冬の月

オークラ

冬の月

 やけに元気な木枯らしが、ひゅうっと音をたてて人気のない帰り道を通り抜けた。私と梅乃ちゃんは、そろってマフラーを巻きつけた首をすくめる。白い息を吐きながら、梅乃ちゃんが口をひらいた。


「でもまさか、サヤが岡部になんてねえ」

「それ何回言うの」


 何かと思った。頻度は減りつつあるが、いまだに三日に一度ほどのペースで言われるそのセリフに、小さくため息をつく。


「いや、別にい。お似合いだと思うよお、あたしは」

「お似合いって、どこ見てそう思うの?私と岡部くんとじゃつり合わない気がするけど」

「えーっと、雰囲気?落ちついてる感じが似てるっていうか」

「なんか適当なこと言ってない?」

「そんなことないよお」


 わざとらしく語尾を伸ばす梅乃ちゃんを横目で見やる。白いマフラーにうずめた口もとがにやにやと緩んでいるのが、なんとも腹立たしい。彼女が歩くリズムに合わせて、長い髪が揺れる。綺麗な黒髪に沈みかけている太陽の光が反射して、頭のてっぺんに天使の輪っかができていた。しみじみと梅乃ちゃんがつぶやく。


「サヤも恋とかするんだねえ」

「どういう意味」


 聞きながら足もとに視線を向けると、梅乃ちゃんの白い足が目に入る。うちの中学では制服の下にタイツをはくことが許可されているのに、梅乃ちゃんはいつだって足首までの靴下しかはかない。また木枯らしが吹いて、スカートを揺らす。バレー部の練習でしなやかに鍛えられた細い足は、風が吹きつけるとよりいっそう華奢に見えた。


「サヤって恋愛とか興味ないのかと思ってたから」

「…うん。なかった」

「あ、やっぱり?この前まで全然そういう話しなかったもんね」


 そんなに岡部がミリョクテキだったんだあ。ちゃかす梅乃ちゃんに、じとりとした視線だけ向けた。


 梅乃ちゃんの言うように、私は岡部くんのことが好きだ。背が高くて、バスケ部のキャプテンで、少しかすれた低めの声が大人っぽい。彼の周りにはいつも穏やかな空気が漂っていて、そこがなんだか、他の男の子と違うような感じがしていた。でも、別に一目惚れだったわけじゃない。岡部くんが私の「好きな人」になったのは、数ヶ月前のある出来事がきっかけだった。


 その日の昼休み、私は両腕いっぱいにノートを抱えて廊下を歩いていた。日直の仕事で取りに来たクラス全員分のノートを、往復するのが面倒で一度に運ぼうとした結果がこれだ。積み重ねたノートで前が見えない。私はバランスをとりながら、教室に向かって慎重に足を進めた。


 そこに、誰かが正面からぶつかってきた。


「すいませんっ!」


 相手の声と同時に、ノートが盛大な音をたてて床に散らばる。すいません、と言って拾おうとしたとき、ぶつかってきた彼の後ろから声がした。


「あれ、カズ?」


 それが岡部くんだった。ふたりの男の子と一緒にいる。


「お前、ぶつかったの?」

「どこ見てたんだよ」


 はやす二人を残し、岡部くんは真っすぐこちらに向かってきて、落ちたノートを拾い始めた。しゃべっていた男の子たちも、それを見て同じように拾ってくれる。ノートはすぐに集まった。


「ありがとう」


 そう言って受け取ろうとすると、岡部くんは首を振った。


「持ってくよ。クラスのやつだろ?ひとりで持つには多そうだし」

「いやタカヒロ、ぶつかったの俺だし、俺がやるって」

「お前、先生に呼ばれてたんじゃないの?」


 そう言われた彼は「やっべえそうだった」と見る間に慌て始めた。あたふたと視線を泳がせ、私に向かって勢いよく手を合わせる。


「ほんとごめん!次から気をつけます!」


 それから廊下をダッシュして去っていった。気をつけると言ったばかりなのに、危なっかしい。その忙しい様子にくすりと笑ってから、岡部くんは、じゃ行こっか、と教室に向かって歩き始めた。


 それからだ。ふとしたときに、岡部くんのことを目で追ってしまうようになったのは。朝、教室に着いたとき。帰り道、バスケ部の男の子たちの声が聞こえたとき。あのときの笑顔を思い出すと、眼鏡の奥の地味な一重すらも、なんだかかっこよく見えてしまう。


 これが恋というやつか。経験が無かっただけに、私は妙に納得していた。今まで他の人の話には色々聞いていたが、どうにもピンとこなかったのだ。それがなんだか、腑に落ちた。


 そういうわけで、この前、梅乃ちゃんの「サヤって好きな人とかいる?」という質問に「岡部くん」と答えて以来、梅乃ちゃんはこうして毎日のようにそのことをいじってくる。


「まあ、なんでもできるしね、岡部。運動も、勉強も。優しいし、大人っぽいし」


 ひとりで頷いている梅乃ちゃんの気を私の話からそらしたくて、聞いてみる。


「梅乃ちゃんはいないの、好きな人?」

「んんー、あたし理想高いからなあ」

「じゃあ好きなタイプは?」

「なに、どしたの?…タイプは、うーん…知的で、クールな人、かな」

「へえ」


 ちょっと意外だった。梅乃ちゃんの性格的に、ムードメーカーっぽい人が好みなのかと思いこんでいた。


「ちなみに彼氏は?」

「いないってば」


 即答する梅乃ちゃんに目を向ける。


 艶のある長い黒髪と、透き通るように白い肌。切れ長の目を縁取るまつげは驚くほど長くて、その上の眉もきりっとしている。梅乃ちゃんは、女の子の私でもどきどきしてしまうほどの美人だ。さらには運動もできて、バレーをやっているせいかスタイルもいい。性格も明るいし、話していて楽しい。


 ……本当にいないのだろうか。こんな梅乃ちゃんが、モテないはずはない。私が知らないだけなのかもしれない。いや、もちろん人に言わなければいけないことではない。ただ、一日のほとんどを一緒に過ごしているのに、私が教えてもらっていないだけなのだとしたら、それはちょっと寂しいような気がする。いくら友だちでも、知らないことがあるのは当たり前だけど。……でも。


——いなかったら、いいな。


「……え?」


 思わず足を止める。たった今自分が考えたことが、信じられなかった。


 友だちに恋人がいるのは、素敵なことだ。まだ彼氏じゃなくたって、梅乃ちゃんに好きな人がいるなら、私は全力で応援するべきなのだ。別にいたからって私たちが友だちじゃなくなるわけじゃないのに。なのに。


 どうして、私は。


「サヤ?どした?」


 数歩先で、梅乃ちゃんがこっちを振り返っていた。


「ううん。なんでもない」


 小走りで追いつき、また横に並んで歩きだす。平静を装っていたが、私はまだ梅乃ちゃんの顔を見ることができなかった。


「……彼氏、か」


 頭の中を整理しようと小さく深呼吸を繰り返していたところに、突然梅乃ちゃんの声がした。私の胸のうちを言い当てるような言葉にどきりとする。梅乃ちゃんは「いや、あのね」と眉を下げた。


「サヤに彼氏ができたら、ちょっとさみしいな、と思って」


 そう言って柔らかく笑う。それから一瞬固まって、慌てたように付け足した。


「違うよ⁈岡部と付き合ってほしくないって意味じゃないよ?それは、マジでめちゃくちゃ応援してるから!」

「…ありがとう」


 かろうじて返事をしながらも、私の意識はすでに別のところにあった。


『サヤに彼氏ができたら、ちょっとさみしいな、と思って』


 さっきの一言だけが、頭の中を何度も反響する。


——梅乃ちゃんも、私に彼氏ができたら寂しいって、思ってくれてるんだ。


 …なんだろう、この感じ。胸がなんだか、むずがゆくて、くすぐったい。ふわふわしているけれど、ちょっと切ないような、苦しいような。指の先は凍りそうに冷たいのに、なぜだか私の体の芯のほうは、寒さなんて気にならないほどぽかぽかしてきている。


「もうすぐ受験生だね」


梅乃ちゃんの髪が揺れる。


「そうだね」

「勉強、頑張らないと。…この前のテスト、ヤバかったし」

「うん」


 私のそっけない相槌にも、梅乃ちゃんが気を悪くした様子はなかった。穏やかな沈黙が広がる。


 ゆっくりと息を吸い込んだ。張りつめた冬の空気が鼻の奥を削って、それで私は、少し泣きそうになってしまった。吸い込んだ息をマフラーに向かってほうっと吐き出して、ぐちゃぐちゃになった感情を外に逃がす。微かなぬくもりとともに白い息が宙にとけた。空を見上げると、紫がかった空に白い月が出ていた。


「あ、じゃあまた明日」


 十字路に来て、私たちは足を止めた。ここで、梅乃ちゃんは右に、私は左に分かれて家に帰る。


「ばいばい」


 そう言って体を左に向けたとき、梅乃ちゃんの左手が、かすかに私の右手に当たった。かじかんだ自分の手よりもさらに冷えたその手が触れた瞬間に、心臓の鼓動が高鳴る。梅乃ちゃんは右手で、私は左手で手を振って、それぞれの家へと歩き出した。


 道が分かれてからしばらくしても、私の右手は、梅乃ちゃんの手が当たったところだけが、なぜかじんとしたままだった。あんなに冷えていたら風邪を引かないかと、何かから目を逸らすように考える。胸はまだ、あたたかかった。


 次の日は塾だった。白い壁に囲まれた教室のいちばん後ろの席で、前回の授業のノートを眺めていると、頭上から声がした。


「隣いい?」


 低くかすれた声に、体がぴくりと反応する。ゆっくりと顔を上げると、トレーナーの上からダッフルコートを着た岡部くんが私を見つめていた。突然のことに思考がフリーズする。


「…いいよ」


 なんとかそれだけ返すと、岡部くんは「ありがとう」と言って背負っていたリュックサックを下ろした。


 どうしよう。


 私と岡部くんは同じ塾に通っている。少し前に岡部くんが私のクラスに移動してきてから、毎週顔は合わせていたけれど、隣の席に座るのはこれが初めてだ。急にどうしたんだろう。というか、どうしたらいいんだろう。さっきの私の返事は、いかんせん不愛想すぎではなかっただろうか。どうしてすぐに目をそらしてしまったんだろう。やっぱり素敵な声だった。私服だって毎週見かけてはいたけど、近くで見るともっとかっこいい。今自分の隣に好きな人がいるという事実にようやく気がついて、私がひとりごちゃごちゃと考えていると、


「目黒さんてさ」


 岡部くんに、名前を呼ばれた。挙動不審にならないよう気をつけながら彼のいる方向に顔を向ける。


「数学、得意?」

「数学…は、わりと、得意かな。どうして?」

「いや、俺が数学苦手で」

「そうだったんだ」

「うん。だからもし、目黒さんが得意だったら、今度ちょっと教えてもらえないかなあと思ったんだけど」


 真っすぐに目を見られる。緑のフレームの眼鏡に、天井の蛍光灯が反射していた。


 岡部くんが、私に、勉強を教えてほしいと言っている。


「……私なんかでよければ、もちろん」

「マジで?ありがとう!助かる!」

「役に立てるかはわかんないけどね」


 ちょうどそのとき、教室に先生が入ってきて私たちはそれぞれ前を向いた。驚いた。私と岡部くんはあのとき以来、あまり話したことがない。単純に接点がなかったというのもある。これを機に、もっと仲良くなれるかもしれない。告白したいとか、付き合いたいとか、まだそんな風に思うわけではないが、それでもやはり、ちょっと浮かれてしまう。


 そこで、先生の後について、ひとりの女の子が入ってきていることに気づいた。


 あれは。


「えー、今日から一緒に勉強することになった、若槻梅乃さんです」


 そう先生が紹介したのは、他でもない梅乃ちゃんだった。


「目黒さん、ええと、灰色のセーターの女の子の隣に座ってね」


 あろうことか、先生は梅乃ちゃんに私の隣の席を示した。ホワイトボードの前に立っていた梅乃ちゃんが近づいて来る。彼女は通路側の席に座っている岡部くんに目配せをして、それから私の左隣の椅子を引いた。


「よろしくね」


 突然のことに、言葉を失っていた私に、梅乃ちゃんはそう言っていたずらっぽく笑った。授業が始まる。けれど、先生の言葉は全く耳に入ってこなかった。


 心臓がうるさい。胸が痛い。顔が熱い。


 私、どうしたんだろう。予想外のことだったからだろうか。梅乃ちゃんは、同じ塾の、しかも同じクラスに入ることなんて、今まで一言も言っていなかった。でも、なんだろう。梅乃ちゃんが塾に入ったことよりも、いつもと違うこの距離感に、なんだかすごく緊張する。


 プリントの上を動く、ほっそりとした手。形のいい爪のひとつひとつがよく見える。梅乃ちゃんの動きが、逐一感じられるほど近い。意識が梅乃ちゃんの座っている左側にばかり集中する。胸が、このあいだみたいにくすぐったくて、切なくて、ちょっと痺れて痛い、気がする。


 おかしい。梅乃ちゃんとは毎日一緒にいるのに。いつもより距離が近いからって、心臓がこんなに速く動いて、顔まで熱くなるなんて。


 なんだろう。こんなの知らない。これじゃまるで、


——好きな人に近づいたときみたいだ。


 気づいて、息が止まった。


 それから、もうまったく集中できそうにない授業のことを思って、ため息をついた。


「ちょっとしたサプライズだよ」


 授業のあと、駅に向かって歩きながら梅乃ちゃんは言った。


「もうすぐ受験生だし、塾とか行ったほうがいいんじゃないかっていう話になって。どこの塾がいいのかよくわかんなかったんだけど、そういえばサヤは頭いいから、同じところに行こうと思って。クラスが一緒になったのは偶然だけど」


 同じクラスってわかったから、黙っといてびっくりさせようと思ったんだ、と楽しそうに告げる。そのサプライズのせいで、こっちはさんざんだった。結局ほとんど頭に入らなかった授業を思い出して夜空を仰ぐ。


「びっくりした?」

「うん」それはもう。


 サヤでもびっくりするのか!と心底驚いたように梅乃ちゃんが目を見開く。それから、いつものようにそれぞれの歩幅で、横に並んで駅までの道を歩く。


 焦って口だけを動かし、曖昧な笑みばかり浮かべていた去年までのことを思い出した。上手くしゃべろうとするたびに私の周りからは人が減っていき、残された私はへらへらと笑うことしかできなかった。そんなとき、梅乃ちゃんに出会った。初めから私に屈託なく話しかけてきた梅乃ちゃんは、私がいくら空回りしてもずっとそばにいてくれた。それから私は、無理に沈黙を埋めようとするのをやめた。


「あ、ねえ見て」


 駅のホームにあるベンチに座ると、梅乃ちゃんが後ろを指した。



「月だ」


 西のほうの空に、少し欠けた月が浮かんでいた。ところどころ雲でぼやけたそれは、今も昔も、同じところから人々を照らし、見守っていた。


「きれいだね」


 きれいだった。月も、梅乃ちゃんも。


 ホームに設置されたライトが、彼女を上から蒼白く照らす。長いまつげが、寒さでかすかに赤くなった頬が、夜空を映す澄んだ瞳が、本当にきれいだと思った。


 梅乃ちゃんの黒い髪が一房、さらりと肩からすべりおちた。それを耳にかけ直してから、梅乃ちゃんはこっちを向いてにへっと笑い、「写真撮ろっかな」とかばんの中を探り始めた。


 一度わかったと思った「恋」がなんなのかは、またわからなくなってしまった。岡部くんのことだって好きだし、もちろん梅乃ちゃんのことも大好きだけれど、それが「恋」なのかという問いにはまだ答えられない。答えなんか、出なくたっていい。これから、ふたりを嫌いになるかもしれない。他の誰かを好きになるかもしれない。それならそれでいい。私は私なりに考えよう。今はとにかく、岡部くんに、梅乃ちゃんに出会えて、よかったと思う。


 ベンチの背もたれに腕をかけて隣を見る。空にカメラを向ける梅乃ちゃんは、何よりもきれいで、月なんか比べものにならないくらい眩しかった。

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