穏やかな朝
アビーの朝の準備
朝は、すこしだけ冷たかった。けれど空気は澄んでいて、庭の土はやわらかく、背伸びをすれば日差しのあたたかさが背中をすべっていく。わたしは、菜園の片隅でルッコラを摘んでいた。朝露でしっとりした葉の感触が、指先にやさしい。
すこし目をこらすと、葉の陰に虫がいる。昨日はいなかった気がするのに。わたしは息をひとつ吸ってから、そっと葉をめくる。まだ小さな青虫だった。見つけてしまったら、やっぱり、放ってはおけない。
ひとまず葉の上にそっと土をかぶせて、できるだけ見えないようにしておいた。それから立ち上がって振り返ったときだった。
「いたっ」
鶏小屋のほうから鋭い痛みが走った。反射的に手を引っこめると、甲に赤い線が浮いていた。さっきまで卵を取っていたところだった。
「ご、ごめん……驚かせたよね」
ニワトリはコッコッと鳴きながら、まだ羽をふくらませている。わたしは身をかがめて、低い声で何かをなだめるように言ったけれど、うまく伝わった気はしなかった。
うまくやりたいのに。やさしくしたいのに。
いつも、こういうとき、ちょっとだけ胸の奥がきゅっとなる。
手のひらで赤くなった傷を隠しながら、キッチンの水道でそっと洗った。ピリッとした痛みと冷たさが混じって、でも、それがなんだか、少し気持ちを落ち着かせた。
台所では、三女のシャナがパンのトーストを並べていた。わたしが戻ってくるのを見て、にっこり笑ってくれる。その笑顔が、朝の日差しと同じくらいやわらかかった。
「ニワトリさん、また怒ってたの?」 「ちょっとね。卵、でも取れたよ」
わたしはそう言いながら、トーストに使うハーブを小皿に分けた。お皿はシャナが選んだ、青い花柄のやつ。春らしくて、いい。
三女は、料理をするとき、すごく手際がいい。わたしが何かしようとする前に、もう次のことをしてくれていることがある。そのたびに、すこしだけ、悔しくなるような、でも安心するような気持ちになる。
「ありがと。あ、カーラまだ降りてきてないよね?」 「うん。たぶん、まだシェルター」
やっぱり。
「ごめん、呼んできてくれる? ……ちょっとだけ、わたし、スープの火見てないとで」
そう言ってから、鍋の蓋を持ち上げる。ふわっと立ちのぼった香りに、三女がちょっと鼻をくすぐられたみたいにして笑う。
ハーブと玉ねぎ、干しキノコと少しのスパイス。味はきっと、また微妙なところ。だけど、効き目はある。昨日の夜から仕込んでおいた、いちばん元気になれるやつ。
三女は頷いて、でも少しだけ足元を見て、それから表情を整えてから出ていった。
わたしは台所の窓から、裏庭の草の揺れを見る。まだ朝露が残っていて、葉っぱが光っている。三女が足音を立てないように歩いていくのが、なんとなく分かった。
シェルターは、うちの床下。パパが作った、嵐のときの避難場所を改造したもの。今はわたしの備蓄用の物置で、次女のカーラの遊び場で、三女には……ちょっと怖いところ。
でも、慣れてほしい。そんなこと、ほんとうは起きないかもしれないけど、でも、もしかしたら、すこしだけ起きるかもしれないから。パンフレットにも書いてあった。話し合って、協力して、落ち着いて動けば、みんなで乗り越えられるって。精神論かもしれないけど——わたしは、それがいちばん正しいと思う。
ラジオから、かすかに音楽が流れてきた。たぶん、カーラがつけたやつ。あの子、音だけは外に聞こえるようにしてる。細かいところだけ、ちゃんとしてるんだから。
わたしは卵を割って、三女が置いていった塩と胡椒を探した。ちょっと真似して、器の向きを揃えてみる。うまくはいかなかったけど。
朝は、もうすぐ出来上がる。
そんな感じが、キッチンの空気に、ほんのりと溶けていた。
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