⑥食物連鎖の最底辺
遂に踏み入った鬱蒼とした樹海。木々はのびのびと、草木は青々と、木洩れ日は優しく額を照らす。どこからともなく鳴いたセミの合唱は、この森に生きる命の強さを知らせるようだった。
なんだいどうして、普通の森じゃ無いか。あの入り口にあったおびただしい数の警告はどうしたというのか、まるで招待状のように前方に届いたニワトリ(推定10メートル)の頭はどうしたというんだ。
ざくざくざく。そんな杞憂もよそに単調に。続いたのは草を踏み潰す音。強く強く脚にまとわりついて。ああそうか、人が入ることの無い場所に、山道だなんて都合の良いモノは無かったのをわすれていた。
「後ろから……ふっ、離れるなッ、よ?」
ブツ切りの声が前方からかかる。私と違って腰まで伸びた草木をナタで切りながらの進行をしていた彼の背中には、すでに土砂降りの汗が降っていた。手伝おうか、なんて言えない情けないヒヨコでゴメンナサイ。いやきっかけ? 切っ掛けさえあれば私だってさ……
「やってみるか?」
「ラスタフくんすご~~い力持ち~~カッコィイ~~!! キャー素敵ー」
「……応援、感謝する」
「なんだぁその顔はぁキサマぁ、上官の命令に逆らうのかぁ~~」
わざとらしくゆがめた目つきに、男はフッとほくそ笑むと、そのまま、何も言わずに前を向いてしまった。そして片手でナタを振りながらリュックのポケットに手を突っ込むと、一枚の小さな手帳を取り出してきた。
訝しみながら手に取る。目に移す。その瞬間、私の両目はそのまま、産まれたての獣道へと、頭蓋骨の穴からこぼれ落ちていった。ヒザは毎時3000回の震えで遠心分離され、そのまま潰れて消滅した。
「ハハ、ほんとなら父親でもおかしくないんだがな、あいにく仕事ばかりうまくなってしまったよ、」
後ろで驚愕のあまり原型がなくなっていた女に、どこか自慢げに男は笑った。
『ヘンデルス共和国 国境警備部隊総隊長 ガラン・ラスタフ (27)』
そんないかにも過ぎる肩書の書かれた軍人としての身分証明証?には、読むどころか数えることすら
ですよね!! いやですよね!! そりゃ国境警備の隊長格なんてそりゃよっぽどですよね!!
ただそれにしても厳つすぎる肩書きと、明らかにヒト二、三人埋めてそうな顔写真、そしてナゾの数字。SCORE 258 う~んなんだろう。へいわなよのなかで育った頭の私には何の数字か、イマイチピンと来ないのだ。というかコレあれだ、ピント合わせちゃダメな奴だ。
「らすたふ……サン?」
「いまさら止してくれ、ラスタフで良いよ」
「失礼いたしました……ラスタフ、サマ」
「だから良いって! というかソレだけへりくだるなら手伝って――
「ソレは違う」
向けられたナタ。突如としてトーンが落ち、拒絶の手のひらで返す私。
「違うのか……」
「うん。ちがう」
「ハァ……君、意外とワガママだな」
何が意外なのかは知らないけれど、少しばかりあきれた表情で、彼は前を向いてしまった。ざくざくざく。再び草木を切り開きながら、山道を進み出した。
「――止まれ!)
幾分ほどたっただろうか。静かな警告とともに、突如前方の脚が止まった。私?、モチロン見てない。ぶつかった。コイツ背中おっきいな、てかビチャビチャだ。
「チョット、どうしたのさイキ――(シィッ! 声出すな)
朗らかな雰囲気が一変、汗の染みた軍手が口を塞ぐ。戸惑いつつも動けない私の鼻に、森は柔く口づけをする。
「ん……」
塞がれたまま返事をする。手の持ち主は一切視線をこちらに向けることなく、じーっと前方、くさびを打ったかのように睨み続けていた。
「ガサッ、ガサッ、」
数秒ばかりの静寂を過ごした後、その瞬間は訪れる。茂みはついに声を上げたのだ。
「フゥ――――ッッッ、」
風の吹く音。強く、何かが漏れ出すような、ガスが漏れたかのような不気味さをまとって。
「カラカラカラカラ……」
空き缶のような音。軽く、中身の入ってない。しかしなぜかのしかかるような、さっきまであった楽観的な雰囲気を押しつぶすような重圧を
音の正体はやがてその全貌をあらわにする。エモノを石に変えるような鋭く縦に線の入った赤い瞳と、ヒトを丸呑みにできそうなクチ。チロチロと動く二叉の舌と、鋭い一対の牙が時折のぞいている。首から向こう、隠す気のない黄色と白の縞模様が毒々しい、細長い胴体が目に入る。だがそれだけだった。それ以上何もなかった、これしかなかったんだ。
この目の前の怪物には、鋭い爪も丈夫な脚も、雄大な翼も無かった。
いや、必要なかった。
――蛇だった。間違いなかった。
「ヒィッッ――(シィッ!!)
思わず吐き出しそうになった悲鳴を、すんでのところで押し返される。のどを突き抜け歯を吹き飛ばしたハズの悲痛が、軍手に強くせき止められる。
(クリーシェリウスか……デカいな。ほかの山にいる仲間とはワケが違う)
庭でクワガタを見つけた時のような口ぶりでつぶやく。わかった。わかったぞこの男バカだろ!?、名前なんてどうでもいいでしょうよ!、目の前見て。スモールライトか生命保険が必要でしょう!!
(落ち着くんだ。こちらにおびえているだけだよ。大きな声を出さなければ大丈夫だ)
落ち着く?、落ちるのは命、喰われるのよ私。こんな状況で落ち着いていられる分けないじゃんってウワ! 近づいてきた!!
細長い……、いや前言撤回。距離と長さで勘違いしていたみたい。明らかに牛を丸のみにできるサイズの胴体だった。ゆっくりと、だけど確実にじりじりと、草木を紙のようになぎ倒しながら蛇は近づいてきた。
止める手立てなんてなかった。恐怖で足どころか手も口も、いよいよ心臓まですくんでしまうのではないかと思えた。足元まで迫る命を呑み込む巨大な口を前に、目は、ただ泳ぐだけだった。
(いいか動くな、動くなよ。声も出しちゃだめだ。未知の存在に口を出すほどコイツは馬鹿じゃないんだ。おとなしく、無害に徹するんだ)
横からささやいてくるラスタフの声。無理だ、無理だよ、だって女の子だもん……じゃないだろコレ、普通に男でもマッチョでも全員エサにしかなんないでしょうよ。ご覧くださいこの口を。丸のみですよ丸のみ。かじる必要なんてありませんでしたよ。よかったね、いたくないね、ひと思いだね。頼む誰か助けて!
こらえる間もなく漏れ出した涙、ためる間もなく滴り落ちて。哀愁と憐憫と、それから絶望を一つまみ。どうしようもなく迫りくる食物連鎖に覚悟をキメそうになったその時、なんて顔なく死神は、私の背中を押すのだった。
(コォォォォォお――――ッっ!!!)
声にならない吐息が漏れる。足元、なんと蛇は巻き付いてきたのだ。
「フ――っっ、フ――ッッ!!、フ――ッッ!!、・・・・・・」
SOS、SOS!!こちら管制塔こちら管制塔!!
藍で染めたほど哀で染まった貌。注射器のように吸い取られた生気と血色をそのままに、震え続ける歯を必死に鳴らして前の男に向かって懇願する。
(落ち着け、おちつけ、だいじょうぶだ。絶対に助かる!!)
(助かるわけないでしょうがアナタ!! もうあs――腰まで来てんですよ人生終了の一口が!! 体の半分がこの世のすべてに感謝をこめられちゃってんですよ!!)
(警戒しているだけだ。ヒューマンと違って君の種族は往来が少ないから)
(ちょっと!! 胸まで来てる!!)
(声を出すな、大丈夫だ、俺がふさいでる!!)
(ムリムリムリムリムリ首まで来た首までキタ!!これきゅってされるやつだ!!知ってる!! キュッ☆ってされるやつだぁ)
(されない!!俺もそこまで行ったことはあるが今こうして五体満足で生きてる!!」
取り乱す私に向けて、彼の声量が少しだけ大きくなった、そんな気がした。その瞬間だった。
「――ペロッ、」
首筋、死神の鎌は二又に裂けて、獲物の首をあやしくなぞった。
「ぎぃやあぁぁあああああぁあああああああぁあぁぁぁああああ!!!!」
反射だった。その場で私のノドは、残っていた酸素すべてを叫び声に変えた。
「出すなって言った!!」
「無理だって!!無理ですって!!!」
「――ッシャァァ、っっフゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!」
「いやぁああ臨戦態勢だぁぁ!!ごべんなざいい!!」
「逃げるぞ!、下がれ!!」
「どこにさ! 巻き付かれてるんですケド!」
泣きながら叫んだその瞬間、身体が引っ張られるように重力を忘れた。
日々のセルフダイエットでストライキを起こされたかのように凹んだ脇腹にフックのように引っ掛けられたそのゴツゴツしい腕は、まるでボールでも抱えるようにヒョイと泣き叫ぶ私を持ち上げた。
「ぅぇえ?」
余りにも抵抗無く浮いた自分の身体に、噛み切れない恐怖が背中を伝う。声も思わず漏れた。あとゲロも出そう。
「むんっ!!」
字面と声の野太さが一致しない気合を上げると、腕の持ち主、ラスタフは未だに私にまとわりついていた大蛇の胴体を掴、掴んだ。つかんじゃった。そしてそのまま、ツタを払うかのように近くの木に向けて投げ飛ばした。
いや、バケモン……
屋根から捨てられた木片のような音を鳴らして、幹に激突した蛇はノロノロと起き上がる。クルルと何か、勢いも殺気も落ちた声を荒げては、刺すようにこちらを睨みつけた。赤い瞳がランと光った。その瞬間だった。
『――鋼鐵隊の足跡 《Rheinmetall Brecher》!』
胸のふくらみが目でもわかるほど大きく息を吸った横の男の口から、淡白にぶつ切りの拍子で、強く叫び声が放たれた。
ドリルのように風が彼の腕を囲んだかと思うと、ボクサーのラッシュのように、蛇へ向かって両腕を振りかざした。
『バリバリバリバリッッ!!!』
「きゃぁああいやぁ!! 神しゃまぁ!!」
空気と大地と、それから命が抉れる音。子供のような声を上げて、思わず耳をふさぎ、目をつむり、その場でふさぎ込んでしまうほどの轟音だった。
――あれ?、知ってる。知ってるぞこの感覚。私の記憶は覚えている。なんだっけ、うずくまって、たしかタンスの中で……?
幼すぎてよく覚えていない、ケドたぶん思い出さないほうが精神衛生上 良いであろう記憶。皮肉にもこの、耳を塞ごうが翼ごと貫いてくる主犯は、記憶の沼に沈みそうになる私の集中をそぎ続けていた。
ラスタフ、ラスタフや、ラスタフさんや。この木々を、大地を引きちぎるような音はいつまで続くんでしょうか。
老婆のように祈っていた。ほんの数秒の出来事だった。この間、私は、ずっとうずくまる以外何もしていなかったはずなのに、まるでフルマラソンのラストのような、街に吹雪がやってきたときのような、そんな耐えがたい災禍から生き残ったときのような解放感と疲弊にくるまれていた。
音が静まり尚、目が開けられない。腕が鍵のように外れない。なぜか脚がすくんで、ヒザが戻らなくて、歯だけがガチガチと、弱く鳴っている。
そんなじかんが、いつまでもいつまでもつづいた。
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