⑨魔笛の声

 筋の一本も見当たらない、実に爽やかな顔立ちで、彼はそこに立っていた。

 少しだけやれやれ、といった感じで、まるで自転車に苦闘する子供から補助輪をつけろと抗議される父親のような、穏やかな表情だった。


「え”――っ、っ、」


 ノドに爪が刺さったように、ソレを見た私は汚い声を鳴らした。

 森を掻き分け射した月明かりで見えた、その顔の色は、血塗あかだった。


「ラスタフ!!ッ」


 あれだけ出すなと言われた大声で名を呼び、何故かテントから少し離れていた彼へと駆けつけた。


「ッ!?、ぐふぇ、」


 走り出したのも束の間、またしても、今度は脇腹に栓抜きが刺されたような痛みが走った。足取りはやがてジワジワと鈍く沈みだし、しまいには立つことすらできなくなり、そのまま倒れ伏してしまった。

 クソっ、こんなときに――


「っ何だってんだよ!、筋肉痛ならまだだろうが!」


 悪態を吐きながらも這い上がる……ダメだ、立つ力も出ない。ハイハイでいいから進むしかない。

 途中翼や脚にぶつかる、何か生暖かい不思議な雑草のようなモノがあった。未踏領域だ、土も特別仕様なんだろう。今はそんなことどうでも良いんだと割り切って、ラスタフの元へ向かった。


「ラスタフ!!」


 手探りで明らかな人工物のヒモを掴んで、もう一度そう叫んだ。

 彼は座っていた。ほぼ横たわるようにだった。月明かりの中、今更ながらさっきの光るヤツを持ってこればよかったと、そう後悔しながら、手探りで血の出処を探した。


「ぐぅ!ッ、い”いッ、何?、痛い痛い何!!?、何だよッさっきからもう!! 」


 またしても突然射された脇腹のナイフに、私は電流を流されたようにのたうち回る。何でだ!、こんなこと今までなかったのに!!


「ハァ……ハァ……う、動くな。傷に障るぞ」

「ラスタフ!?、生きてた!よかった!てかその失血で喋っちゃダメ! 静かにして!」

「安心しろ、そのうち勝手に大人しくなるさ……」

「ウソウソウソ超ウソ!!いっぱい話そ!オマエ今夜は寝かせないゼ! てかコレ何!?」

「……バルガロドンの群れだ。すまない、彼らの知恵を侮って、テントへの攻撃を許してしまった。」

「誰だよ! 知らない!」


 軽くひねるくらいじゃミリも出そうになかった知恵を求めてグルグル振り回した首の先、ブレブレの司会の中でも、すぐにその正体に気がついた。自分が入っていたテントには無数の穴と、とがった石コロが散らばっていたから。


 そうだった。此処は泣く子も黙って冷たくなる未踏領域、私が寝てる間にモンスターに――


 ようやく合点が行った表情で私は、先ほどから謎の激痛が走る脇腹に手を当てる。明らかに肌とは違う布の感触があった。ぐしゅと音を立てた湿った布と、どこからかほのかに香った鉄のにおいに、彼がなぜさっき謝って来たのかをようやく理解した。


「爪や牙で石器をつくるのさ、エモノに向かってまき散らし――

「話題!!話題変えよう!! 生物の授業はまた今度にして命の授業しよう!」

「……全員倒してある。応急処置も、一応臭いを誤魔化すモノも撒いた。しばらく休んだら、元来た道をたどって帰るんだ」

「いやいやぁ、手負いで倍の体重キャリーするのは……

「…………、」


 彼は沈黙した。その沈黙は黒く深く、おぞましいほどの狂気が手の花びらとなって、私の首を、一斉にぎゅうと締めた。


「ダメに決まってんじゃん! その顔やめてよ!!」

「倫理観なんて捨てた方が良い、ココじゃ何の役にも立たない」

「役に立ってるから私生きてるんでしょ! 何? 公務員サマともあろうものが倫理と道徳ぎむきょーいく未履修ろせなワケ!?」


 気丈に悪態をついてみれども、凄みなんて微塵も出ない。ただ重機に触れたように手が震えて、力なくまたうずくまる。両のこぶしで握りしめた痛みには、恐怖よりも怒りよりも、絶望がこもっていた。

 この男はそういう生き物なのだ。昨日の今日であった犯罪者の為に、自身から吹き出る底の抜けたような量の失血をムシして、人のために包帯を巻いてしまう。そんな生存本能をポイ捨てしてしまう男なのだ。


 "ふざけんな!!"


 声にならない声で怒鳴った。コレが覚悟のホイッスルだ。

 分けてあげたい程にやかましい心音の加速にいらだちながら、力任せにテントのヒモを引き抜く。固さを確かめるように二、三回力任せにピンと伸ばした後、今にも燃えてなくなってしまいそうな彼の身体を、その紐を使って自分の身体に縛り付けた。


「はぁ、何を……」

「うっさい!」


 抵抗しようとした手を払いのけながら、赤ちゃんにしてはずいぶんと重い身体を強引に背負う。ようやく自由になった手でポーチをまさぐると、血まみれになった地図を開いて月明かりに押しつけた。


「ここからなら、ブリーズィーベンは……

「よせ。まだ二日は……」

「陸路でしょソレ。直線距離ならむしろ帰るより近いじゃんか」

「奥のほうが環境も生態系も苛烈だ。死ぬぞ……ホントに――、」


「良いよ、」


「……っ!、」

「――どのみちね、こんなトコにアンタ置いてったら、首 吊って死ぬよ私。一週間もたたないうちに」

「…………」

「大丈夫大丈夫、職業柄夜勤には慣れてるからさ、」

「…………」

「感謝してるんだよ?こーみえてさ、」

「…………」

「――ちゃんと捕まっててよ。"全速力" で行くから」


 彼は黙った。ずっと黙っていた。返事をしなかった。

 諦めか、それとも承諾か。まぁどっちでもいいんだけどね今更。やることは変わらないし。

 ま、あとはその目で見ておくれよ、覚悟を決めた目の前の、女の顔に見とれてくれたまえよ、

 そうだ。よくわかってるじゃないか。


 その通りさ、もう無駄さ。切った舵は折って捨てたんだ、羽があれば十分だから。


 強がりの苦笑いを浮かべ、深呼吸を一回。二回。三回。これ以上ない程に、破裂寸前まで酸素を全身に行き渡らせる。 

 全ての赤血球に休日出勤サビ残の電報を打って、私は笛を持った。いつもの白い体育教師の持ってるヤツとは違う、おどろおどろしい、黒く濁った、大きな、竜の角を使った特別製の笛を持った。

 口を付けた。そっと、先端に、祈るように。飛び込んでくるのは今尚 遺る、すさまじい生命としての強さ。むせ返るような、禍々しさすら感じさせる重い風が呑み込んでくるようだった。



[ォ"オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”]



 地鳴りのような、魂に訴えかけるようなおとがこだます。地脈を駆け巡るエネルギーが、足元、鉤爪から一気に押し寄せては、この体重30キロと少しの小さな身体の中を、松明を付けた猛牛のように駆け回った。


「集え――祭泰演奏Orchestra


 呟いた途端、笛から飛び出したドス黒い魔力が腕のようになって私を取り囲む。渦を巻き繭を成したソレは、しばらく中で起きた爆発を押さえ込むように暴れ狂うと、やがてアゲハの鱗粉のようになって四散した。





 黒繭から解放され、再び月明かりに照らされた私の身体は、原型がなくなるほどの豹変を見せていた。銀の髪には雷を思わせる紅いラインがほとばしり、美しい翠が自慢だったハズの翼は、カラスのような漆黒へと染められた。両の瞳は淡い紫を秘め、健康的かどうかはさておき、ほどほどに日焼けしていただけの白い肌には、暴熱をまとう血を煮詰めたような隈取が、まるで拘束具のように顔から脚まで絡みついていた。


「んgぃ、ぐぅ……ッ!」


 脇腹の刺し傷を消し炭にするレベルの高熱と激痛に歪められた顔をそのままに、背中に乗せたはずの男の安否を確認する。

 彼は口を開けたまま、何度かそろわない瞬きを繰り返していた。目の前で突如 悪魔のような姿へと変貌を遂げた少女に、その表情から最期まで驚愕はこびりついていた。


「……へ、へへっ、驚いたっしょ。すぐ着くからね」


 ムリに作った笑顔からは、さっきと同じ鉄の味がした。頼むよノド、人事評価は弾むからサ、もうチョットダケ、お願いね、

 ふざけたおまじない一つ。許容範囲を大幅に超えた対価を払い続け、壊れだした身体こようぬしに、もう一度私は、右手でムチを打った。強く強く、ヒザめがけてたたき落とした。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。そう何度も既につぶれた喉で言い聞かせた。


 そして、高く高く上空、唯一の目印、月を見据えた。



「征こう、雲海を蹴散らして――

  『!!藤波の行軍 《Il Volo Del Calabrone》!!!』


 全身の骨を打ち鳴らす程の声で絶叫し、地面をマントルまで踏み抜く勢いで蹴り飛ばした。

 バリバリと竜巻に爆弾が落ちたような轟音の中、目はおろか耳すら使い物にならない、そのまま月を打ち落とす程の衝撃で、私たちの身体は重力を忘れた。


 やがて周囲に六枚、漆黒の巨大な翅が顕れて。いつまでもいつまでも、彼らは空を引き裂くような風を吹かす。

 今からでも西に飛べば、そのまま太陽にでも追いつけそうだ。そんな確信を覚えるほどの加速を見せて、深夜、二人ぼっちの逃避行。


 夏さざれ、魑魅魍魎や森の上、星ふれ月夜にともしびを載せて。

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