第23話 ふたつの扉
「旦那」
扉を叩いたが返事がない。
しばらく待って繰り返したが同様だった。
さらにもう一度、旦那、と呼びかけ、それでも応答がないから、やむを得ず把手に手をかけた。鍵はかかっていない。引きあけると薄紫の煙が流れ出てきた。何度かむせてから、男はしわがれた声を部屋の奥に向けた。
「旦那、ちょっとよろしいですかい」
すでに早朝といっていい時間だ。おそらく空には紅が差しているだろう。だが、部屋にひとつしかない小さな明り取りは煙草と薬品の粒子で薄汚れていて、外の明かりを拾わない。
それでも極彩色のガラス細工で覆われた燭台がいくつか置いてあるから、この部屋の主が身体を横たえている姿は捉えることができた。人影はひとつではない。一人は褐色の髪、あとは黒と赤毛。三人の女はそれぞれ主の身体にその身を添わせている。添う、というよりは蛇が絡みつく様子に見えた。
主も女たちも、身体に服を乗せていない。
「……忙しいんだけどな」
気だるげに声を出す主に、男は巨大な体躯に似つかわしくない小さな目をせわしなく動かした。
「す、すいやせん、夜のうちにご報告したほうがいいと思って……」
主はしばらく眉を上げて男を見ていたが、やがてくいと顎を上げてみせた。女たちはそれで了解して、衣を拾い上げてすっと退出していった。
後に残った主は、さんざんに乱れた床布の上に座りなおした。手近の煙管を取り上げて吸い込む。
旦那、という年齢には見えない。十代、せいぜい二十。胸までべったりと伸びた、つやのない紺色の髪。青白い顔に頬骨が浮き、髪と同じ色の瞳だけがぎょろぎょろと昏い光を湛えている。
「……なに」
「へ、あの、うちで飼ってる
主は無言のまま、踵をがんと目の前の石の卓に打ち付けた。
「す、すいやせん、その、花街のほうを回ってる三下からなんですが、うちの薬を探してる奴がいる、って言ってやして……」
「どんな奴」
「それが、ひとりじゃねえらしくて。賭け屋やら口入れ屋やら飲み屋の女やら、いろんなのが探してるって話でさあ」
言葉に、主は顔を振り向けた。充血した彼の目を直視できないのだろう。男は顔を逸らし、そのままで手をひらひらと振ってみせた。
「いえ、あの、
そこまで言って、男は自分の腹を見下ろした。木製の柄が生えている。柄の先にあるはずの銀色の刃は見えない。彼の腹のなかに吸い込まれているからだ。
あ、あ、と声を出し、腹を押えながら、男は膝から崩れた。流れ出てくる赤黒い液体が足をつたって部屋の床を汚す。
主は短刀を鋭く投げつけた手をゆっくりと下ろし、肩をすくめてみせた。
「……ねえ、下等動物さん。その名前を口にしないでって言ったよね」
「あ、う……」
「聞きまわってる奴らの後ろに誰がいるのか調べて。必ず、繋がってるはずだから、ぜんぶ」
主はゆっくりと首を振り向け、右手の壁のほうを見やった。
一枚の絵が貼り付けられている。四隅を短刀で固定されたその絵は、原色の絵の具を乱暴に塗りたくったものだ。なにが描いてあるのか判然としない。が、人の姿に見えないこともない。
「……ニアナ……」
粘度の高い声でそう呟き、主は男を放置して部屋を出た。
◇◇◇
「旦那様」
扉が控えめに叩かれた。
ローディルダム公爵邸、一階の執務室の扉である。
室内ではウィリオンが大きな木製の机に向かっている。ここしばらく政務に関わっていなかったために大量の書類が積み上げられている。王宮の官吏から矢のような催促が来ており、今日中になんとしてもそれらを処理しなければならなかった。
廊下で呼ばわる声は侍女長のセレーネだとウィリオンには分かっている。が、返事はしない。多忙だということを説明するのが面倒だったし、黙殺することで冷血の印象を高めることができる。一石二鳥なのである。
冷血の誓いは、彼がこの邸の主になったときに心に定めたものだ。
ひとつには、侯爵家の目を欺くため。まともに口をきかず誰にも心を開かない変人。その評価は彼の行動に対するセドナ侯爵らの警戒を解くことに繋がった。
もうひとつは、ぼろを出さぬため。貧民街でごろつきどもと気楽なその日暮らしをしていたウィリオンは、上位貴族としての振る舞いなどとうの昔に失念していた。
アムゼンが即席で教育を行ったが、及ばなかった。なんとか日常の振る舞いは間に合わせたが、言葉が駄目だった。わずかでも油断すると貧民街のヴィルが顔を出した。アムゼンも最後には匙を投げ、もう黙っていてください、と告げ、ウィリオンはその通りにした。
「旦那様」
再びの叩扉。が、今度は返事を待たずに扉が開けられた。ウィリオンは驚いて顔を上げる。この家の者は彼が許さない限り、彼の部屋の扉を開けることはない。それだけ彼の怒りを買うことを、みな恐れていた。
が、それが破られた。
ばん、と開け広げられた扉。そこには侍女長のヘレーネが立っていた。両足を踏み張り、こぶしを固く握り、まなじりを決然と上げている。
その後方には七人の侍女が並ぶ。すべてヘレーネと同じ表情と態勢だった。一部の侍女は涙ぐんでいるようにも見えた。なぜか小さなほうきを携えた者もある。おそらく武装なのであろう。
「……なんだ」
やむなく声を出したウィリオンに、ヘレーネはずい、と一歩近寄った。
「旦那様。奥様……ニアナ様を、お迎えにゆかれないのですか」
「……」
「お邸を出られてもう、三日になります。身の回りのわずかなものだけをお持ちになって、奥様はお姿をお隠しになりました。わたくしどもはたいへん驚きました。が、実は安堵もいたしました。旦那様が奥様を……その、お責めになっていることは存じ上げております。いえ! それが良いの悪いのという話ではございません。ご夫婦のことです。ただ、奥様はひどくお苦しみでした。旦那様のことをお口になさるとき、いつも顔を覆われ、横を向いてしまわれるのです」
笑っていやがったな、あいつ。俺のこと。
ウィリオンには顔を覆って声を堪えているニアナがまざまざ見えた。侍女たちが自分の悪口を言っているであろうことは承知している。それと自分の裏の顔のちがいを可笑しがっているに違いない。傍目には泣いているように見えたことだろう。彼はそう考えた。
が、実際にはウィリオンも誤解しているのだ。
ニアナはここしばらく、ウィリオンのことを考えると頬が緩んでしまう。首から上が赤く染まることを止められない。それが恥ずかしくて顔を覆っている、というのが真相であった。
「だから、一度は距離を置かれることも良いとは思いました。でももう三日。これ以上の時間を置けば、奥様はお戻りになる気をなくされるでしょう」
「……妻が勝手に出て行ったのだ。戻りたければ、戻るだろう」
侍女たちのまとう空気、その色と温度が瞬時に変化した。ウィリオンはそれを感じ取っている。やばい、とも思っている。さすがにもう少し言葉を選べばよかった、これは長くなる。
ニアナは三日前の夕刻に公爵邸を出た。かねての打ち合わせどおりである。ときおりは夜にヴィルの姿で訪ねるし、情報収集に目処がつけばすぐに戻るということになっている。それでも別れの折はアムゼンが何度か声をかけなければ二人の抱擁は終わらなかった。
ただ、その際、侍女たちにはなにも告げていない。言えるわけもない。が、そのことがいま、ウィリオンの窮地を招いている。
「奥様は旦那様に深く心を砕かれておりました。いつでもお気にかけられ、どんな目に遭われてもひとことも文句を言わず、常に旦那様とこの家のことを案じておられました。その奥様に、奥様のお心に、いまこそお応えになるべきです!」
ヘレーネの説教はかれこれ四半刻ほど続いている。ウィリオンは書類に目を通す体裁で目を瞑っている。嵐の通過を待っている。
毎日の報告によれば順調に情報が集まっているという。もう少しで重要な局面だとも。ここで中断するわけにはいかない。それに、そもそも彼は顔を出して花街に行くことができない。昔の姿を見知っている者がいる可能性があるためだ。
そのために以前は、アムゼンを情報収集のために夜ごとに差し向けていた。一方で任務以上のこともいろいろしていたようではあるが。
「……とにかく、行かぬ。放っておけ」
彼は筆記具をぱんと机に置き、その全力をもって渾身の冷たいまなざしを作ってみせた。侍女たちが怯む。が、ヘレーネはその目をじっと見返し、動かない。
にらみ合いは数拍のあいだ続いたが、やがてヘレーネがため息をつき、顔を振ることで終了した。
「……わかりました。もう、申しますまい。いかようにもなされませ。ただ、わたくしどもには、わたくしどもの考えがあります」
それだけ言って慇懃に礼をとり、侍女たちの背を押して部屋から出た。
静まり返った部屋に残されたウィリオンは、柔らかな午後の日差しを背後の窓から浴びながら、崩れ落ちるように机に突っ伏した。
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