第12話 朝食の作法
扉をくぐると、正面に大きな窓。
中庭の木々や花々にはまだ朝露が残っており、穏やかな春の陽光を受けてきらきらと輝いている。生命力にあふれた鮮やかな緑が目に染みるようだ、と、ニアナは胸に手をあてて感嘆の吐息を漏らした。
ローディルダム邸では、朝食も夕食も邸の一階、中庭に面したこの大食堂で供されることとなっていた。
数十人が座ることのできる部屋であり、またテーブルであった。さまざまな催しのためにも用いるが、国政の一端を担う多忙な公爵として、食事を摂りながら役人や諸侯ら有力者たちと会議を行うことができるようになっているのである。
数年前までは先代の当主らが実際にそういう使い方をしていた。議論をする声、食器の触れ合う音。笑い声が混じる賑やかな食卓に給仕することが古参の侍女らにとっては当たり前であり、馴染んだ情景だった。
が、代替わり後は、様変わりした。
まだウィリオンが席についていないテーブルの端、窓に近い方の席を示されたニアナは、戸惑った。礼儀がわからないのではない。娼館の暮らしにおいても、母が生きているうちに、貴族の娘として困らない程度の作法はしっかりと教えられていた。
戸惑ったのは、その異様な雰囲気にである。
食器を配置するごく小さな音が磨き上げられた大理石の床板に反響する。
壁際に数人並んだ侍女らは、いずれも葬儀に参列するような表情をしている。手を前に組み、俯いて動かない。服の衣擦れの音すら遠慮しているようだった。
「……あの……」
席に腰を下ろしたが、どうにも落ち着かないニアナは小さな声で近くの給仕役の侍女に呼び掛けた。侍女はびくりとしたが、はい、と囁くような声で答えた。
「もしかして、わたし……なにか、迷惑、でした……?」
「えっ」
「あの、あんまり静かなので……わたしが無理に公爵様の朝食に参加したいって申し上げたから、皆さんを困らせているんじゃないかなって……」
「ああ、いいえ。とんでもないことです」
侍女はほっとしたように微笑みをこぼし、囁き声を返した。
「旦那様……ウィリオン様は、お食事中、特にご機嫌を損ねておられることが多いのです。お言葉を発されることがないのはもちろんですが、皿やカトラリーを手に取ってじっと見つめておられたり、わたしどもが身動きして音を立てると鋭く睨まれたり……」
「お皿を、睨む……です、か」
「はい。おそらく汚れや傷がお気になられたのではないでしょうか。その日は厨房担当のものが一晩中、すべての食器類を磨きなおしたそうです」
「へ、へえ……」
と、こほんと誰かの咳払い。侍女は慌てて元の位置に戻り、沈鬱な表情を浮かべた。入口の上品な木目の扉が左右に開く。侍女らが頭を下げる。ニアナも立ち上がり、入ってきた人影を迎えた。
ローディルダム公、冷血公爵ウィリオンは、今朝は純白の装いに身を包んでいた。初めて朝日の中で見る夫の顔をニアナはぼうと眺めている。寝乱れていたはずの銀髪も、無精髭の乗っていた頬もそこにはない。差し込む陽光を身にまとうようなたたずまいを、ニアナは素直に、きれいな人だなあと眺めているのである。
腰には帯剣留めが見える。よそ行きの服装なのだ、と、ニアナは判断した。
ウィリオンは足音を立てずに移動し、テーブルの前、ニアナの正面に立った。前髪の奥からじっと黒灰色の瞳をニアナに向けている。何も言わない。
朝の挨拶をすべきか迷ったニアナだったが、先ほどの侍女の言葉もあり、黙ったまま腰を落として礼をとった。ウィリオンは頷くでもなくそれを見届け、また音を立てずに侍従が引いた椅子に腰かけた。ニアナも着席する。
ごく静かに料理が運ばれ、給仕された。パン、温野菜、肉料理。いずれも上品な盛り付けだった。昨夜はごく少量の夕食しか提供されずにひどく空腹を覚え、それがもろもろの失態の一因となったニアナであったが、いまは酒が残っているためにあまり食欲がない。
見ていると、ウィリオンは無言でカトラリーを手に取り、食べ始めた。ニアナもならった。ごく少量ずつ、ゆっくりと食材を口に運ぶ。味覚神経は美味と判定したが、やはりあまり食が進まない。
と、ウィリオンが手を止めた。
じっとニアナを見つめている。
しまった。
ニアナはそう思ったし、周囲の侍女、侍従たちも同様だった。
この家の食事が気に入らないというのか。なにか文句があるのか。なにも声は出していないが、それでもウィリオンの苛立ちの声が給仕たちの胸のなかに響いたし、彼がすぐにでも立ち上がってニアナに手をあげることをみな想像した。
何人かの侍女は身動きし、ウィリオンが走れば身体を張って制止する覚悟を持った。
が、ニアナの感想は多少、異なっている。
ばれている。二日酔いが。食欲がないことが。
ニアナは改めてカトラリーを握り直し、ふっと小さく鼻から息を吐きだして気合を入れなおした。腹に力を籠める。フォークをぐっと素材に突き立て口に運ぶ。サラダを手元に手繰り寄せ、かきこむ勢いで平らげてゆく。
給仕たちは息を呑んでその様子を見守り、二人の主の顔を見比べた。そんなことで許されるはずがない。むしろ不興を買うだろう。自分が食べていないのになぜ貪っている、あるいは作法がなっていない、と。
全員の視線を受けながら、ニアナは目の前の皿をひととおり腹に収めると、なにやら目を見開いた。苦し気に肩を上下させ、グラスを取り上げ、なみなみ満たされた水を一息に飲み干した。食事が喉に詰まったのだ。
ふう、と下を向き息をついたが、周りの空気がさらに変容していることに気がついた。恐る恐る顔をあげ、見回す。
給仕たちは固まっていた。
「……あ」
小さく声を出すニアナ。
だが、本当に恐るべき事態はこのときにこそ発生した。
けふ、と、ちいさく胃に入った空気を吐き出し、ニアナは口を手で押えた。
まさかの
給仕たちは絶望した。侍女たちの数名は目を伏せ、あるいは意識を薄くし、足元をおぼつかなくした。もはや庇い立ては不可能である。誰もがこのあとの凄惨な情景を想像した。食卓のナイフの輝きを不吉なものと捉えた。
が、その時。
「……く」
苦しげな音。目を伏せた侍女は、またニアナが喉から漏らしたものと考えた。しかし、その音はテーブルを挟んで反対側からのものだったのである。
冷血公爵、ローディルダム公ウィリオンは、こぶしを口に当て、肩を震わせていた。くく、という音をその隙間から漏らしている。
嘆息、嗚咽、唸り声。
当主の振る舞いについてさまざまな可能性を頭のなかで検証した給仕たちは、しかし数拍ののち、それが笑いを堪えている様子だと判断せざるを得なくなった。全員のくちがぽかんと開かれている。
侍女のひとりは胸の前で手印を作った。彼女の神に祈ったのだ。天変地異の前触れを目の前に見たためである。
ニアナだけは、まっすぐ前を見ている。笑いを堪えているウィリオンを正面から睨みつけている。彼女には夫の声が聞こえているのだ。腹を抱えて哄笑している様子が目に見えるのだ。
おいおい、勘弁してくれよ。あんたほんとに、ご令嬢かよ?
そして胸の内で反論している。
もう、あなたがお酒なんて、出すからじゃないですか!
しばらく肩を震わせていたウィリオンは、やがて落ち着きを取り戻し、周囲を見回してわずかに眉を上げた。こほんと咳ばらいをし、カトラリーを取り直す。ただ、食材を口に運ぶ前に、皿に目を落としたままで短く言葉を出した。
「今日、王宮にゆく。食事が終わったら支度を」
「え、あ……はい」
ウィリオンが食卓で言葉を口にするのは数か月ぶりなのであるが、それに驚く余裕などもはや給仕たちには残っていない。
初めて聞く、冷血公爵の笑い声。相当の無作法を働いたように見えるのに、まっすぐに夫へ視線を返し、その打擲を封じたかに見える新しい女主人。いったいなにが起こっているのか。
全員が呆けたように口を開けたまま、目を見合わせた。
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