳で叩きながら何かを叫んでいる。
夜から逃れたい。クラクションを鳴らし続ける高橋の目に一人の女性が映る。まるで、昔の知り合いとすれ違ったかのような、そんな表情でこちらを見ている。しかし、その女性は人込みに紛れるように立っているが、高橋には目の前に立っているかのように、はっきりと見えた。
彼女だ。
高橋はドアを勢いよく開けると、男を撥ね退け逃げるように走り出した。車の間をすり抜け、彼女が追いかけてくるのではないかという不安から、彼女を視界に留めながら走った。突如、高橋はクラクションと悲鳴のようなブレーキ音に襲われた。横から来た車にはねられ、弾かれた体は数メートル先に転がり対向車に踏みつぶされた。
周囲が騒然となる。救急車を呼ぶ声、あまりにも凄惨な高橋の姿に悲鳴をあげる女性。そんな中、彼女は高橋の方へ歩き出す。周りで走り、悲鳴をあげる人々は彼女に気付かないでいる。まるで、彼女が存在していないかのように。
彼女は高橋の下に屈みこむと、彼の顔を覗き込んだ。その顔は目を見開き恐怖に歪んでいた。彼女は溜め息をつくと、スマートフォンを取り出し彼の写真を撮ると、その場を後にした。
「もうちょっと、長めにお付き合いしたかったんだけど。まさか、こんな事になるなんてね。」
うら寒いホテルの一室。カーテンは閉められ、隙間から夕陽が差し込み、部屋を辛うじて闇から遠ざけている。そこには部屋の隅の暗闇に佇むハイネックのセーターを着た女性が居る。そしてもう一人の女性。やつれて疲れた顔の女性がベットに腰かけ、スマートフォンの画像に見入っている。
「綺麗に捕れているでしょう。」
彼女は何も答えない。ただ、何度も何度も指で画像を撫でている。そして、突然、堰を切った様に質問を始めた。この地に来てからの彼の生活、仕組まれた出会いで浮かれる姿、一転して恐怖に突き落とされたときの彼の顔。恐怖におびえる日々を過ごす姿、逃げる時の顔。質問に丁寧に答える度に、彼女の瞳は輝く。
「良かった。本当に良かった。貴女に出会わなければ、終われなかった。」
彼女は立ち上がると、そう言って闇に佇む彼女に頭を下げた。
「良かった。じゃあ、麻由子さん。約束よ。」
麻由子は頷くとベッドから立ち上がり、彼女に向いて目を閉じた。ハイネックの女性はゆっくりと麻由子を抱きしめた。そして、緊張しているのだろうか、汗ばむ首筋に口付けをすると、耳元でささやく。
「大丈夫。」
そして、彼女は鋭い牙をむき出しにして、それを麻由子の首筋に突き立てた。麻由子の体が一瞬強張る。それを無視して、牙はゆっくりと彼女の首筋に突き刺さってゆく。
包み込まれるように抱かれる麻由子は、はじめは何の抵抗もしなかったが、牙がもっと深く刺さるにつれて、引きはがすかのように、彼女の腕を掴む。そして、震えながら掴んだ腕に力を入れ始めた。しかし、彼女は更に、麻由子に溶け込むように抱きしめ、牙を埋めた。
カーテンの隙間から差す夕日が無くなる頃、麻由子は震える手を、まるで助けを求めるように天井にかざすと、力を一気に失い、その手をだらりと落とした。それから、暫しの間、彼女は牙を突き立てままだった。
彼女がゆっくりと牙を引き抜いた。まるで人形のようになった麻由子を、するりと床に落とすと、口を拭い、ついた血を舐め取った。彼女は麻由子を見下ろすと、足で仰向けにした。見えた麻由子の顔を、まじまじと見つめる。それは、高橋のものと同じだった。
「安い復讐。」
「忘れて生きればいいのに。感情に囚われ、安くで命を投げすてる。」
彼女は屈みこむと、彼女の目を閉じてやった。
「でも、おかげで私は生きて行ける。」
彼女は立ち上がり、大きく伸びをすると、カーテンを勢いよく開け放った。そこには空を覆う暗闇と、僅かな光を頼りに蠢く人々が見える。そして彼女は呟く。
「これからが私の時間。」
彼女の時間 改稿版 quo @quo_u
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