第22話 家出、しました
どたどたと誰かが階段を一息に駆け上がってきた。
が、上がり切ったところで躓いたらしい。ごん、という音と、いててという声が部屋の中まで聞こえてきた。
時刻は宵の口、銀の魔女亭はこれから本格的に動き出そうというところで、二階の支度部屋も気合をいれて顔なり髪をつくっている女たちで溢れている。
年に何度かある祭礼の夜にもあたっており、店の外の通りにも旅人らしい姿がちらほら見えている。彼らは通常の宿に泊まることもあるが、娼館を根城にすることも少なくない。場所がら食事などにも便利であり、重宝されているのである。
準備に慌ただしい店内、多少の足音は誰も気にしないのだが、今度は扉がばんと叩くように開かれたから全員が振り向いた。
「ちょっと、静かにしなさいよ。もう下の酒場にはお客さん入ってるんだから」
苦情を言ったのは赤いドレスの年季を積んだ女だった。言われた方は、やや若い。青地のドレスの裾を摘まんで、はあはあと息を吐いている。
「……で、で、出た……」
「なにがさ」
「ば、ばば、化けて出た……」
「だから何が」
青地の女はごくりと唾をのみ、ひとこと、告げた。
「に……ニアナの、亡霊……」
えっ、と声が上がり、複数の女が扉に殺到した。そのままどたどたと廊下を走り、階段を降り、その途中で階下の
「……えへへ。ただいま」
照れたような笑いを浮かべて手をあげているその顔を確認して、いちど立ち止まった全員が、ニアナに飛び掛かった。もみくちゃにされ、押しつぶされ、ひしゃげるニアナの顔面は捏ねたパン生地に似ていた。
「わあああん、ニアナあ」
「可哀そうに、もうやられちまったのかい、冷血公爵に」
「魂だけになって戻ってきたんだねえ」
「ばかあんたら、身体あるじゃん、よく見ろよ」
「だってだって、そうじゃなきゃなんで戻ってくんだよお」
「あ、あの……」
「ああ、ニアナの声。まるで生きてるみたいだ。しっかり弔ってやるからねえ」
「あの!」
ひしゃげた口で声を出したニアナに、全員が彼女を揉みさする手を止めた。
「あの、ちょっと、ええと……け、喧嘩、しちゃいまして……家出、しちゃいました。すみません、ちょっとだけ、泊めてください」
女たちは顔を見合わせ、ニアナを両脇から固めて三階に連行した。客室のひとつに連れ込み、鍵をかけ、ベッドに座らせて取り囲んだ。ニアナは首をすくめて肩を寄せ、小さくなっている。
「洗いざらい吐きな」
「ばかそんな言い方じゃニアナが怯えちまう。ねえニアナ。いいんだよ洗いざらい吐いてくれるだけで」
「変わんねえだろ」
「……で、ほんとにどうしたんだい。喧嘩って。公爵様と何かあったのか。あんたがお邸に向かってから半月経つけど、結婚生活、やっぱりうまく行ってないんじゃないの」
ニアナは眉根を寄せながら笑って見せた。が、すぐに俯く。
「……お邸に入って、公爵様にお会いして、使用人さんたちとも仲良くして。それなりには暮らしてます。でも、公爵様、なんだか少し様子がおかしいんです」
「やっぱりそうか。暴力振るわれたのか、殴られたのか」
「いえ……それは、あんまりなくて。ただ、公爵様、ずっとぐったりしてて。口もきけないくらい。昼も、夜も。でも……その、夜にベッドに入る前とかになにか、お薬みたいなものをいつも飲むんです。そうしたら急にものすごく元気になって」
「……なんだいそりゃ」
「薬が効いてるとたくさん喋ってたくさん動くんだけど、時間が経つと、飲む前よりぐったりしちゃって。見てたら昼間もそういうお薬、ときどき飲んでるみたいで」
「……そりゃあ、やばい薬じゃねえのか」
「わたしもそう思って、お身体壊しちゃうんじゃないかって心配で、なんのお薬ですかって聞いたらすごく怒られて……それでわたし、内緒でその薬、お医者さんに調べてもらったんです。そしたら、隣国で作られてる薬で、すごく身体に悪いものだって……でも、そうやって調べてること、旦那様に見つかって、大喧嘩になっちゃって」
女たちはそこまで聞いて、はあ、と息を吐いた。
「ニアナらしいよ。でもほっときゃいいじゃねえか、そんな奴」
「そうだよ、ころっと逝っちまったらすぐ戻ってくればいいじゃん……痛っ、誰いまあたしの頭、叩いたの」
「……なあ、ニアナ。あんた、公爵様、どうなんだい」
年嵩の女に問われて、ニアナははっとそちらに顔を向け、わずかに頬を赤らめて俯いた。女たちは嘆息した。
「ちきしょう、あたしたちのニアナに手え出しやがって」
「旦那だからな。でもまあ、好きになれたんなら僥倖だ。それで? どうすればうまくいくんだい? なにか考えがあるんだろ、きっと」
「……その薬、噂では、この花街で手に入るらしいんです。だから、売っている人を見つけて、どこからどうやって流れてきたのか、作っているのは本当に隣国なのか、誰が仲介してるのか。そういうのがわかれば、それをちゃんと伝えれば、危険な薬なのかもって、きっと目を覚ましていただけると思うんです……」
「よし、わかった」
豊満な体つきの黄色いドレスの女が胸を張った。
「ニアナのためだ。探してやるよ、その薬の売人。きっとこの店にも来るだろうし、伝手をたどれば見つけられるだろ」
「ああ、あたしたちに任せときな。なあに、お貴族様には縁がないけど、そこらでろくでもない商売してる男どもは嫌になるくらい知ってるよ」
「……ありがとう……あ、ただ、公爵様の名前は、出さないでほしくて……」
「わかってるよ。自分の彼氏が薬を欲しがってるってことにすりゃいい。だけどさ、もしそういうの見つけていろいろ分かってもさ、あんたが公爵様に言っても聞かないんじゃないの?」
ニアナはうんと頷き、階下のほうを手で示した。
「公爵様を心配してるご友人が協力してくださることになってます。その人の言うことなら聞くだろうって。あとで下の酒場に来ていただくことになってます」
と、まさにその時に扉が叩かれた。女主人が呼んでいるということだった。全員でぞろぞろと移動する。
まだ客はひとりふたりしか入っていない酒場の隅、仕切りの設けられた席。上等の客しか通さない卓で、女主人と差し向かいでくつろいでいる男がいた。女たちが近づいていくと、ニアナを見つけてこくりと頷く。
つばのある革帽子、身体にぴったりした上質そうな濃灰の上着。ちらと見えるあごの線と口ひげが年齢を感じさせるが、それでも雄の色香をたっぷりと身にまとったその姿は、ニアナにも見覚えがある。彼女が酒場に立っていたころ、ときどき姿を見せていた金払いのよい客だ。
と、女たちの数人が、きゃあと小さく歓声を上げた。
「ゼン様! お久しぶりですう。公爵様のご友人って、ゼン様だったんですね」
「でもきっと、またあたしに会いたくてそんなお役目、受けられたんですよね」
「なに言ってんだい、ゼンさんは前のとき、あたしに言ったんだよ。次の夜明けは君と見るからね、って」
「あんたみたいな薄っぺらいのは引っ込んでな、ゼンさんはあたしの……」
と、男がゆらりと立ち上がり、くいと帽子を持ち上げ、一礼してみせた。
「相変わらず美しいお嬢さん方、わたしはいま、とても悲しんでいます。なぜわたしの身体はひとつしかないのか。皆さんをひとときに愛して差し上げたいのに。ああ、最高級の葡萄酒よりも深い紅の夜を、星々よりも眩しい煌めきの宵を、あなたと分かち合う喜び。その機会をどんなに待ち詫びたことか」
身体の奥、腹の底にじかに届くようなその甘い囁きに、女たちの数人はよろめいた。男のもとへ走ろうとしてドレスの背を掴まれた女もいた。
そして、ニアナは。
うわ。うわあ。
アムゼンさん、そういう感じ、だったんだ……。
ゼン、と女たちに呼ばれたアムゼンは、引きに引いて呆然としているニアナに目配せをし、片眼をつむってみせた。ニアナはさらにいっそう深く引いた。
女主人は女たちを遠ざけ、ニアナとアムゼンを仕切りの内側で二人きりにした。ニアナはまずはアムゼンにじっとりとした横眼を送ってみせる。
「……いらっしゃいませ、ゼンさん……」
「あっははは。いやあ、旦那様に代わって情報収集をしておりましたのでね。夜の街で暮らす皆さん、ことに女性がたの歓心を買うことは重要な仕事です。そこでやむを得ず」
「……すっごい嬉しそうな感じだったけど……」
「いえいえ、演技ですよ、演技。ときに、ご首尾のほどは」
「はい、あの作り話で納得してくれたと思います。ちょっと気が引けたけど……みんなで協力して、街のどこかにいる薬の売人、見つけてくれるって」
「はは。自分を薬漬けの悪者にすればいい、それがいちばん信憑性がある、とおっしゃったのは旦那様ですから」
月の夜のあと。
ニアナとウィリオンは毎日のように、いくども話し合った。互いのこと、これまでとこれからのこと。肩を寄せながら、同じ天井を見ながら、耳元で囁きあいながら。
第一王子を護り、家族の仇をとる。決して光差す終着点ではない。ウィリオンは何度も妻に、傍にいてくれるだけでいい、手を出すな、と言った。が、彼女は首を縦に振らなかったのだ。
ニアナにすべて打ち明けた、どうしても手伝うって言ってきかねえんだ、と話すウィリオンに、アムゼンは小さく目を見開き、それから何度も頷いて、そうでしょうな、そういう方を選びました、と言って笑ってみせた。
これまでにアムゼンがどうしても行えなかったこと、花街での人づて、口づてで、侯爵家が関与していると思われる薬の流通経路を探ること。これをニアナが行うこととなった。アムゼンもゼンと名乗って金払いのよい客として花街には出入りしていたが、彼が積極的に女たちに働きかければ確実に疑念を生じるためにどうしても限度があったのだ。が、ニアナなら問題ない。
だが、どうやって。
ニアナにもこの考えを伝え、三人で首を捻り、アムゼンが妙案を捻りだした。夫婦喧嘩ですな。一時的に家を出て娼館に戻るのです。ついでにその喧嘩の原因が薬だと言ってしまえばいい。そのために調べるのだと。
ウィリオンもニアナも言葉を呑み、互いの顔を見て、同時に俯いた。せっかく穏やかな夜と朝を迎えられるようになった新婚の二人にとって受け入れがたい選択だった。どちらか一方が良いと言えば応じようと思って待っているが、夫も妻も声を出さない。
決まりですな、とアムゼンが言い切り、二人は苦い種を噛んだような顔をした。が、しぶしぶ頷く。
どうせなら俺を悪者にするのがいい、俺が薬漬けになっちまった、元に戻すためには薬の情報が必要なんだ、ってな。なかばやけになったような表情でウィリオンはそう言い、ニアナは二個目の種を口中に投じることとなった。
こうして、ニアナは公爵邸を出たのだ。最小限の荷物を持ち、侍女たちにも事情を告げずに。
「どうですか、やれそうですかな」
「お姉様たち、お客さん以外にも顔は広いから、たぶんすぐに見つかると思います。でも、危ないことはさせたくない」
「ええ、見つかったらすぐにわたしにお知らせください。しばらくはこの店に滞留しておりますから。ご説明いただいた薬の話は架空ですが、隣国の違法な薬がこの街で流通しているのは事実です。おそらくその根は、侯爵家に繋がっている」
そう言い、アムゼンは帽子を置いた。白髪交じりの髪は、後ろに撫でつけている執事長の時とは異なり、荒く散らされている。目つきまでもが異なっている。穏やかで思慮深い執事の表情はない。下町で、花街で、裏の世界で生きてきた男の凄み。
ニアナは横目にそれを見て、口を山形に折ってみせた。
「……ウィリオンとそっくり」
「そうですかな。似ているとは思いませんが」
「顔つきじゃなくて。カードの裏表の落差」
「ははは。わたしはあの方ほど優しくはありませんよ」
アムゼンは手元のグラスを口元に運び、ふうと息をついて、改めてニアナの顔を眺めた。その時にだけ、柔らかな執事長の目に戻っている。
「あなたを選んで、よかった」
「……アムゼンさん、このお店の常連さんだったんですね。ずいぶん前から、わたしのこと、ずっと見てたんですよね」
「ええ。ただ、あなただけじゃない。いろいろなところで、いろいろな方を。旦那様が育たれた世界に縁があって、家柄がある方。難しい条件だったが、何人か候補はおられました。ただ、あなたがいちばん……」
「いちばん?」
「喧嘩が強そうだった」
あはは、と二人は笑ったが、ニアナはすぐに目を薄くしてアムゼンを睨んだ。
「冗談です。いや、あながち冗談でもないが。ご自分の身をご自分で守れる方が望ましい。穏やかではない状況のなかにご案内することになりますからな。ただ、ほんとうの決め手は、わたしの勘です」
「……どんな」
「旦那様の心に、触れられる方。旦那様に、ご自分が一人ではないと、思い出させてあげられる方。わたしはそういう方を、選んだつもりです」
その言葉に、ニアナの脳裏には月が浮かんだ。
月、馬、高台。触れあった手、その温度。
「……できているかな」
ぽつりと呟いたニアナに、アムゼンは何も言わず、ただ、目元を緩めてみせた。
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